いにしえ・夢語りHOME蜀錦の庭姜維立志伝目次

姜維立志伝
第四章 邂  逅



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これより以前、漢中の領有をめぐっては、曹操と劉備が激しい争奪戦を繰り広げていた。
先に張魯を破って漢中を我がものとしたのは、曹操だった。蜀に拠る劉備にすれば、漢中は喉元に向けられた剣にも等しい。何とか曹操の勢力を駆逐したかった。
二一八年、満を持して漢中攻略に乗り出した劉備は、翌年定軍山で夏侯淵を破り、ついに漢中を手中に収める。むろん曹操も黙って引き下がるはずはなく、すぐさま自ら兵を率いて進軍したが、蜀軍の堅い守りに阻まれ、漢中奪回はならなかった。
表立った戦闘の裏で、激しい諜報戦もまた両軍の間で繰り広げられていたことは言うまでもない。牙狼の動きは、明らかに漢中の撹乱を狙い、さらに今後のことも見据えた司馬懿の指示によるものだろう。
伯約が梨梨の村に身を寄せたのは、ちょうどこの頃だったのである。

◇◆◇

「では、姜郎は無事なのだな?」
「はい。今は漢中にある浮屠の村にて、傷を癒しておられます」
珍しく成都に戻っていた陳涛は、自室で部下の報告を受けていた。かれの私邸は、ひっそりと目立たぬたたずまいで、孔明の起居する軍師府のすぐ近くにある。
闇と話している――。知らぬ者には、そう見えるだろう。灯火の届かぬ部屋の隅の暗がりに、部下の耳目が控えていた。すんでのところで牙狼の槍から伯約を救い出した、あの耳目である。
「そこで知り合った許範という老人に、槍術の指南を受けておられるようで」
「許範?聞かぬ名だが」
「当人が言うには、趙子龍どの、さらに牙狼も、その老人の弟子だということです」
「趙将軍の?はて、そのような話を耳にしたこともあったか?まあ、よい。そなたは引き続き、姜郎の警護を頼む」
部屋の闇が濃くなった。耳目が退去したのだろう。
(牙狼、か――)
魏の司馬懿仲達の末弟。司馬氏の名を捨て、兄仲達の間諜として裏仕事に徹している男だ。その悪逆非道ぶりは、陳涛も幾度か耳にしたことがあった。
(伯約どのも、厄介な男と関わりになったものだ。いずれ司馬懿の手の者とは一戦交えねばならぬと思うていたが。早々、我らも覚悟を決めねばならぬということか)
趙雲と牙狼の師匠と名乗る許範という男にも興味を引かれたが、事態は思った以上に切迫しているようだ。
「さて、忙しくなるわい。ちょうど成都での日々にも倦んできたところだし、臥龍先生に暇乞いをして、明日からはまた旅の空といくか」
独りごちてから、陳涛は軍師府に孔明を訪ねるべく、身支度を整え始めた。

「我らが殿も、ついに漢中王となられた」
しばしの暇乞いにと訪れた陳涛に向かって、孔明は、まるでそれが事実であることを確かめたいような口調で言った。
「殿は、王位に就くことにはかなりのためらいを持っておられたのだ。だが、魏王となった曹操に対抗するためには、こちらもそれなりの手立てを取らねばならぬ」
「漢中王と聞いて、曹操はさぞや悔しがっておりましょうな」
陳涛は愉快そうに笑った。漢中を確保したことで、劉備の蜀政権は磐石になったといっていい。
「先の戦では、陳兄にも並々ならぬ苦労をかけた。配下の耳目を何人失うたぞ?」
「耳目はもとより闇に生き、闇に死す者ども。軍師どのに気にかけていただくほどの数ではございません」
牙狼を始めとする魏の間諜たちとの戦いで、すでに十人を超す耳目が命を落としている。だがそれは、劉備や孔明のあずかり知らぬことであった。
「次に我らの前に立ちはだかるのは、司馬懿であろうな」
「おそらくは――」
孔明の眼光が鋭くなった。
「そのための急な出立か、陳兄?」
「いささか気にかかることもござれば」
伯約のこともあって、当分牙狼からは目が離せない。できれば、司馬懿の思惑も探りたかった。
「関中以西では、しばらく動きはあるまい。むしろ危ういのは荊州かもしれぬ」
「荊州には関羽どのがおられまする」
「全幅の信頼――か。少なくとも殿はそうであろうな。しかし、この世に絶対のものなどありえぬ。陳兄も、何度もその眼で見てきたはずだ」
「お言葉、心いたします」
「いや、もちろんそのような事態が起こらぬようにと願っておるのだが……。関将軍を信じたい気持ちは、誰よりもこの私が一番強いのだ」
孔明の天下三分の計は、荊州と益州の二つを手にすることで初めて成り立つ。ことに、魏と呉の双方と境を接している荊州は、欠くことのできない重要な軍事拠点だった。
劉備が征蜀の軍を進めて以来、荊州の守りは関羽一人に任されてきたのである。

