いにしえ・夢語りHOME蜀錦の庭姜維立志伝目次

姜維立志伝
第一章 関中の風



<5>

陳涛の幕舎を辞した後、これというあてもなく冀城の城下を逍遥していた伯約は、町外れの池のほとりで足を止めた。風に揺れる楊の木の幹に、見覚えのある馬が繋いである。
「――イルジュン!」
馬から少し離れた場所で、買い出しの荷を肩に負い、じっと水面を凝視している屈強の若者は、伯約の家で下男をしている西羌人の青年だった。何を思案しているのか、肩幅の広い背中に孤独な影がにじんでいる。
「若――」
振り返った薄茶色の眸子が、伯約を認めて微笑した。
「こんな所で何をしている?」
「若こそ……。また、さぼったな?」
五歳年上のこの異郷人が、どんな縁で姜家に仕えているのか、伯約は知らない。物心ついた時にはすでに側にいて、ずっと兄弟のように育ってきた。乗馬も剣も弓も、イルジュンに手ほどきを受けたのだ。
「人聞きの悪いことを言うな。これでも見聞を広げているのだ。少なくとも、文桓どのは康先生より広い世界を見知っておられる」
「漢人は昔から口がうまい」
「………」
一瞬の沈黙の後、どちらからともなく破顔し、伯約は自分よりはるかに上背のあるイルジュンの胸を軽く小突いた。
幼い頃からともに過ごしてきたこの家僕の前では、何の屈託もなく素のままの自分をさらすことができる。
「奥様を城下まで送ってきたのだ。帰りはよいと言われたので、そこで別れた」
「母上が? めずらしいな」
父が死んでからは、めったに華やかな場所へ外出などしない母だった。迎えはいらぬというのも気になったが……。
(引きこもってばかりでは滅入ってしまうものだ。たまには気晴らしされるのもよいかもしれぬな)
着飾りはせずとも、まだまだ美しく気品に満ちている。そんな母愛玲を、伯約は誇りに思う。臈たけた母の白い横顔が、ふいに春英の面影と重なった。
「――イルジュン。お前は、好きな女はいないのか?」
「おらぬ」
伯約の唐突な問いに、家僕は眉毛ひとつ動かさずに答えた。
「俺は奴婢だ。女を好きになれる身分ではない。そうだろう?」
イルジュンのことを奴婢だなどと思ったことは一度もない。だが、ふたりの結びつきがどうであれ、かれの身分が、己の意思の自由にならないものであることは確かだった。
「若は、好きな女ができたのか?」
イルジュンは、兄が弟を気遣うような温かいまなざしを伯約に向けた。
「さあ――。自分でもよく分からない。側にいるだけで楽しいのに、そのくせ訳もなく胸が苦しくなる……」
「それは恋、というものだな」
「なるほど。恋か」
西羌人の断定には妙な説得力がある。伯約は晴れ晴れとした顔になった。
「久しぶりに二人で遠乗りでもせぬか。夕刻まではまだ間がある」
「ようし。では、若の恋の話とやらをとくと聞かせてもらおう」

◇◆◇

姜維伯約の恋は、しかしその後いっこうに進展せず、春英との別離の日がしだいに近づきつつあった。
秋の気配が一段と深まる頃、足繁く通った陳涛一座の幕舎の周りが、やけにきれいに片付けられているのを見て、伯約は漠とした予感におののきながら、確かめてみた。
「文桓どの。ご出立ですか」
「明後日、ここを発つことになりました」
「それはまた、急な――」
言葉が続かない。不安が現実のものとなり、春英と逢えなくなるという事実が、鉛のような重さで伯約の心を押し包んだ。
「お名残は尽きませぬが、ひとつ処に永くは留まれぬのが我らの定め……。またどこかでお目にかかれる日もございましょう」
そこまで言ってから、陳涛は伯約の顔をまじまじとのぞき込んだ。
「伯約どの。もしその気になられたら、いつでも孔明さまをお訪ねなされませ。あの方はきっと、あなたさまを手厚くお迎えになられるはず――」
伯約はいつかの話を、陳涛の冗談だと思って忘れていた。
「私のような未熟者を、天下に名だたる大軍師が受け入れてくださるとは思えませぬが」
「なんの、この陳涛が請け合いまする。伯約どの、その日を楽しみにしておりますぞ」
陳涛は伯約の両肩を抱くようにして叩き、日に焼けた髭面をほころばせると、染みとおるような声でささやいた。
「――春英が、裏におります。どうか会うてやってくだされ」

