姜維立志伝 |
第二章 母の悲しみ |
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姜維伯約がいる関中から、目を南に向けると、そこは益州(蜀)である。 古来、蜀は「天府の国」と呼ばれた。長江の上流、険峻な山々に囲まれた中に、千里の沃野が広がっている。気候は温暖で、地味は肥え、民も多い。さらに、四川盆地をとりまく山脈は、巧まずして天然の要害となり、外敵の侵入を防いでくれる。じっくりと兵を養い、国力を蓄えるには、最適の土地であるといえるだろう。 その益州は、後漢末期に劉焉がこの地の刺史となって以来、外界との交わりを断ち、一種の独立国ともいうべき社会を成立させていたが、それとて、いつまでも動乱の外の別天地ではあり得なかった。 諸葛亮孔明は、足掛かりとなる地盤を持たぬ流浪の将軍劉備玄徳に、この地を取ることを勧めた。荊州と益州を有し、北の曹操、東の孫権と並び立つ――「天下三分の計」を説いたのである。 そしてその献策どおり、劉備は劉焉の子劉璋を攻めてこれを破り、巴蜀の地を手に入れたのだった。 ◇◆◇ さて、話はほんの少しさかのぼる。姜維伯約が盗賊の手から春英を救った縁で、旅芸人一座の座長、実は諸葛亮の細作頭である陳涛に出会ったころ――。 後に錦城とも呼ばれた蜀の都、成都城内の一画に、軍師諸葛亮の公邸はある。邸内は、孔明が日々の公務を執る軍師府と、家族とともに住まいする奥向きとに別れ、さらにひときわ奥まった場所に山水をめぐらした清雅な庭園があった。 深苑は、秋の気配が濃い。 秋草には露が降り敷き、すだくような虫の声が天地を包んでいる。おぼろに霞んだ十六夜の月が、泉水の上にしつらえた亭にたたずむ人の姿を浮かび上がらせていた。 すらりとした長身。切れ長の双眸は、内に静かな情熱を秘めて熱い。手にした白羽扇をときおり物憂げに動かしながら、じっと沈思しているのは、諸葛亮孔明その人だった。 ふと、虫の音が止んだ。泉水の横の茂みがかすかにざわめき、影の中から、気配だけの声が伝わってきた。 (耳目にござる。軍師殿に、頭からの文をことづかってまいりました) 「ご苦労。近う参れ」 夜気の底にしみ渡るような静雅な声に応えて、影が動いた。影は、孔明に小さくたたまれた絹布に書かれた文を手渡した。 「陳兄は息災か」 (――は。ただ今は冀城におります) 「冀城か……。では、長安もそれほど遠くないの。つぎの便りを楽しみにしておると伝えてくれい」 (では、これにて――) 「気をつけて行け。誰にも悟られぬように」 (承知……) ふたたび影だけが動き、その気配も消えたかと思ったとき、後ろで声がした。 「あなた――」 密やかな衣擦れの音とともに回廊を近づいてきたのは、妻の桂華だった。 「玄徳さまからのお使者がお見えです。客殿にお通ししておりますが」 「さようか。では、すぐに参ろう」 身を翻した孔明に、桂華が不思議そうな眸で問うた。 「たれぞ、おりましたか?」 「陳兄からの使いが控えておったが――。もう、去ったのであろう」 「まあ……。ほんに、風のような者たちですこと」 草むらで、また虫が鳴きはじめた。 使者の趣は、張飛に娘が生まれた祝いに内輪だけのささやかな宴席を張るので、軍師にも来駕願えないかというものだった。 ――ぜひに、と伝えよ。 劉備はそう使者に念を押したらしい。だが孔明は、気分がすぐれぬという理由でその申し出を丁重に断ると、逃げるようにして寝所に引きこもってしまった。 陰鬱な表情で、寝台に腰を落とした孔明の脳裏をよぎったのは、 ――否。 と口にしたときの、当惑した使者の顔だ。まさか断りの言葉が返ってこようとは、予想もしていなかったのだろう。その怪訝そうな表情が、そのまま主君劉備玄徳の顔に重なった。劉備のことだ。孔明の言い訳が嘘であると見抜けぬはずがない。 (殿は、私のわがままをいぶかっておられるだろうか。