掌上の雪 −沖田総司残照−

五章 この胸の燃ゆる思いを



時代の軋みは、新選組の内部にも亀裂を生じさせた。副長土方歳三と総長山南敬助の対立である。
さらに巷では、総司が恐れたとおり、過激派の浪士たちの天誅騒ぎが一段と激化し始めていた。これまでの公武合体派の公家や、幕府の要人ばかりでなく、新選組や見廻組の隊士までが狙われだしたのである。
「トシ、八月にはいってもう四人だ。なんとかせんといかんなあ」
近藤がため息をついた。
「このままじゃ、せっかく集めた虎の子の隊士がいなくなっちまう」
土方にも、これといった妙案はない。
「非番の時も、なるべくひとりでは出歩かないようにすること。これぐらいしかねえだろうなあ」
「それじゃあ、土方さんが困りますよ」
紅白の小さな干菓子をつまみながら、茶々をいれたのは総司である。
「―――?」
「だって歳三さんは、ひとりで歩くのが好きだもの。第一いっしょに歩きたがる人がいない」
「――総司。このっ!」
土方は隠しているが、再三刺客に狙われたことがあるのを、総司は知っていた。
近藤が、でかけるときには大名気取りで、槍持ちやらなにやら十数人の供回りを引き連れてゆくのに対して、土方はいつもひとりでふらりと出てゆく。狙う方にすれば、これほど格好の獲物はあるまい。
「確かに、俺といっしょに歩きたがるやつはいねえさ」
「――まったくだ」
近藤は声をだして笑った。かれは口が大きい。笑うと顔の半分が口になったような印象だった。
「なら、総司を連れていけ。平隊士が十人いるより頼りになる」
「お目付役ですね。やった!これで堂々と土方さんに威張れるわけだ」
総司はいたずらっ子のように眸を輝かせた。
「土方さん。これは局長命令ですからね。これからは、隊務に支障のない限り、わたしがお供します」
「やれやれ――」
土方は渋い顔だ。
「こんな軽口で無粋な野郎がくっついていたんじゃ、女遊びもできゃしねえ」
「どうぞご遠慮なく。その時だけは、ちゃんと消えてあげますから」
楽しそうにうなずきながら、総司はもうひとつ干菓子を口にほうり込んだ。
「うまいですよ、この菓子。八木さんの奥さんにもらったんだけど。土方さんも、ひとつどうです?」
「――いらん」
にべもない。
だが、このとき土方は、総司の笑顔の裏に秘められた固い決意を知る由もなかった。
(どんなことがあっても、歳三さんは、俺が守ってみせる)
総司は唇を引き結んだ。

内にも外にも不穏な空気を内包しながら、そんな人の世の確執などにかかわりなく、季節はゆっくりと歩をすすめ、町は色あざやかさを増していく。
やがて、鴨川の川面を渡る風が、秋の色を深める頃。
夜遅く屯所に戻ってきた土方が、顔を見るなり何を思ったか、総司の耳元で声をひそめた。
「総司。俺ァ、女に惚れちまったようだ」
「――え?」
冗談を言っている顔ではない。どうやら京の秋は、土方歳三のような殺伐とした男にさえ、ものを思わせる季節であるらしい。
まじまじとその顔を見つめていた総司の視線が、土方の紋服に吸い寄せられてとまった。
「どうしたんです、その羽織?火熨斗がきいてますね」
出掛けに着ていたものとちがう。
「ああ、これか?――いや、ちょっとしたいざこざでね。借り物さ」
決まり悪そうに言う土方の眸が、照れたように笑っている。
新選組も幹部になれば、非番の日は外泊が許可される。ほとんどの幹部連中が、休息所と称して営外に妾を囲っていたが、土方はいまだに、そういう特定の女を持っていなかった。
総司の見たところ、土方は、女出入りの激しいわりに、あまり女には執着しない男だった。というより、わざとそういう弱みを見せないようにしている、そんな情の強(こわ)いところがある。
それが、初めて人を恋した少年のようにはにかんでいる。こんな表情の土方を見るのは初めてのことだ。総司はまぶしそうに視線をそらした。
「いやだなあ。土方さんが誰に惚れようと勝手だけどね、――どうしてわたしに打ち明けたりするんです?」
いたずらっぽくまぜっかえしながら、胸の動悸はしだいに高鳴っていく。
「どうしてって……。俺がこんなことを話せるのは、総司だけだもの。迷惑だったかい?」
「迷惑ですって?そんなんじゃないさ。ただ……」
「ただ、何だ?」
「――何でもないよっ」
土方の視線から逃れるようにして、総司は唇をかんだ。耳を押さえて、この場から逃げ出したい衝動がある。

