いにしえ・夢語りHOME蜀錦の庭姜維立志伝目次

姜維立志伝
第四章 邂  逅



<1>

「はあっ!」
「とおっ!」
深山の清浄な空気を震わせて、裂帛の気合が響く。轟々と砕け落ちる滝を背に、一人の若者が、全身から燃えるような闘気をほとばしらせて、一心に槍を振るっている。
姜維伯約であった。
浮屠(ふと)の隠れ里に来て、もう二カ月余になる。
湯治の効果があったのだろう。牙狼に刺された肩の傷は、思いのほか早く癒えた。が、まだまだ左腕は主の思うようには動かない。
(くそっ――)
いらだちが、つい顔に出る。
と、滝壺の向こう側から飄々とした声がした。
「伯約どの、焦りは禁物ぞ」
「先生――」
胸中のわだかまりを言い当てられ、伯約の頬に赤みが差した。先生と呼ばれたのは、小柄な白髪の老人である。長い顎鬚を風になぶらせ、穏やかに微笑していた。
「長い人生の一時じゃ。焦ることはない」
「しかし……」
「体が癒えさえすれば、槍術の技などあっという間に上達するものだ。お主にはそれだけの技量がある」
「恐れ入ります」
伯約は槍を納めると、汗を拭きながら老人に歩み寄り、その傍らに侍した。錦繍の山々を吹き渡る風は、澄んだ空を映してすでに晩秋の冷たさだったが、火照った頬にはかえって心地よかった。

老人の名は許範、字は仲礼という。もとは漢朝に仕え、禁門の警護に侍したこともある武人である。当時から世に聞こえた槍の名手だったが、上役との小さな諍いから禄を辞し、
浪々の身となって久しい。
戦乱の世の煩わしさを避け、この地に庵を結んで隠棲してから、もう十五年以上の月日が流れていた。
麓の里に、牙狼の一党に襲われた村の生き残りが逃れてきたという噂を耳にしたのは、夏の名残も消えかける頃だった。その中に、牙狼に一騎打ちを挑んで瀕死の重傷を負った若者がいると聞き、許範は心を動かされた。
(たった一人で牙狼に戦いをしかけるとは、無鉄砲な奴もいたものだ。しかし、よく命があったものよ)
かつて諸国を流浪していた折、許範は幾度か、請われるままに槍術を伝授したことがある。多くは世話になったことへの返礼か、あるいは旅の空の退屈しのぎだった。が、そんなかれが相手の持つ才能に惹かれ、本気で奥義を仕込んだ弟子が、二人いる。
一人は、若き日の趙雲子龍。青雲の志を抱きながら、未だ仕えるべき主君を得ず、諸国を放浪している頃に出会った。そしてもう一人が、少年だった牙狼(その頃の名は司馬洪弦達といった)である。
両人とも、技量はほぼ互角といってよかった。抜群の集中力と天性の勘のよさでみるみる上達し、あっという間に師匠の技をすべて会得するに至る。
だが、その心根のありようにおいて、二人の間には天と地ほどの開きがあったといえるだろう。
――あの時、牙狼の心に巣食う闇に気づいておれば……。
許範が槍術を手ほどきした時、司馬洪(牙狼)はまだ十一歳の少年だった。幼い頃にひどい火傷を負い、その傷痕が顔一面に残るかれを、母親でさえ化け物を見るような目で見ていた。洪を人として扱ってくれたのは、次兄の司馬懿だけだったという。名門司馬氏の末弟に生まれながら、醜い傷痕のために父や兄弟たちから疎まれ、一族の者からも無視されていた孤独な少年。
その寂しさが少しでも癒されるのであればと、許範は洪に武芸を教えたのである。
今にして思えば、異常ともいえる精進は、屈折した心の裏返しだったのか。洪は一心不乱に修行に打ち込み、ついには恐ろしいほどの使い手となった。
だが。
やがて洪は、長じて兄司馬懿の細作となるや、一軍を率いて、表には出ない忍び働きをするようになる。さらには、牙狼と名乗り、野盗に姿を借りて残虐非道な殺戮を繰り返すようになっていった。
その噂を聞いた時、許範は己の不明を恥じ、一度は自ら牙狼を倒すことを決意した。たとえ刺し違えても、と。
(牙狼――不肖の弟子よ。そなたに槍術を教えたは、この許範、生涯ただ一度の不覚であったわ!)
しかし同時に、それとは別のある思いが勃然と湧き起こり、事の決行を思いとどまらせたのである。その思いとは、
(いや、待て。一方に、劉備玄徳の股肱たる趙雲子龍あり。また一方に、司馬懿仲達の懐刀ともいうべき牙狼あり。儂が手ずから極意を授けた二人が、このような形で今の世にあるということは……。これも宿命か)
――ならばその行く末を、しかとこの目で確かめてやらねばなるまい。
不本意ながら、許範は黙って事の成り行きを見守ることにしたのだった。