「伯約さま……」
幕舎の陰から、ひっそりと姿を見せた春英は、伯約の前に立つとこらえきれなくなったのか、すがるようなしぐさで若者の胸に体重を預けた。肩越しに、泣き腫らした目蓋の色がちらと見えた。
「春英――」
「お別れでございますね」
やっとそれだけを言い、後は声にならない嗚咽がもれるばかりだ。
伯約は、自分の胸で震えている少女の肩をそっと抱きしめた。初めて触れる乙女の肌の感触である。折れてしまうのではないかと思われるほどの繊細さ。それでいて、孤独な心を包み込んでくれるような温かさ。
(もう、逢えぬのか――)
胸の奥がちりちりと痛い。今、春英を失うことは、身を裂かれる思いがする。
「いつか、いつか必ずそなたにふさわしい男になって……、そなたを迎えにゆく。それまで待っていてくれるか」
胸の中がしんとした。はりつめた空気の中で、春英の心臓の音が聞こえるようだ。
(――いいえ。この方は、すぐに私のことなど忘れてしまう)
旅の空の下で成長してきた少女は、男の約束など当てにならぬものだと知っている。
それでもいい、と思った。
「……はい」
こっくりとうなずいた拍子に、大粒の涙がぽろぽろと頬にこぼれる。
「――きっと、迎えにゆく」
伯約は眉を上げ、自分に言い聞かせるように繰り返すと、春英を抱く腕に力を込めた。

◇◆◇

陳涛の一座が冀城を発つ日、昼過ぎから季節外れの雷雨になった。
「伯約さま――」
細い白い手が幌の帳を掲げ、中から春英がこわばった笑顔をのぞかせた。絹糸のような睫毛に縁どられた眸子が、熱く潤んでいる。今にも涙がはじけそうな、危うげな笑顔だ。
「どうぞ、いつまでもお達者で」
「春英どのも……」
送る者も送られる者も、等しくその肩を冷たい雨が濡らしていく。
驟雨の中を遠ざかる車馬の列を見送りながら、伯約は何度も、追いかけていって春英を奪い去りたい衝動に駆られた。
やがて一行の影は、灰色の靄にまぎれて見えなくなった。どこかぽっかりと虚ろになった心に、陳涛の言葉がよみがえってくる。
――もしその気になられたら、いつでも孔明さまをお訪ねなされ――。
(諸葛孔明か……。文桓どのは、俺に何をせよと言うのだ?)
新天地に仕官の口を求め、男子としての夢を賭けてみる。そのような生き方もあるかと思う。何よりも、時代が動いている。
だがやはり、母をひとり残し、この地を捨ててはいけない。
秦嶺山脈の北、函谷関の西――。黄砂が舞い、乾いた風が西域の匂いを運ぶ関中こそ、姜維伯約の天地なのだ。



語り部のつぶやき…。
ようやく第1章が終わりました。にしても、まったく物語が動いていませんね。長大なプロローグっていう感じでしょうか(笑)。
本当は、もっと天衣無縫なキャラにしたかった姜維くんなのですが、やっぱり真面目なコになってしまいました。作者が意図して行動させようとしても、なかなか思うように動いてくれないんですよ。
でもキャラが勝手に動き出すというのは、それだけ人物造形がきちんとできているっていうか、固まってしまっているということなのかもしれません。だとしたら、これはぜいたくな悩み……?
さて、第2章は、いよいよもうひとりの主役 孔明さまの登場です。お楽しみに!



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