掌上の雪 −沖田総司残照−

四章 波紋



池田屋騒動ののち、時勢はしだいに加速度を加え始めた。
尊王攘夷派の旗手的存在だった長州藩は、この事件をきっかけに、ついに藩を挙げて幕府打倒に踏み切ることになる。元治元年七月十九日、京の町が半分焼け野原になったという蛤御門の変である。
この時、新選組は伏見方面に出動したが、目立った武勲を挙げることはできなかった。総司は、身体が不調なこともあって、このときは出陣していない。
ほどなく長州軍は敗北。
七月二十九日、硝煙とすすと汗にまみれて帰ってきた近藤や土方を、屯所の外まで迎えに出た。
「お帰りなさい。お疲れさまでした」
「――総司か。まったくお疲れさまだ。骨折り損のくたびれ儲けだよ」
土方は機嫌が悪い。ここ一箇月あまり。土方にとっては気の休まる暇もなかったであろう。
長州藩が不穏な動きを見せ始めてからは、ありったけの密偵を放って情報を集め、幕閣との会議には必ず近藤とともに出席し、新選組の編成をテコ入れし、さらには武器兵糧を補充し――といったぐあいである。
それが伏見では、ついに長州の本隊とあたることができず、戦闘らしい戦闘をすることなく帰営せざるをえなかった。
「新選組の名をあげる、またとねえ機会だったのに……」
「――へえ。土方さんは、まだこれ以上、悪名をとどろかせようっていうんですか?」
総司の軽口に、土方はますます苦い顔になったが、この時ばかりは、いい返す元気もなかったらしい。黙って副長室に消えたかと思うと、もう高いびきが聞こえてきた。
(だってね、新選組は、もう充分に名前は売れてるし、充分すぎるほど世間さまに嫌われてますよ。土方さん――)
長州藩の軍事行動は失敗に帰し、幕府にとって、とりあえずの危機は去った。
だが、長州の残党や過激派浪士たちが、これでおとなしくなるとは思えない。池田屋にしろ、今回の戦にしろ、むしろかれらを激昂させ、倒幕の口実を与えることになったのではないか。
今後浪士たちがどう勧くか――。
総司はふと、総身が粟立つような不安に襲われた。いずれにせよ、その矢面に、新選組は立たねばならないのである。

さらに隊内においても、池田屋騒動は意外なかたちで波紋を広げることになった。総長山南敬助が、近藤や土方のめざす新選組のあり方に対して、不満をもらし始めたのだ。
山南は、試衛館以来の仲間である。剣は北辰一刀流を修め、新選組にはめずらしい知識人だったが、昔から、土方歳三とは水と油ほどに肌があわなかった。
土方は思想など糞くらえと思っている。だから、自分たちの盟主である近藤に、事あるごとに時勢がどうの尊王がこうのと吹き込む、このやせた顔色の悪い男を、腹の底から憎悪していた。
山南は山南で、新選組を維持強化していくことしか眼中にない土方歳三という男を、どこか得体の知れない狂信者でも見るような思いで眺めている。
そんな二人の軋轢は、池田屋事件のあと一段と激しくなった。
山南にすれば、
(――だまされた)
という思いだったろう。
もともと浪士隊に加盟してのかれらの上洛は、天皇を護り攘夷の先駆けにならんという志によるものだったはずだ。それが今では、幕府の手先となり、尊王攘夷の志士を斬ってまわっている。
(これは、わたしの考えていたものと違う)
始めは小さな違和感だった。だが、組織が成長し社会的地位を得ていく中で、山南と新選組とのずれはしだいに大きくなっていった。

山南が学んだ北辰一刀流は、元来水戸藩とのつながりが深い。自然、道場の雰囲気も、水戸学の影響をうけて勤王思想が強くなる。人間、最初に受けた思想的洗礼は、なかなか消えるものではない。勤王の志は、今も脈々と山南の血の中に生き続けている。
温厚で、人と争うことを極力避けてきた山南が、池田屋事件以後は、あからさまに近藤や土方の変節を非難するようになった。
山南には見えている。
実際に新選組の主導権を握っているのは副長の土方歳三だ。その土方が描いている新選組という組織にとって、自分は必要とされていない――。
そのことを思い知らされたのは、もともと土方と並んで副長だった山南が、一段上の総長に格上げになったときだった。最初かれは単純に喜んだ。それが土方の発案だと聞いて、土方歳三という男に対する認識を改めかけたくらいである。
だが、土方には、別の深い思惑があったのだ。
つまり、総長といえば聞こえがいいが、実質は局長近藤勇の相談役といったところで、隊士に対する指揮権はないに等しい。近藤からの命令は、副長土方歳三から、助勤(組長)をとおって全隊士に流れる。そこに、総長山南敬助の介入する余地はないのである。
(わたしは、まるで飾り達磨だな)

――そうやって、おとなしくしていろということか。土方!

小さなずれは、深い亀裂になり、やがて底無しの憎悪になった。
山南は、土方を憎み、新選組を憎んだ。さらには、試衛館に浪士隊募集の知らせをもたらし、この世に新選組を生みだす端緒を与えた山南敬助という男、すなわち自分自身に対して、深い憤りを抱かずにはいられなかった。

総司はといえば、仙台藩脱藩だという山南敬助を嫌いではない。同じ奥州出身という親近感もある。
ただ、何かというと議論をふっかけてくるのには閉口した。
「沖田くん、どうして時流を見ない?きみほどの腕をもっていながら、男子としての大望も遠志もなく、幕府の走狗になりさがっているとは、もったいないではないか」
「………」
「わたしは、決して今の新選組のすがたが正しいとは思っていない。今の新選組は、土方くんの私物だよ。きみのような好漢が、近藤先生はともかく、なぜ、土方歳三なんぞのいいなりになっているのだ?」
総司は返答に窮した。
(俺が土方さんを必要とする以上に、土方さんは、俺を必要としている――)
漠然と、そんな確信がある。だが、自分自身にさえ説明できないこんな気持ちは、他者である山南にはわかるまい。
長い沈黙のあと、ようやく総司は口を開いた。
「わたしには、天下国家のことはわかりません。ただ、何があっても、近藤先生や土方さんについていく、江戸を発つときから、それだけを心に決めてきました」
「そうか――。そうだな。試衛館の頃から、きみは少しも変わっていない」
山南は、ふっと自嘲に似た笑みを片頬に刷くと、遠い眸をした。
「きみは不思議な人だ」
「土方さんには、わたしが必要なんです。たぶん……」
総司と山南の会話は、いつもこんなふうに終わる。
イデオロギーが怒涛のごとく日本中を席巻した時代である。思想が人の生死さえも左右した当時の京にあって、この若者は常に、主義主張や難しい大義名分といったものとは無縁な存在だった。
総司の唯一の信条は、近藤や土方と行動をともにするという、その一点であっただろう。
「きみは、本当にいい人だなあ」
山南は、もう一度つぶやいた。
「いやだなあ。いい人なんかじゃありませんったら――」
総司は、照れ隠しに前髪をかきあげた。手のつくりが華奢で、妙に人の心に残るしぐさである。
「―――」
と、山南は総司の眸をのぞき込むようにして微笑んだ。
「土方歳三のような男でも、誰かを必要とするようなことがあるんだろうか?だが、それが沖田くん、きみだというなら――、わたしにも何となくわかる気がするよ」



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