掌上の雪 −沖田総司残照−

三章 紫陽花に降る雨



次の日、ようやく布団から起き出した総司が、縁側から外をぼんやり眺めていると、井上源三郎がひょっこりと顔を出した。
井上は、試衛館の仲間では最年長である。近藤や土方と同じ武州多摩の出で、剣は目録どまりだが、なぜこんな男が新選組にいるのかと思われるほど、実直で朴訥な人柄だった。
笑うと目元にしわが寄って、いかにも田舎じみた顔になる。その顔で言った。
「総司。おまえさんにお客人だよ。お通ししてもいいかね?」
「あ、かまわんといとくれやす。勝手に通りますよって」
井上が言い終わらないうちに、もう廊下の向こうから、華やいだ声が近づいてきた。
「お糸さんか――」
声の主は、総司の馴染みの研ぎ師堺屋伍兵衛のひとり娘、お糸だった。
「横になってはらへんでも、よろしおすのんか?」
おずおずという感じで、心配そうな顔がのぞいた。京女にはめずらしく、気の強そうなくちもとが印象的な娘である。額が広く、髪のはえぎわが美しい。
「ああ、どうせ井上さんあたりが大仰なことをいったんでしょう。大丈夫ですよ、もう」
ほら、と総司は立ち上がって、わざと元気そうに歩いてみせた。
「まあ、よかった」
眸に、総司への好意があふれている。

当時、京の町は、決して新選組に対して好意的ではなかった。
京は千年の王城の地である。そこに住む人々の血の中には、皇室に対する特別の思い入れがあったにちがいない。そこへ、徳川幕府のお墨付きをもらったという東国の男たちがずかずかと入り込んできて、わがもの顔に町をのし歩いたのだ。当然反発も大きい。
新選組は、気位の高いこの町にとって、野蛮で無粋な他所者だった。京の人々は、壬生に屯所を構えた異様な集団を「壬生浪」と呼び、なかば恐れ、なかばさげすんだ。市中見廻りの途上など、露骨に侮蔑のまなざしを投げられることも多かった。
土方などは、新選組の名が恐怖を伴って語られることを、むしろ喜んでいるふうだったが。
初めて五条堀川通にある伍兵衛の店に出向いたときも、そうした対応を覚悟していた。ところが意外にも、総司は、伍兵衛にも娘のお糸にも好意的に受け入れられた。「新選組の沖田総司です」と名乗ったあとも、主人の好意は変わらなかった。
以来、愛刀菊一文字則宗の研ぎは堺屋に任せている。だけでなく、非番の日など店に立ち寄って世間話に時をつぶすことも多かった。
今も、池田屋での乱戦でかなり刃毀れしたために預けてあったのを、お糸が届けにきてくれたらしい。

「や、今日あたり、受け取りに行こうと思っていたところです。わざわざ届けてもらって申し訳ない」
「いいえ――」
と、お糸は語尾の上がる京ことばで言い、ちょっと頬を赤らめた。
「うち、沖田はんのことが心配で……。池田屋で怪我しやはったって、噂に聞きましたんえ。それで、――お顔が見たかったよって、お父ちゃんに頼んで無理やり持ってきたんどす。気にせんといておくれやす」
それには答えず、総司は黙って受け取った刀をあらためた。
すらり、と抜く。名刀菊一文字則宗が、身震いするような光芒を放った。
二尺四寸二分。細身で腰反りが高く、丁子乱れの刃文に、えもいわれぬ気品がある。
「ほんまに、立派なお差し料どすなあ」
お糸がため息をついた。さすがに研ぎ師の娘である。刀に込められた神気の深さがわかるらしい。
「お糸さん、見てごらんなさい。作られてから何百年もたっているというのに、この刀の光は変わらない。これまでどれだけ人間の血を吸ってきたかしれないのに、この刀身には一点の曇りもない」
「へえ……」
「これから先も、ずっとこのままの姿で、後世に残っていくんでしょうね」
見つめていると、吸い込まれそうになる。総司は、則宗をぱちりと鞘におさめた。
「菊一文字は立派すぎて、わたしなどにはふさわしくない刀ですよ」
思いがけない声音の暗さに、お糸は驚いたように総司を見た。
頬が青ざめている。

――このおひとは、何かもっと、別のことを言おうとしてはるのやわ。

それがいったい何なのか、だまって男の横顔を見つめるばかりだ。

総司は考えている。
(何人の男たちがこの刀を手にし、そして死んでいったのだろう。それぞれに哀しみも苦しみもあったはずなのに、そんなものは跡形もなく消え去って……。菊一文字だけが、昔のままの姿で、今、俺の手の中にある)
もうすぐ自分も、この世から消えるのだ。そのとき菊一文字則宗は、沖田総司という男の、痕跡さえ留めはしないだろう。