それとも、この胸の内にある女々しい悋気に気づいて、孔明の小ささを笑うておいでか……) 悶々となすこともなく、灯火を近寄せ、先刻受け取った文を開いてみる。 孔明指揮下にあって劉備軍の諜報活動一切を引き受けているのが、荊州耳目と呼ばれる細作集団だ。その頭領陳涛からは、定期的に文が届く。文は、ところどころ暗号のようになっていて、孔明でなければ解らない工夫がされていた。 冀城からの便りには、姜維伯約という若者のことが記されていた。 (陳兄も惚れっぽいことだ) 孔明は、人の噂や評判などというものが、如何にあてにならないものかよく判っているつもりだ。それでも、陳涛が好意を持ったという冀県に住む俊才の存在は、冷徹な軍師の心に微妙な印象を残した。 月が高くなったようだ。 桂華が忍び込むようにして、寝所に入ってきた。寝台に腰掛けた孔明のすぐ側に膝を落とした妻は、ひどく真顔になっている。 「あなた――。よろしいのですか?玄徳さまのお誘いをお断りになられて」 「私などおらぬほうが、殿も張将軍も心置きなく酒が飲めようというものだ」 「また、そのように……」 駄々っ子みたいなことを、と言いかけたことばを喉の奥で飲み込んだ。良人がこんな物言いをするときは、何か心にひどくわだかまりのあるときなのだ。 孔明の双眸は、目の前の桂華をじっと見つめていたが、その実、何も見ていないようでもあった。 自分に対する劉備の扱いに関して、不満を抱いたことはない。三顧の礼を尽くして出馬を要請されて以来、常に破格の待遇で遇されてきたと思う。 だが、折にふれて劉備と関羽、張飛の、主従を超えた義兄弟の交情の深さを見せられるたび、そこには踏み込めない自分を感じてしまうのも確かだった。 (玄徳さまにとって、私はあくまでも軍師であり部下だ。それ以上のことを望みはせぬ) それはわかっている。わかっていても、心が疼くのだ。 突然、孔明は桂華を抱き寄せた。激情のままに。血が騒いで止めようがなかった。 「いや――」 桂華は抗ってみせた。笄が落ち、髪が乱れる。透けるような茶色の、波打つ巻き毛が寝台の上に散った。桂華の抵抗はしだいに小さくなり、やがて密やかなあえぎに変わる……。 力の限り妻を抱く。抱きながら、孔明は己の女々しさを叱咤した。 (私は、情けない男だ。これほどのご厚恩を蒙りながら、なお殿を恨みに思うとは) 妻は無限の優しさで、そんな夫を受け止める。目を閉じ、少し微笑していた。 「お心は静まりましたか――」 良人の心の中には、妻である自分にも触れられない闇がある。その闇が、時に猛々しい嵐となって孔明を衝き動かすのかもしれない。 「あなたさまの心は、いつも玄徳さまのことでいっぱいですのね」 「私が?」 「たとえその十分の一でも、わたくしの占める位置があれば、と思いますわ」 妻は、乱れた髪を整えながら、目の端で孔明を睨むようなしぐさを見せた。 桂華は、荊州の名士黄承彦の娘である。孔明がまだ隆中に閑居していた頃、娶った。人の心をよく斟酌する娘で、さらに時折、孔明でさえはっとするような才知を見せた。父親の黄承彦はそんな娘の才を愛し、「もし男であれば、名を成したであろうに」と述懐したという。 しかし、美人ではない。浅黒い肌、赤毛といってもいいほどのくせ毛。あるいは南方の血が混じっているのか。当時の美人の定義には当てはまらないといっていい。 だが孔明は、どこか異国の香りを漂わせた彼女の容貌が好きだった。触れると指に絡みついてくる柔らかな髪、人の心まで映すような薄茶色の眸子、人を見るとき目を見張るくせ……。何よりも、あっけらかんとした桂華の明るさに接していると、こちらまで元気が湧いてくるような気になれるのだった。 琴瑟相和し――。 この一風変わった妻が持つ生来の明るさに、孔明は何度救われたことだろう。 |
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