いにしえ・夢語りHOME蜀錦の庭姜維立志伝目次

姜維立志伝
第三章 天地慟哭す



<4>

どのくらい駆けただろう。ずいぶん長い間、意識を失っていたらしい。
途中、一度馬から降ろされ、傷の手当をされたことはぼんやりと覚えている。
――深手ではござるが、急所ははずれております。ご安心なされませ。
男は慣れた手つきで傷口を洗い、止血をほどこした。傷が開かないよう、添え木をあてて固定することも忘れなかった。
(誰だ? なぜ俺を助けてくれる?)
聞きたかったが、声すらも出ない。
再び馬に乗せられ、駆けた。

次に気づいたとき、かたわらにはイルジュンの憔悴した顔があった。
「若――。よかった! 気がついたのか」
「イルジュン……ここは? 助かったのか、俺は……どうして?」
記憶が混濁している。身を起こそうとして左肩に激痛が走り、ようやく伯約は、牙狼との対決に敗れ、瀕死の身を救われたことを思い出した。
「そうだ、俺を助けてくれたひとは――?」
「わからん。見たこともない男だった。どうしてこの場所を知っていたのかもわからん。若を降ろすと、黙って消えてしまった」
伯約は丸二日、眠っていたらしい。
「もう熱も下がったし、心配なさそうだ。若はあいかわらず、悪運が強いな」
イルジュンは、ほっと安堵のため息をつくと、いつもの冷静な顔になった。思わず軽口が出たのも、緊張感がほぐれたためだろう。

そこは、村からほど遠く離れた谷あいにある洞窟の中だった。イルジュンに連れられて村を脱出した女や子どもたちが、ひとかたまりになって隠れていた。
かろうじて牙狼の手を逃れた村人たちの顔は、皆おびえ、疲れきっていた。
薄明かりの中、青ざめた女たちの顔をぼんやりと眺めていた伯約は、突如、何かに打たれたように、あっと声をあげた。当然そこにいるべきはずの少女の顔が見えないことに気づいたのだ。
「梨梨は? 梨梨はどうした?」
一瞬沈黙したイルジュンの顔が、苦渋に歪んだようだった。
「梨梨は死んだ……」
「まさか――」
「若が一人で牙狼を倒しに行ったと知って、皆が止めるのもきかず村に戻ったんだ。そこを、残っていた野盗どもに見つかった。追いかけたが、間に合わなかった」
「斬られたのか?」
イルジュンは、暫時、名状しがたい表情で伯約を見つめてから、言いよどんでいた言葉をしぼり出した。
「獣のような奴らに犯されて……、自分で舌を噛んだ」
「ああっ」
伯約の喉から、悲鳴に近い叫びが漏れた。
梨梨……!
俺のために、お前は……。
どんなにか辛かったろう。苦しかっただろう。伯約は目蓋を閉じ、歯をくいしばった。
ふいに、地に泣き伏した女がいる。梨梨の年老いた母親が、こらえきれずに慟哭したのだ。なぜ自分の娘だけが、という思いがあっただろう。魂を引きちぎるようなすすり泣きは、いつまでも止まなかった。
(俺はお前を、この村を、必ず守ると約束したのに……)
あの時、伯約を見上げた梨梨の、くったくのない笑顔がよみがえってきた。小さなやせた肩の感触が、今も両手に残っている。
――すまぬ。
涙があふれた。後から後から、あふれて止まらなかった。
「若、俺の手落ちだ。俺がもっと気をつけていれば――」
「お前のせいじゃない!」
握り締めた拳が、怒りにふるえた。体中の毛穴という毛穴から、今にも血が噴き出しそうだ。
――俺のせいだ。
「俺が思い上がっていたから……。俺があの時、牙狼を倒そうなどと思わなければ……。いや、そもそも、自分一人の力で村を守ろうなどと大それたことを考えたのが間違いだったんだ」
イルジュンの茶色の眸が、悲哀の翳をたたえて伯約を見つめた。
「若……。今は何も考えるな。もう少し、休んだ方がいい」