◇◆◇

許範が、牙狼と闘ったという若者の噂を耳にしてから数日後。当の姜維伯約が、その傷を癒すため、許範の庵に程近い湯治場に姿を見せた。
「ご老人。釣れますか?」
うららかな午後の日差しの中、渓流に釣り糸を垂れている許範に、若者は気さくな笑顔を向けてきた。邪気のない澄んだ双眸は、その心根を映して清々しかった。
背が高くすらりとした外見ながら、程よく筋肉のついた体躯は、しなやかな雄鹿を思わせて美しい。ただ、剥き出しになった左肩の傷は、気の弱い者なら目をそむけてしまうほどに無惨な様相を呈していた。
「お主か?牙狼に一騎打ちを挑んだという酔狂者は」
許範は内心驚いている。どんな力自慢の豪傑か、あるいは身の程を知らぬ自惚れ屋の若僧かと思っていたのだ。一見したところ、ごく普通のどこにでもいそうな若者だった。ただ、その眸子に燃える熱い炎が、常人とは違っている。
見ず知らずの老人の思いもよらぬ問いにとまどいつつ、伯約は真顔になった。
「もうご老人の耳にも、そのような噂が聞こえているのですか」
「儂の耳は特別じゃて」
許範は声を出して笑い、微笑を含んだ視線を伯約に向けた。
「しかし、無茶なことをする。牙狼の力量を知らなかったのであれば無理もないが、それにしても、命を惜しむということを知らぬご仁じゃな」
老人の言葉に、伯約の表情がこわばった。苦い思いが胸の底によみがえる。彫りの深い横顔に覆いようのない翳が差し、その双眸を暗いものにした。
「自分が、負けるはずはないと思っておりました」
己を取り繕ったり、虚勢を張ったりすることのない伯約の真摯な態度に、いつしか許範は好感を覚えていた。
「しかし此度のことで、己の未熟さを思い知りました。私は、大切な人の命さえ守ることができなかった。私にもっと力があれば、村を、梨梨を守れたのに……」
儚く散ってしまった少女の幻影が、今もありありと目蓋の底に焼き付いている。村を去る日、悔しさのあまり握り締めた墓土のざらざらとした感触が、生々しく手のひらに残っていた。

先刻とは別人のように沈み込んでしまった伯約の様子をじっと凝視していた許範は、釣竿を置くと、改まった顔付きで真っすぐに伯約の方に向き直った。
「お主、名は何という?」
「それがし、擁州冀県の産にて姜維、字は伯約と申します」
伯約も改まらざるを得ない。
答えてから、意外な思いに打たれた。外見は飄々とした老人ながら、許範の双眸には武道家としての凛たる光が宿っている。まるで真剣を向けられているような威圧感に、肌が粟立った。
「お主はこの乱れた世にあってなお、濁世(じょくせ)のあくにも染まらず、まことに賢良な日々を送ってきたものと見える」
許範は深く息をつくと、視線を和らげた。
「では姜維よ、もうひとつ聞こう。お主は強くなりたいか?」
「え?」
「牙狼に勝る強さを得たいか、と聞いておる」
牙狼よりも強く――?
一瞬呆然と言葉を失った伯約だったが、次の瞬間、魅入られたように夢中で頷いていた。
「さすれば、儂がその力を授けてやろう」
「あなたは……仙人か?」
言ってしまってから、伯約は自分の言葉に赤面した。
老人は、そんな伯約の様子を見て、さも愉快そうに破顔哄笑した。
「言い遅れた。儂は許範、字は仲礼。仙人ではないが、いささか槍術の心得のある者だ。実は、幼き日の牙狼に武術を教えたは、この儂なのじゃ」
許範は、昔日の牙狼との因縁を語り、己の胸中を明らかにした。
「先刻からの様子を窺うに、あるいはお主なら、儂が授ける槍術を世のために活かしてくれるやもしれぬと思うたのでな」
「許先生――」
伯約は、我を忘れてその場に拝跪した。
「ぜひともご教授ください。未熟な私をどうぞお導きください。不肖なれども姜維、必ず先生の志に添う男になってみせます!」
「よかろう」
何年付き合おうとも、分かり合えぬ相手もある。かと思えば、ほんの少し言葉を交わしただけで、まるで数十年来の知己のような親しさを覚える人もいる。
許範と伯約の場合は、まさに後者だった。こうして二人は、不思議な縁(えにし)で出会い、固い師弟の契りを結んだのである。

