掌上の雪 −沖田総司残照−

六章 千穂



洛西壬生。
四条大宮から少し南西に入ったこの界限も、今は民家やビルが建ち並ぶ都会だが、新選組が屯所を構えていた幕末の頃は、一面田圃や壬生菜畑が広がる郊外の農村といった風情だった。
その田舎にも、秋は彩りを添えていく。
午後の日差しに、空が高い。壬生寺の境内にある大きな銀杏が、金色に色づいた葉を散らしている。
「総司。公用で、今熊野くんだりまで行かねばならん。つきあってくれねえか」
その日、朝から気分が悪く横になっていた総司は、土方の声に跳ね起きた。断れば、土方のことだ。またひとりで出掛けていくにきまっている。
(あの人は、自分の立場ってものが全然わかってないんだから。危なくって、見てられないよ)
ことさらに元気そうな顔をつくって、馬丁の忠助と三人、屯所を出た。だが、どうもいけない。
河原町にさしかかったころには、熱のために足元が定まらなくなり、それでも必死に平静を装っていたが、とうとう清水坂の手前まできて、動けなくなってしまった。
さすがに土方はさとい。総司の真意に気づいて、いたわるようなまなざしを向けた。
「俺のために無理をしたな?――すまん、総司。大丈夫か?」
「すみません。かえって足手まといになってしまって……」
こらえても、手のひらの隙間から咳があふれでる。
「黙っていろ!」
土方は、石垣の下に総司を座らせると、そっと額に手をあてた。燃えるように熱い。
「ひどい熱じゃねえか。馬鹿野郎。どうして具合が悪いのを黙っていたんだ?」
「だって、わたしは土方さんのお目付役ですよ。ひとりで行かせて、土方さんにもしものことがあったら、わたしが近藤先生に叱られる……」
「――総司」
土方は、ほっとため息をつくと、なんとも名状しがたい、甘酸っぱいような顔で総司を見つめた。新選組副長には似つかわしくない、やさしい眸だ。
(ああ……。子どもの頃に、試衛館の道場裏で見たのと同じ眸だ)

その時、それまで不安そうにことの成り行きを見守っていた忠助が、遠慮がちに声をかけた。
「土方先生。手前が、駕篭を捜してまいりましょう」
「いや、このあたりじゃ、そう簡単には拾えねえだろう。それにこいつは、少し休ませねえと――。今動かすのは無理だ」
京では、流しの辻駕篭はあまり多くないのだ。
土方はしばらく思案していたが、
「そうだ、忠助。この先に俺の知り合いの家がある。そこまで、こいつを運んでくれねえか」
「へえ。承知いたしました」
そんな会話が聞こえてきて、総司は首筋の毛を逆立てた。
(土方さんの知り合いの家だって?――あの人のところだ)

――冗談じゃないっ!

思わず立ち上がろうとして、激しい目眩を覚えてよろめいた。石垣に寄りかかるようにして、身体をささえるのがやっとだった。
拒絶の意志だけが、はっきりと頭の中にある。だが、身体がいうことをきかない。
「わたしは、大丈夫ですよ、土方さん」
「何を言ってやがる。息も続かねえくせに、大丈夫じゃねえだろっ!」
くやしいが、その通りだ。総司は抵抗をあきらめた。
土方と忠助は、総司の両脇を抱えるようにして、一軒の町家にかつぎ込んだ。
「まあ、どうなさいました?」
「すまぬが暫くの間、連れを預かってもらいたい」
女と土方の話す声が聞こえる。
(――ああ。これが、例の人だな……)
熱にうかされた意識の中で、すべては蜃気楼のように曖昧模糊としていた。すぐに奥の部屋に布団がのべられ、その中に倒れ込んだ総司は、もう目を開けていることさえできなかった。

◇◇◇

夢を見ていた。
子どもの頃の、たわいない夢だ。土方と二人、泥だらけになって遊びほうけて家に帰ると、なぜか姉のお光がいる。お光は、あたたかい笑顔で二人を迎えてくれる――。

――姉さん……。

淡い夢がさめた時、逆光の中に微笑む姉の面影をみとめて、総司はまだ夢の続きを見ているのかと思った。
「お気がつかれましたか?」
額の手拭を冷やしてくれているのは、姉ではない。
「あ、ああ……すみません、すっかりご迷惑をかけてしまって――」
総司は、女の顔を初めて間近で見て、その意外な美しさに頬を赤らめた。
「ご気分は、いかがです?」
口調は控えめだが、真摯な温かみがこもっている。人柄がそのまま伝わってくるような、やわらかい声だ。
「ええ。おかげでずいぶん楽になりました」
「まあ、それは――」
よかった、と 微笑んだ横顔が、なぜかとても懐かしいものに思える。
(姉さんに、似ている……)
そう気づいたとき、これまで漠然と千穂に対して抱いていた敵意が、ふわりと薄れていくような気がした。

――歳三さんは、この人を抱いたんだろうか?

