いにしえ・夢語りHOME蜀錦の庭姜維立志伝目次

姜維立志伝
第四章 邂  逅



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「もはや、そなたに教えることは何もない」
許範のもとで修行を始めて一年。再び浮屠の里が錦秋の色に染まる頃、伯約は師から免許皆伝を言い渡された。
「これからは、己で進むべき道を探し、極めることだ。このような時勢ゆえ、よほど心気を込めて見据えねば、見誤るぞ」
「お言葉肝に銘じます。ここで教わりましたこと、先生に受けたご厚恩、姜維終生忘れませぬ」
伯約はその場に拝跪すると、許範に対し改めて深々と頭を下げた。
「そなた、ここを出てどうする?」
「とりあえずは、蜀へ向かおうかと思っております」
「蜀か。諸葛亮に会うか。それもよかろう」
諸葛亮孔明。その名前を聞くたび、胸が高鳴る。まるで、恋しい人の噂を耳にした時のように。
ことに陳涛から、自分と孔明とは志を同じくする者だと言われてからは、一面識もない相手に対して、奇妙な懐かしささえ覚えたものだ。
だが、今は――。
「先生。私は、諸葛亮を疑っております」
「疑うとは?」
これまで、多くの人々が孔明について語るのを聞いた。誰もがその知謀のすばらしさを称え、人格の高潔さを称賛する。しかし、孔明がそれほどの人徳者なら、いたずらに天下を分断し民を苦しめる無益な戦を、なぜ執拗に続けるのか。
劉備や諸葛亮は、戦のない平和な世の中を築くために戦っている、と陳涛は言った。漢室を再興し、天下の秩序を取り戻すためだと。
だが、その方策が孔明の言う天下三分の計だというのなら、それは明らかに間違っている。
天下はひとつに統一されなければならない。そうでなければ、この世から戦はなくならないからだ。
(会わなければ、孔明に。会って間違いを質さねば!)
許範を見つめる伯約の視線が熱を帯びた。
「諸葛亮が真の大賢人であるか否か、この眼で確かめてまいります」
「よかろう。己が心眼で見抜いたことこそが真実じゃ。心の導きに従うがよい」
これを、と許範が伯約に差し出したのは、かれが長年愛用してきた槍だった。持ち歩きやすいよう、柄はわざと小ぶりに作ってあるが、研ぎ澄まされた穂先は鋭く、許範の魂が込められているかのごとく静かな輝きを放っていた。
「この槍に己の生きざまを誓うたこともあったが……、儂にはもう必要のないものだ。餞別がわりに取っておけ。お主が持っていてくれれば、その槍も本望じゃろうて」
「ありがとうございます」
万感の思いを肚の底に沈め、伯約は、一年をともに過ごした許範のもとを辞した。

◇◆◇

蜀へ、成都へ――。
訳もなく、心がはやる。
成都に向かう道すがら、伯約はまだ会ったことのない諸葛孔明の姿を、さまざまに思い描いていた。それは、幼い頃、死に別れた父にどこか似ている。
故郷を捨ててから今日まで、放浪の中で絶え間なく感じ続けてきた怒り、悲しみ、正義と平和を希求する熱い思い。それらのすべてを、孔明にぶつけてみたい。孔明なら、あるいは何らかの道を示してくれるのではないか。心のどこかに、そんな淡々(あわあわ)とした期待がある。
伯約が浮屠の里で修行に明け暮れていた一年の間に、時代は大きく動いていた。
その領有をめぐって、常に魏、呉、蜀三国の騒乱の火種となっていた荊州の地は、関羽が敗れ、蜀勢力が撤退したことで、魏と呉の二国が激しく争うところとなった。
さらには、一方の覇者である魏王曹操が、関羽の死後まもなく、ついにこの世を去った。しかし、魏の勢力は衰えるどころか、跡を継いだ曹丕を中心に、いっそう充実したものになりつつあった。
天下をめぐる地図が、今また大きく塗り変えられようとしている。
荊州を失陥し、天下三分の構想が頓挫した今、孔明にどのような戦略があるというのだろう。果てしない戦いを、いつまで、何のために続けるのか。
(問い質さねばならぬ、何としても。そして、答えが得られぬその時は……)
――孔明を斬る!
すでに迷いはなかった。伯約にとって、孔明との初めての対面は、身の内が震えるほどの興奮であると同時に、相手と我が身の二つともに一刀両断するがごとき、峻厳な覚悟の場になろうとしていた。