数刻の後、許範にいざなわれた草庵で、伯約は自分を迎えにきたイルジュンとともに、酒杯を傾けていた。
「なんと牙狼は、司馬家の末弟だったのですか?」
「司馬氏の八達といわれ、仲達を筆頭に兄弟みな出世しておるが、ひとり牙狼だけは兄弟の数にも入れてもらえず、幼い頃からその存在は抹殺されたも同然だったのだ」
許範が語る牙狼の幼少期に、伯約は哀れを覚えた。だが、そうだとしても、無辜の民を雑草のように踏みにじるかれの行為は、人として許されるものではない。
「さて、姜維。ひとつ尋ねてもよいかな」
「はい――」
「将来、牙狼に勝る強さを得たとして、そなたはどうする?奴を倒し、己の復讐を遂げるか?」
伯約の胸の内を見透かしたような、許範の問いだった。
確かに、あの夜のことを思い出すだけで、今も怒りに目が眩む。腸(はらわた)が煮えそうになる。だが、牙狼を倒したからといって、胸底に化石のように沈む深い憤りと悲しみは消えるものではなかった。
ただ、もう二度とあんなやり切れない思いはしたくない。自分の周りにいる人々を守ることさえできない己の不甲斐なさに、慙愧の涙を流したくはない。
伯約の怒りは、牙狼個人に向けられたものというよりも、未熟な自分自身に対して、さらには天下のありように対して発せられたものだといえた。
「わかりません、今はまだ――。もし、再び牙狼にめぐりあうことがあれば、後先考えずに挑みかかっていくかもしれませんが。今の私は復讐やそんなもののためではなく、自分自身のために、そして私を信じてくれる人たちのために、少しでも強くなりたいのです」
「ふむ。よい答えじゃ」
粉飾のない素直な答えに、許範は薄く微笑した。

◇◆◇

許範に出会ってからというもの、まだまともに槍も握れないうちから、伯約は一日も欠かすことなくその草庵を訪ね、修行に明け暮れた。
槍術の伝授は言うまでもないが、許範の高潔な人品や学識に学ぶところも多かった。伯約は初めて、人生の師ともいうべき人物にめぐり会ったのである。
傷が癒えるにつれて、伯約の上達には目を見張るものがあった。もともと武術の基礎はできているのだ。許範の与える助言にコツさえ掴めば、さなぎが蝶になるような変貌を見せることもしばしばだった。
浮屠の里での日々は、こうして夢中で、かつ穏やかに過ぎていった。
そしてついに、初めて師匠の許範から一本取った日。伯約は、興奮に目を輝かせて言った。
「いつか私は、牙狼に勝てましょうか?」
「そなたには、牙狼や趙子龍に勝るとも劣らぬ天稟がある。技というものは、磨けば誰でもある程度は上達する。だが、天稟は持って生まれたものだ。稀有の才能を大事にするがよい」
許範は目を細めて、年若い弟子の紅潮した顔を見つめている。
「だが、強さのみを追い求めることを儂はそなたに勧めぬ。それは牙狼と同じく、力のみが支配する修羅の道となるからじゃ。――そなたには、牙狼とは違う道を選んでほしい。儂が伝えるものを、天下万民のために役立ててもらいたいのだ」
許範は、伯約の心根の清廉さを信じた。師弟として起居をともにするうち、その思いは確信となった。この若者ならば、牙狼に対抗して、民草の幸福のためにその槍を振るってくれるだろう、と。
(そなたは、儂にとっておそらく最後の弟子となろう)
六十余年の人生、たいした事もできなかったが、それでも終焉近くになってよい弟子を得た。一人の武人として、過分な一生だったと思える。
趙雲、牙狼、そして姜維。この三人が、これから先どのように交差し、どのような未来を描くのか。それは許範にもわからない。




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