掌上の雪 −沖田総司残照−

七章 月影五条坂



東山五条坂は、清水寺への参道にあたる。ために、朝から夕刻までひとの通りがとぎれることがない。
それでも、参詣客相手の茶店や骨董屋が軒を連ねる表通りから一歩入れば、静かな家並みが続いている。
その五条坂から北へ、入り組んだ石畳の坂道をたどりながら、総司はいまだ逡巡していた。手にした番傘に、ときおり激しく、冷たい時雨がしぶいてゆく。
(もう紅葉も終わりだな)
足元を、かさこそと音を立てて散り過ぎてゆく枯れ葉を目で追いながら、足取りは重くなりがちだ。千穂を訪ねる。そして、事の真偽を糾す。
(もし、長州の間者ならば――)
むろん、斬る。――つもりである。
山崎の報告をうけてから、総司は長いことひとりで考えあぐねていた。やはり土方には話さないほうがいい。このことを知れば、即刻、土方は千穂を斬って捨てるだろう。

――それだけは……。

させたくない。女を失うことよりも、真実を知らせることのほうが、土方の悲しみを深くするにちがいないからだ。
やがて雨のしずくの向こうに、女の家が見えてきた。総司の訪れを待つかのように、ひっそりとくすんだ景色の中に沈んでいる。
(もう、後へは引けない)
腹の底で覚悟を決めた。
「御免――」
いつもより低い声でことわってから、総司は引き戸をからりと開けた。
千穂は次の間で縫い物をしていたらしい。白い顔が振り向き、不意の訪問者が総司であることを認めると、驚いたように眸を見開いた。
「まあ。沖田さま――」
「今日はわたしひとりですが……。おじゃましてもかまいませんか」
「もちろんですわ。さあ、どうぞ」
千穂は、手早く縫いかけの着物を片付けると、総司を招き入れた。それが、左三つ巴の土方の紋服であることに気づいて、総司は意外な思いにうたれた。
(このひとは――?)

――土方さんをだまそうとしているんじゃないのか?

ぎこちなく押し黙ったままの総司に茶をすすめながら、千穂は気遣うように言葉を選んだ。
「沖田さまは御府内のお生まれですか?」
「いや、生まれたのは武州の日野です。土方さんの在所の石田村の近く――。九歳のときに小石川の試衛館に移りました」
「わたくしは江戸は存じませんけれど、京よりももっと大きくて賑やかな町なのでございましょうね」
「さあ、どうなのかなあ。……うるさいだけの町ですよ」
言い捨てながらも、総司の視線はいつか遠くを見ている。
江戸。それは、なつかしい響きだった。
喧噪と、ほこりっぽい人混み。路地裏のどぶの匂い。そして、試衛館の道場のささくれた床。汗くさい胴着――。
ふいに土方の笑顔が目蓋に浮かんだ。かすかな狼狽に、頬が熱くなる。動揺を懸命に隠そうとする総司に気づかないまま、千穂はことばを続けた。
「土方さまは、ここに来られても江戸の話ばかりなさいますのよ。ご兄弟のことや、試衛館のこと、それに沖田さまのこと……」
「そうですか」
土方は、自分のことをどんなふうにこの女に話しているのだろうか。あるいはそれは、男女の閨の睦言か――?
総司はしだいに、笑顔をはりつけたままの表情で千穂の話に相槌をうつのに耐えられなくなってきた。
もうこれ以上、この女の口から土方の名前を聞きたくない。
次の瞬間、総司の口から出たのは、自分でも驚くほど冷酷な声だった。
「ところで、千穂さん――」
女を見据える双眸が冷たく光る。
「あなたは、桂小五郎という男をご存じですね?」
「―――!」
千穂の息がとまった。血の引く音が聞こえるようだ。
「どうして……それを……」
大きく見開かれた瞳の中に、幽鬼のような総司の貌が映っている。
(俺は許さない。土方さんを悲しませるものは――!)
「ひとつ聞く――。あなたは長州の間者なのですか? 桂小五郎に命じられて、土方さんに近づいたんですか?」
「いいえ……!」
女は激しくかぶりを振った。