その時、颯爽とした履音が廊下を近づいてきた。急いで物陰に身を隠そうとした陳涛を眼で制した孔明は、扉の外に向かって声をかけた。
「幼常だな。入るがよい」
「失礼します」
溌剌とした声とともに部屋に入ってきたのは、両手に竹簡の束を抱えた小柄な男だった。まだ、三十にはなっていまい。眼の光に若々しい力がある。
「江陽郡の租税台帳がまとまりましたので、お持ちいたしました――」
言いかけてから陳涛の姿に気づき、男はあわてて再拝の礼をとった。
「あ、来客中でしたか。失礼いたしました」
「構わぬ。そなたにも紹介しておこうと思ってな。こちらは陳涛文桓どの、荊州耳目の頭領だ」
「耳目の……?」
幼常と呼ばれた男は、一瞬驚いたように陳涛の顔を見上げていたが、やがて色白の頬にふわりと春風のような笑みを浮かべた。
「お名前は孔明先生より何度か聞かせていただいておりましたが、お目にかかるのは初めてですね。私は馬謖幼常と申します。以後、よろしくお見知りおきを」
「季常さまの弟君ですな?」
「兄をご存じですか」
「荊州におられた頃から懇意にさせていただいております」
荊州の名家の出である馬謖には、五人の兄弟がおり、皆字(あざな)に常の字がついている。五人とも秀才の誉れ高かったが、中でも「白眉」と称えられた馬良季常の才が一頭地を抜いていたという。
孔明と馬良は荊州時代から昵懇の間柄で、弟の馬謖ともども劉備に仕えて成都に移ってきていた。
「私に兄ほどの才があれば、もっと孔明先生のお役に立てるのにと思うと、自分の力の無さが悔しくてなりません」
「それゆえ、少しでも私の側で学びたいと、家にも帰らず、ここで書生のまねごとをしておるのだ。幼常、いずれ妻子に愛想を尽かされても、私は知らぬぞ」
珍しく、孔明が声をたてて笑った。
劉備がついに漢中王の位に上った。長い間夢見てきたことが、ようやく一歩現実に近づいたと、誰もが思っている。この場の三人の胸にも、明るい光が差し始めていたのだ。

「よい方をお側に置かれましたな」
 馬謖が退出した後、陳涛は晴れやかな声で孔明に言った。
「確かに、まだまだ兄には及ばぬが、いずれ幼常には、私の後を継いでくれるほどの人物になってほしいと思うておる」
――まことに。
キラキラと眩しいほどの才気だ、と陳涛は思った。ほんの少し言葉を交わしただけで、馬謖がずば抜けた俊才であることは容易に見てとれる。だが、はたしてかれが諸葛孔明の真の後継者となり得るかどうか。
(孔明さまが背負っておられるものは、あまりにも重く、その目指しておられる道は遠く険しい。いかに馬謖どのが人並みすぐれた才能に恵まれていたとしても、それだけでは越えられぬものもあるのだ……)
それにつけても思い出されるのは、冀県で出会った姜維伯約のことである。自分でも、なぜ初対面の若者にあれほど心惹かれたのかわからない。ただ、あの時、確かに己の中に激しく波立つものがあった。孔明と伯約を一日も早く対面させてみたいと、心が飛び立つような思いに急かれたものだ。
だが、まだその時期ではないのだろう。心の赴くままに放浪の旅を続けている伯約を、今はじっと見守るしかない。
孔明が馬謖を選んだというのなら、かれがその期待に応えることを願うのみだ。
「それでは、それがしはこれで。荊州にも耳目の数を増やしておきましょう」
何気なく言った陳涛だったが、孔明がふと抱いた不吉な予感――荊州の危機は、この後予想もしなかった展開を見せることになる。しかし神ならぬ身の、破綻の萌芽に気づくはずもなかった。




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