浮屠の里を後にしてから五日目、午後も遅くになって、伯約とイルジュンは成都の城門をくぐった。初めて目にする蜀の都は、落ち着いた秋のたたずまいを見せている。行き交う人々の顔も心なしか穏やかだった。
東の市近くの旅籠に宿を取り、その夜伯約は、久しぶりに泥のように眠った。
次の日から、伯約たちは数日かけて成都の場内を歩きまわった。辻市、酒場、路地裏、兵士の詰所、ありとあらゆる場所に出向き、人々の話を聞いた。思いきって、何度か軍師府の近くにも足を向けてみたが、諸葛孔明らしき人の姿を見かけることはなかった。
「どうすれば孔明に会える?」
陳涛の名前を出せば、おそらく面会はかなうだろう。だが、事と次第によっては孔明を斬らんという覚悟なのだ。表立って行けるはずはなく、また陳涛に迷惑をかけることも避けたかった。
孔明は、劉備に謁見するために城中に参内する以外は、めったに外出しないという。たいていは軍師府で政務を執っており、思索にふける時には余人を寄せ付けず、決まって屋敷の奥の深苑で過ごすらしい。
(細作のまねなど、したくはないが――)
思い迷った末、夜になるのを待って軍師府に忍び込むことにした。
秋の日暮れは早い。西に連なる山並みに日が落ちてしまうと、急にあたりは冷え冷えとしてくる。すぐに往来を行き交う人の姿もまばらになったが、それでも伯約は、じりじりする思いで夜が更けるのを待った。
そっと窺うと、表門の脇に衛士が一人立っているだけで、屋敷の周りや裏門の辺りには警護の気配もない。拍子抜けするほどに手薄な警備だ。伯約は、軍師府の外をぐるりと一周してから、一番人目につかない場所を選び、易々と外塀を乗り越えた。
闇の中を走り、館の奥に広がる深苑に身を潜める。
(俺が曹操か孫権なら、とうの昔に孔明を暗殺しているな)
一国の重臣として、あまりにも無防備ではないか――。
人ごとながら腹立たしさを覚え、さらにその滑稽さに気づいて、伯約は思わず苦笑した。

◇◆◇

深苑は、物音ひとつしない。回廊を照らす明かりがぼんやりと遠くに揺れて、夢の中の風景のようだ。泉水の水面から立ち上った靄が辺りを包み、静寂をより濃いものにしていた。
しん、とした世界にひとりいると、いろいろなことが思い出されてくる。
ふいに胸が痛んだ。ここに来る前、ついて行くと言い張るイルジュンを、半ば殴り倒すようにして説き伏せてきたのだ。
「若をひとりでなぞ、行かせるものか!」
苦悶に顔をゆがめながら、それでも手を離そうとしなかったイルジュンの声が、耳朶の底に残っている。
(もう会えないかもしれぬというのに……)
たったひとりの友人を、己のわがままの道連れにはしたくなかったのだが、もう少し違う別れ方があったようにも思われる。
その時、鮮やかに、闇の奥から琴の音色が湧き上がった。
歌うがごとく、嘆くがごとく……。哀調を帯びた旋律は、奏でる人の心を映すかのように、時に激しく時に優しく夜空を渡り、聴く者の肺腑に染み渡っていく。
じっと耳を傾けているうちに、なぜか懐かしい故郷の風景が思い出され、思わず目頭が熱くなった。伯約は、自分でも訳のわからぬままあふれてきた涙にとまどいつつ、自然にその音色のする方へと歩を進めていた。

琴の音は、回廊の方から聞こえてくるようだった。導かれるようにして泉水のすぐ側まで来た時、どこからか漂ってくる秘めやかな薫香に気づいて、伯約は足を止めた。
泉水に隔てられたすぐ向こう、回廊から伸びた小道の先に、小さな亭がしつらえられている。上ったばかりの月が、ひとりそこに座して琴を奏でている高士の姿を照らし出していた。
月の光のせいだろうか、肌は青白く、陶器のようになめらかな輝きを放っている。威厳をたたえた堂々たる姿、だが目を伏せて琴を奏でる横顔は、慈愛にあふれて優しい。
その人の手が弦の上を滑るたび、紡ぎ出される音色のまろやかさ、温かさに、伯約の胸は熱く震えるのだった。
(この方が――)
この館の主、諸葛亮孔明に違いない。
長い間、会いたいと願っていた。年を経るにつれ、その人に対する思いは複雑に揺れ惑ったが、それでも会って話してみたいという気持ちに変わりはない。
「たれか?」
突然琴の音が止み、誰何(すいか)の声がして、伯約は我に返った。
孔明が、鋭い眼光でこちらを見ている。
もはや逃げ隠れする気には到底なれなかった。伯約は静かに立ち上がると、まっすぐ孔明に向かって歩み寄った。
「お主は……見覚えのない顔だが。どこぞの間者か?」
「それがし、天水郡冀県の産にて姜維伯約と申します。間者ではござらぬが、事と次第によっては諸葛孔明どののお命を頂かんとて参った者です」
伯約の言葉に、孔明は特別驚いた様子も見せず、傍らの白羽扇を取り上げると、ふいに目の前に現れた若者に微笑を含んだ視線を投げた。
「姜維とは、以前どこぞで聞いたことのある名のようだ。だがお主、この孔明の命を奪うと言う以上は、納得のいく訳を聞かせてくれるのであろうな」
静かな双眸の中に、強い意志の炎が燃えていた。
相手の圧倒的な存在感に、つい怖じけて目をそらしそうになる。伯約は、己が弱さを叱咤しつつ、敢えて挑むように、真正面からその眼光を受け止めていった。




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