――いいえ、わたくしは……。

血の気の失せた唇がわななき、千穂の眸に涙があふれた。
「――わたくしをお斬りになるのですね」
「あなたが長州の間者として、新選組の内情を探るために土方さんに近づき、あの人をだましているというのなら――斬る!……斬らねばなりません」
「沖田さまはもうご存じですわね。わたくしの夫が、大垣藩士ではないことを……」
縁側の外の細い雨を眺めながら、千穂はぽつりぽつりと語りはじめた。
長州の下級藩士だった千穂の夫は、二年前に脱藩して京に上った。しばらくして、子どものなかった千穂も夫の後を追った。それほどに夫婦仲がよかったというわけではない。ただ、夫のいない婚家にはいづらかった。以来、桂小五郎にはずっと世話になっていたという。
「去年の冬の夜、夫は冷たい骸になって家に戻ってきました。新選組に斬られたのだと聞かされました」
「―――!」
夫が死んだあと、千穂はそれまで住んでいた長州藩邸近くの長屋を辞して、今の場所に移った。
それでも桂は、ときおり様子を見に訪れたりしてくれていたが、千穂は、援助の申し出だけは固く断った。夫が死んで藩との緑が切れた今、これ以上の迷惑はかけられない。それからは、仕立て物などの内職をしながら、細々と暮らしをたててきたのだという。
「あの日、歳三さまに助けていただいたのは、本当に偶然だったのです。あの方が新選組の土方歳三だということさえ、そのときは存じませんでした」
自分を助けてくれた男が、夫を殺した新選組の幹部だと知ったときは、さすがに声を失った。皮肉な巡り合わせに、眼の前が暗くなる思いだった。
だが、千穂は土方を憎みきれなかった。死んだ夫を想い悼む以上に、土方歳三という男に傾斜してゆく自分の気持ちを、どうすることもできなかったのである。
「そのあと桂さまに、このまま土方歳三に近づいて、新選組のことを調べてくれぬかと頼まれましたが、お断りいたしました。いくら大恩ある桂さまの頼みでも、歳三さまを裏切ることなど、とてもわたくしには――」
「千穂さん――」
「……千穂は、不義の女でございます」
口に出すのは初めてだったろう。言葉にした瞬間に、自分が長州の人間であるというこだわりも、かつてほかの男の妻だったという過去も、音をたててはじけてしまった。あとに残ったのは、土方歳三という男に対する深い思慕の想いだけだ。
澄んだ瞳が、まっすぐに総司を見上げた。
「信じていただけぬかもしれませんが、桂さまとは、それ以来お会いしておりません」
一途なまなざしに嘘はない。千穂はおそらく、命がけで土方を愛しているのだろう。
「それでも――、土方さまにとってわたくしが害になると思われるのでしたら、どうぞお斬りくださいませ」
女は、姉によく似たくちもとに、かすかに笑みさえ浮かべている。
ふいに、総司の胸にいいようのない激情がせき上げてきた。幼いこどものように、この場に泣き伏してしまいたい――。そんなこどもじみた衝動を、かろうじて歯の裏でこらえると、
「いいえ。――もう、ここには来ません。このことは、わたしひとりの胸にしまっておきます」
しぼりだすようにそれだけを言い置いて、総司は女の家を辞した。

雨はいつしかやんで、屋根の上に白いタ月がかすんでいる。

ああ――。

夕闇が肩の上に降りてきて、総司のため息をいっそう深いものにした。
(俺の想いの丈は、あの女にはかなわないのか。夫を殺された悲しみ、憎悪。その恩讐を越えてなお、土方さんを愛そうとするあのひとの想いには――)
下界を照らす月影が、しだいに煌々としてきた。光とともに、冷気が空から地面にしみこんでいくようだ。
もうすでに、五条坂の店々は、軒提灯に灯を入れている。清水寺には、夜の参詣に来る信徒も多い。その人々にまぎれて、総司の影はゆっくりと坂道を下っていった。



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