ふと、頭の隅をかすめたつまらぬ疑問に、総司はひとり苦笑した。
その額に手拭をのせ、千穂は、姉によく似たくちもとで微笑んだ。
「こんなあばら家ですが、土方さまが所用をすませてお戻りになるまで、どうぞごゆっくりお休みくださいませ」
声の響きまでが、姉のお光を思い起こさせる。総司は、思わず眸を閉じて、懐かしい響きをかみしめた。
「あなたが千穂どのですね? わたしは……」
「沖田総司さま。土方さまからいつも伺っております」
(土方さんは、俺のことをどんなふうに話しているんだろう?)
そんなことが、やたらと気にかかる。土方が惚れたという女と、もっといろいろなことを話してみたい。
だが千穂は、病人を疲れさせてはと思ったのか、それ以上はあまり言葉もかけず、台所で立ち働いているようだった。
やがて、行燈に灯をともす頃になって、土方が一丁の駕篭を連れて戻ってきた。
「総司、どうだ? ――立てるか?」
「ええ、もう大丈夫ですから。歩いて帰れますよ」
見え坊の総司はしきりに嫌がったが、土方が押し込むようにして駕篭に乗せた。
「突然押しかけてすまなかった。沖田が世話になりました。いずれ、また――」
「はい。また、お越しくださいまし」
軽く会釈して顔をあげた千穂の、切れ長の眸が印象的だ。女は、土方だけを見つめている。

思いがけなく、土方の想い人である千穂を知ることになった総司だったが、五条坂の女の家を出てから、ずっと心にかかっている一事があった。千穂の声音の中に、かすかに秘められたような訛りである。
上方のものではない。大垣といえば名古屋に近いから、そのあたりの訛りだろうか。
(いや、どこかで――?誰かに似ているような……)
屯所に戻って夜具にもぐりこんでから、総司は突然、その誰かが、江戸にいた頃何度か面識のあった、神田お玉ケ池千葉道場の塾頭、桂小五郎だということに気づいた。桂は今、この京のどこかに潜伏しているという。新選組や見廻組が血眼になって捜している、長州の倒幕推進派の巨魁である。
(長州の訛り? あの人が……。いや、まさか?)

――偶然か。あるいは?

土方は、気づいていないのだろうか。それとも、気づこうとしないのか。

一晩悩んだ末、次の日になって、総司はひそかに監察の山崎烝を呼び出した。
山崎烝。大坂の町家の出であるが、度胸もあり、腕も立つ。そこを土方に見込まれて、監察の筆頭を務めている。
監察というのはいわゆる探索方であるが、新選組の場合、その対象は隊外だけでなく隊士個人の素行にまでおよぶ。副長直属の特務機関であり、そういう意味では、副長の土方歳三同様、隊士たちにとってありがたくない存在だった。
「山崎さん。私事で申し訳ないんですが」
「沖田先生が私用とは、めずらしいですな」
山崎は、よく光る眸で総司を見上げた。にこりともしない。どこか翳のあるこの男が、総司はどちらかというと苦手だった。
「新選組が必要としているのは、きみのような人物だ――」
かつて、土方にそう評されたことが、山崎の誇りである。
(そういえば、この人はどこか土方さんに似ているな)
彫の深い顔立ちに、獰猛な肉食獣の凄みをにじませた男の顔を、真正面から見据えるようにして、総司は口を開いた。
「調べていただきたい女がいます」
「女?それは……」
山崎の顔に、あきらかに驚きの表情が浮かんだ。
「失礼ですが、沖田先生のご存じよりの方ですか」
「おかしいですか?」
「いえ――」
やっと、山崎はくちもとをほころばせた。
「申し訳ありません。ただ、沖田先生から女の話がでるとは思いませんでしたので。失礼いたしました」
総司は、手短に千穂のことを話してから、
「この人が長州にゆかりの者かどうか、確かめていただきたいんです」
要点だけをきっぱりと告げた。
「長州ですか――」
山崎は、何か言い足りなさそうな顔で視線を遊ばせていたが、やがて心を決めたのか、
「承知しました」
静かに頭を下げた。
「それから、このことはくれぐれも内密にお願いしたい。もちろん近藤先生にも、土方さんにもです」
「わかっております。その点はご安心を」

さすがに山崎の捜査は迅速だった。それから三日後、総司は自室で、山崎から千穂についての報告を受けた。
「沖田先生、例の女ですが――。あの家には最近越してきたようで、近所付き合いもほとんどなく、聞き込みに少々手間取りました」
「で、何かわかりましたか?」
「―――」
山崎は鋭い視線で総司を見つめ、一呼吸おいてから、
「沖田先生のご推察どおり、長州にゆかりの者ですな」
宣告するような口調でいった。
(やはり、そうか……)
総司は、自分の暗い予感があたっていたことに失望した。土方に何と告げよう――。
「以前、長州者らしい浪人が出入りしていたことがあるという話です。どうやら、女の死んだ亭主というのが長州の人間だったようですな」
「………」
「それと、最近は、新選組の幹部らしき男がよく訪ねてくるそうです」
「山崎さん――!」
やはり山崎はただ者ではない。わずか三日間の探索で、総司が隠しておきたかったことまで探り出してしまったのだ。どうやらかれは、その幹部というのが、副長土方歳三であることにも気づいているらしい。
わきの下に汗がにじんだ。その胸中を察したのか、山崎は、この男にしてはめずらしい明るい微笑を浮かべた。
「わかっています。わたしはこの探索を沖田先生から依頼された。沖田先生以外の方に漏らすつもりはありません」
さらに山崎は、さびた声音でつけ加えた。
「――土方先生には、沖田先生からお話しになってください」



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