――歳三さんの馬鹿!あんたの口から、そんなことば聞きたくなかったよ……。

それにしても、なぜ、これほどまでに胸が騒ぐのか? 自分でもわからない。
試衛館の頃から土方の女遊びはしょっちゅうのことだったし、京にきてからも、島原の大夫と盛大な浮名を流したりしていた。
だが――。
(ちがう――。ちがうんだ、今までの歳三さんと……)
少年の日、初めて土方に出会って以来、常に感じていた温かい視線。そのまなざしが、今は、自分ではないほかの誰かに注がれている――。
総司の神経は、敏感にその事実を察して、ちりちりと痛むのだった。

(土方さんには、俺よりもっと、大切に守らなけりゃいけない人ができたんだ)
心の中でつぶやいてみて、いいしれない淋しさにおそわれた。
(―――!)

ああ、そういうことか……。

そのとき初めて、総司は、身の内がふるえるような思いで、土方に寄せる己の想いの深さに気づいたのである。
(俺は、歳三さんのことを……)
恋うていたのだ。父や兄の幻としてではなく、ひとりの人間として、男として、想像もできないくらい深く、激しく――。 
土方の、全身全霊で生きているようなひたむきさ、その中でときおり見せる人間臭さが、総司はたまらなく好きだった。自分にはない力強さ、野太さが、羨ましくもあった。
なによりも、土方にとって自分は特別な存在なのだという暗黙の認識が、今日までの総司を支えてきたことは明らかである。
ことに、自分の命が永くないと知ってからは、残された日々を幸せに生きようとは思わなかった。
ただ、土方とともに、土方のために生きたい。それだけを、心の奥底に抱きしめてきた。
これを恋と呼べるなら、総司の人生で、おそらく最初で最後の恋だったろう。
「総司、どうした?」
「あ、いいえ――。なんでもありませんよ」
あわてて、恋する若者の顔を拭い去る。
向き直った総司は、ひどく翳りのない笑顔で、土方に微笑みかけていた。

◇◇◇

土方歳三が惚れた女。過日、清水寺の境内で、ならず者に因縁をつけられて手込めにされかかっていたのを、たまたま通りかかった土方が助けたのだという。それが、東山五条坂の近くに住む千穂という武家の未亡人であることを、総司は土方本人から聞かされた。
その後、何度か、土方は千穂のもとを訪っているらしかった。
「どういう人です?」
聞かでものことを、と思いながら尋ねてみた。
「死んだご亭主は、大垣藩の浪人だったそうだ。――それ以上のことは、聞いちゃいねえよ」
思いがけなく、ぶっきらぼうな返事が返ってきた。土方には、女の死んだ良人に、かすかな嫉妬があるらしい。
「妙なもんだな」
「え?」
「俺ァ、今日までさんざん女遊びをしてきたし、女には倦んでるつもりだった。だから、別にどうってことのねえ普通の女に、何でこれほど心魅かれるのか、自分でもよくわからねえんだ」
急に土方の眸が和らいだ。女の面影が浮かんだのだろう。
「世間では、新選組の副長といえば、鬼のように恐れられている。また、自分でもそういう男だと思ってきた。それが千穂といると、何かこう懐かしいような、そんな優しい気持ちになれるんだ……。こりゃあ、われながらちょっと不気味だな」
「―――」
胸の底に、疼くような嫉妬がある。だが、無邪気に話す土方に、黙ってうなずくよりほかにない。
総司は歯の奥で、わきあがってくる感情を噛み殺した。



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