◇◆◇

伯約がようやく褥(ふしど)から起き上がれるようになった頃、長老格の老人が声をかけてきた。
「お武家さま――。わしらは、村を捨てようと思っとります」
「そうか」
「村に戻っても、野盗どもがまたいつ襲ってくるかもしれねえ。もう村には、惜しいほどのものも残ってねえし、みんなで話し合って決めました」
「それで、どうするつもりだ?」
老人は、深い皺の刻まれた顔に、諦観に似た笑みを浮かべた。
「ここからずっと西の山奥に入った所に、浮屠(ふと)の村がございます。世間にあまり知られておらぬ隠れ里だそうで、そこを頼ろうかと。浮屠の衆は慈悲深いと聞いておりますし、これくらいの人数なら何とか受け入れてもらえましょう」
浮屠とは、当時ようやく中国でも興り始めていた仏教を信じる人たちのことである。まだ新興の宗教でもあったし、五斗米道の本拠地だった漢中では、ことに肩身が狭かったのだろう。浮屠の人々は、山深い僻地に集落をつくり、ひっそりと隠れ住んでいた。
「お武家さまもご一緒なさいませんか」
「………」
「浮屠の里の近くには、金瘡にきく温泉があると前に聞いたことがございます。わしらとともに行って、どうかその傷を癒してくださいまし」
思いがけない申し出に、胸が熱くなった。村人たちにとって、自分は村に災厄を持ち込んだ厄介者ではなかったか。
「元はといえば、この災難は私が招いたことかもしれぬのに、おぬしはそう言ってくれるのか」
「とんでもない!」
老人は、伯約の言葉にかぶりを振ると、莞爾として言った。
「あなたさまは、わしらの村のために命を懸けてくださった。そのことは、村の者は皆、よく承知しております」

◇◆◇

村を去る日。
焼け残った家財道具や、なけなしの食料などを運び出している村人たちと離れ、伯約は一人、谷間の村を見下ろす高台への道をたどっていた。傷にさわらぬよう、できるだけゆっくりと歩を進める。
左肩は、まだまったく動かない。幸い傷口が化膿することはなかったが、立ち居も思いどおりにはならない有り様だった。
そこかしこに、焼け焦げた家の残骸が黒々と横たわっている。収穫を目前にしていたきびや粟は、馬蹄に踏み荒らされて見る影もない。無残な廃墟が眼下に広がっていた。
疎林の中に、夥しい数の新しい土饅頭が並んでいる。野盗に殺された村人たちを葬ったものだった。中の一つが、梨梨の墓だという。イルジュンに教えられたとおりの、小さな石が置かれた土盛りの前に膝を折り、伯約は黙って頭を垂れた。
(この土くれが……? 柔らかで温かかったお前は、どこへ行ってしまったんだ?)
後悔、怒り、悲しみ……。次々に胸に湧き起こり、せき上げてくる感情を、伯約は押さえることができなかった。

人が死ぬのは、幾度となく目にしてきた。戦で、飢饉で、病で。だが、かつてこれほどの重さで、ひとりの人間の死を受け止めたことはない。
(俺には何の力もない。ほんの少し、人より武術ができるというだけの無力な若僧だ。それとても、井の中の蛙に過ぎなかったのだと、思い知らされた……)
牙狼に敗れた挫折感、何もできなかった自分に対する罪悪感、そして、梨梨の死。
この数日の出来事は、伯約の心に一生消えない傷を残すだろう。
(俺は、世話になった人や、大切な人たちの命を守ることすらできなかったのだ)
伯約の心を映すように、風が荒れ始めた。強風に煽られ、木々の梢が悲鳴をあげる。それらが共鳴し、山鳴りとなって、やがて谷全体が重苦しいうなりに包まれていく。
――天地が哭いているのだ。
その慟哭が、伯約には天が自分を叱責する声に思われてならなかった。そして今は、その天の怒りに真正面から向かい合いたい、と思う。
「若。そろそろ出発しよう」
麓から、自分を呼ぶイルジュンの声が聞こえてきた。
伯約は立ち上がり、もう一度墓に向かって手を合わせた。
(梨梨、さらばだ――)
伯約は雲のわき立つ彼方を見据えると、決意を新たにした。そして村人たちとともに、浮屠の村をめざして旅立っていった。



語り部のつぶやき…。

ようやく第3章終了です。それにしても、いよいよシバレン調の剣豪小説みたいになってきてますねえ(笑)。
今回登場した牙狼は、こういうお話にはお約束の「宿命のライバル」というやつです。今後も、いろんな形で姜維に絡んでくる重要な役回りになる予定。ということで、思いっきり強くて極悪なキャラに仕立ててみたのですが(イメージとしては「るろ剣」の志々雄、あるいは「幻想水滸伝2」のルカ・ブライトあたり)、やっぱりまだまだ甘いかもしれません。
志々雄やルカには、自分の存在をも含めたこの世界そのものを否定しているという、一種の突き抜けた悪の魅力がありましたが、それに比べれば、うちの牙狼はまだまだ人間的ですね〜〜。
さて、いよいよ次章では、姜維と孔明の邂逅を描こうと思っています。どんな出会いになるのか、どうぞお楽しみに!



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