――人間の一生なんて、一振りの刀ほどの値打ちもない。つまらないものだな……。

何を見ても何を聞いても、命の重さに心が揺れる。やはりこれは、死期を覚悟せざるをえない者のみが抱く特殊な感慨なのだろうか。
「池田屋では、たいそうなお働きやったそうどすなあ」
黙りこんでしまった総司を気遣うように、お糸が遠慮がちに声をかけた。
「そんなことありませんよ!」
斬り返すように答えた声が、いつになく厳しい。お糸は愕然となった。自分の知らない男が、そこに座っている――。
背後がしんとした。お糸のちいさな心臓の音が聞こえるようだ。
「お糸さん、ごめん……」
総司は息苦しい沈黙を破ると、向き直って頭を下げた。
「すまない。きょうのわたしは、どうかしてるんだ」
「いいえ。うちのほうこそ、勝手に押しかけてきて……。ほんまに堪忍しとくれやす」
あわてて席を辞した女の眸には、かすかな怯えの表情があった。
「ほな、お大事にしとくれやす――」
帰ってゆくお糸の後ろ姿を見送りながら、総司は、苦い後悔とかすかな安堵を覚えていた。
(これでいい)

――もう、あの人には会うまい。俺には無用の女だ。

ふいに、井上源三郎に肩をたたかれた。
「総司。いい娘さんだな」
あいかわらず田舎染みた顔が、にこにこ笑っている。
「え、ええ」
「近藤先生から、先方に話してもろうたらどうかね」
「源さん! ち、ちがいますよ。俺は――」
総司はあわててかぶりを振った。たった今、お糸への気持ちを切り捨てたばかりなのだ。勘違いもはなはだしい。
「何を赤うなっとるんじゃい。総司もそろそろ、嫁さんもろうてもええ歳じゃろ」

――ちがう、そんなんじゃない。

総司は昔から、女に対しては淡泊だった。江戸にいた頃は、日がな道場でごろごろしている連中が、岡場所の白首女に熱をあげたりするのを、不思議な思いで見ていたものである。
決して女が嫌いというわけではない。一緒にいればふんわりと温かく、楽しいものであるような気もする。
九歳で試衛館に預けられたかれは、家庭のぬくもりというものを知らなかった。たまに訪れる姉の家で、お光が夫の林太郎と睦まじそうにしているのを目にした時など、ふと、そういう穏やかな暮らしに憧れることもあった。
もっともそれは、女性に対してというよりも、幼い日になくしてしまった家族への憧憬というべきものだったかもしれない。
お糸への想いは、――恋とも呼べぬほどの淡いものだったが、わが身が労咳であることを知った今は、それすら許されない総司だった。
(俺には、人を好きになる資格なんかない。相手を不幸にするだけの恋なぞ、必要ないんだ――)
いつの間にか陽が翳って、坪庭の紫陽花の上に細い雨が降っている。盛りを過ぎてしまった紫陽花の、少し赤茶けたような花の色が、ひどく愛しいもののように思われた。
「歳三さん……。またいっしょに、大川の花火、見に行きてえなあ」
なにげなくつぶやいた言葉が、それこそ花火のように、新鮮な響きとなって心の底に広がってゆく。

試衛館に内弟子として住み込んだ頃。見知らぬ大人たちの間で、自分の居場所をみつけられずにとまどっていた総司に、土方は何くれとなく世話をやいてくれたものだ。
どういう気まぐれからだったろうか。決して人には馴染まぬ夜走獣にも似た男が、総司に対してだけは、まるで別人のように優しかった。
ささいなことから近所の悪たれどもにいじめられて、道場の裏で泣いていた時も、
「宗次郎(総司の幼名)、ほら。これやるからさ。――もう泣くな」
照れたような笑顔とともに、そっと開いた手の中には、黒々と光るクワガタムシ。
「あ……。歳三さん!」
「いいか、あんなやつらに負けるんじゃねえぞ。俺がきっと守ってやるからな」
「うん!」

――総司、強くなれ。誰よりも強く。それまでは、俺がおめえを守ってやる。きっと、守ってやる!

あのときの、真剣なまなざしと笑顔のあざやかさを、総司は一生忘れないだろう。
若い頃からいっぱしの男を気取り、何かと問題を起こしては、師匠である近藤周斎をはらはらさせていた、――土方歳三という男の強烈な個性。時に傲慢ともみえる一途な生きざまを、総司は、恋慕にも似た畏敬の念をこめて見つめてきた。
いつも自分のそばにいてくれる、ちょっと蓮っ葉で、涼しげな眸をした男。十歳年上の兄弟子に対して、幼い頃からずっと抱いてきた憧れ。その想いは、今も変わらない――。
あるいは土方の中に、顔もさだかには覚えていない父親の影を重ねていたのだろうか。
(歳三さん……)
もう一度、胸の中でつぶやいてみる。総司の顔は、親にはぐれた子どものように頼りなげに見えた。
雨脚が激しくなった。雨にうたれて、紫陽花が揺れる。
総司はいつまでも、濡れ縁の上から、銀色のしずくにけむる一群れの花を見つめ続けていた。



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