いにしえ・夢語りHOME蜀錦の庭姜維立志伝目次

姜維立志伝
第四章 邂  逅



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「先生!荊州の関羽が、呉に捕らえられて斬られたというのはまことですか?」
「伯約どのも聞かれたか」
「里は、その噂でもちきりです」
「一代の英雄もついに己が死は避けられぬか。劉備が漢中王となり、諸葛亮の天下三分の計もいよいよこれからという時に、その一角が崩れるとは……。いかに死生命ありといえど、嗚呼、悲しいかな」
言ったきり、許範は天を仰ぎ、沈黙した。
伯約には、それほどの感慨はない。関羽も劉備も諸葛亮も、自分とは違う世界の人間だという意識が強い。ただ、かつて荊州で見た騎上の雄姿だけが、関羽に繋がる唯一の記憶だった。
「先生は、関羽どのをご存じでしたか」
「親しく話をするほどの間柄でもなかったがな。しかし、天下にとって、惜しい人物を亡くしたとは思う。本人もさぞ心残りであったろう」
許範は多くを語らなかったが、あるいは趙雲を通じて、劉備や関羽とも面識があったのかもしれない。
「微妙な均衡を保っていた天下が、関羽の死によって再び大きく揺れることになるやもしれぬ。はたして諸葛亮に、その流れをたぐり寄せるだけの天運があるかどうか――」
許範は眼を閉じ、嘆息した。

◇◆◇

関羽死す。
二一九年冬。劉備が漢中王に上り、未だ祝賀の余韻も冷めやらぬ成都に、その悲報は突然もたらされた。
劉備が蜀へ軍を進めて以来、関羽はよく一人で荊州を守っていたが、かれほどの武将でも心の隙はあるものらしい。魏の曹仁を樊城に囲み、于禁、ホウ徳の援軍をも鎧袖一触、敗走させたその背後を、呉の呂蒙に攻められた。関羽の知らぬ間に、曹操と孫権は手を結んだのだ。味方の裏切りもあって、ついに麦城で捕らえられた関羽は、息子の関平とともに臨沮にて斬首されたという。
義弟の死を聞いたとたん、劉備はその場に昏倒した。

「孔明先生――。お顔の色がすぐれぬようですが。大丈夫ですか」
「幼常か。大事ない、少し疲れただけだ」
朝も遅くになって、軍師府に戻ってきた孔明の表情は沈痛だった。この三日間一睡もせず、劉備の枕頭に詰めていたのだ。
「ようやく食事も喉を通るようになられた。医師も、もう心配はないとのことだ」
「それはようございました。先生も少しお休みにならないと、お身体に障ります」
「馬謖さま、もっと言ってやってくださいまし。わたくしが同じことを言っても、旦那さまは少しも聞いてくださらないのですよ」
食事の支度をして部屋に入ってきたのは、桂華だった。手早く二人分の朝餉の膳を整えた妻は夫にいたわりの笑顔を向ける。
「わたくしは主公よりも、あなたさまのお身体の方が心配です」
「これ、めったなことを」
口では厳しく妻をたしなめながら、しかし孔明は、ようやくほっとした表情を見せた。
馬謖を誘って、桂華がしつらえた卓に向かう。贅沢ではないが、手間と愛情のこもった料理が並んでいる。
「殿には、まだまだ関将軍の死を現実として受け止めることができぬのだろう。無理もない。生まれた日は違えど死す時はともに、と誓い合った義兄弟を亡くされたのだから。しかし、私にとっては、関羽どのより荊州を失ったことの衝撃の方が遥かに大きい。薄情なようだが」
孔明は深く息をついた。
「私が今、何を一番恐れているかわかるか?幼常」
「漢中王が、呉への出兵を言い出されることですか」
「その通りだ。――殿は、必ず呉と事を構えようとなさるだろう。だがそれは、天下に名分の立たぬ私怨による戦だ。かつて曹操が、父親の復讐に名を借りて徐州を攻め、罪なき徐州の民を皆殺しにしたように」
――そしておそらく、私にはそれを止められぬ。
孔明の双眸には、苦渋の翳が濃い。
(徐州の悲劇を繰り返させるのか?自分がかつて、あれほど曹操を憎み、天を恨んだ、それと同じ行為を我が殿にさせようというのか、私は――?)
黙り込んでしまった孔明の肩に、桂華がそっと手を置いた。
「やはりあなたは、今でも、あの方のことをお忘れになっていないのですね」
「………」
徐州という言葉を口にするたび、夫の眼の中に燃える冥い炎。それが、ひとりの女性に由来するのだということを、桂華は孔明と陳涛の会話から薄々察していた。
――あなたの中には、今もあの方がいらっしゃる。あなたは、あの方のために闘っておられるのでしょう。たぶん、これから先も、ずっと……。
「あの方」とは、桂華が孔明と出会うずっと以前に、徐州で死んだという陳涛の妹、紹錦のことだ。
曹操の徐州侵攻では、数十万の罪もない民衆が無差別に殺されたという。下ヒの城下に住んでいた陳涛の一家も例外ではなく、たまたま所用で下?を離れていた陳涛が難を逃れた以外は、すべてその犠牲となったのである。
二歳年上だったというその女性に、少年時代の孔明がどのような感情を抱いていたのか、桂華にはわからない。だが、夫は異様といっていいほど曹操を憎んでいた。劉備に仕えたのも、あるいは曹操と戦うための手段だったといえなくもない。その憎悪の根源がどこからきているのか、桂華には何となくわかる気がするのだ。
ふいに、訳もなく悲しみが胸底にあふれてきた。いたたまれなくなって、桂華はそっと部屋を出た。馬謖が驚いた顔で自分を見送っているのが見える。
後ろ手で扉を閉め、ほっと息をついて顔を上げた桂華の眸に、冬の陽光にあふれた景色が飛び込んできた。庭先に植えられた南天の実の、鮮やかな赤が心にしみる。
いつか、何の屈託もなく、夫と二人でこの景色を眺められる日がくるのだろうか。良人の闘いはいつ終わるのだろう?

「先生――」
桂華が出て行き、心なしか沈んでしまった孔明を気遣うように、馬謖が遠慮がちに声をかけた。
「呉との戦は避けられないものでしょうか。今、我らと呉が争えば、ひとり魏を利するのみでしょう」
「殿のお心は、漢中王となられた今も、義勇軍を率いて戦っておられた頃と少しも変わっておられぬ。王としての体面、あるいは政治の駆け引き、そんなものよりも、昔日の義兄弟の契りをこそ何より大切に思っておられる。そのような殿であればこそ、今日まで皆が付き従ってきたのであろう」
「しかし」
「幼常、もう言うな。わかっておるのだ。このようなことでは、軍師として失格だということが。だが、そのお気持ちを思えば、私には殿をお止めすることはできぬ。また、たとえ私が何を申し上げても、お聞き入れにはなるまい」
劉備、関羽、張飛。この三人の交わりの中に、自分は決して同じ形で関わることはできない。喉の奥から、苦い感触があふれてきた。
(何と度量の狭い男よ、孔明!)
己の小さなこだわりのために、主君に諫言することをためらうとは。いや、最初から逃げているのだ。
(私は結局、黙って殿の出陣を見送るのであろうな……)
孔明は、暗澹たる思いに胸を塞がれた。




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