いにしえ夢語り蜀錦の庭言の葉つづり



Bar ピーチ・ハート
ここは、心優しいひとたちのとまり木。


今宵ひとときのやすらぎをどうぞ…




都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
今夜も、ちょっと疲れた男たちが羽根を安めにやってくる……。



PART.7 クリスマスソングなんて聞こえない

(ああ、今年も残り少なくなってきたなあ)
12月も半ばを過ぎたある日。
アルバイト先のバー・ピーチハートへ向かう途中の道で、ぼく(姜維)は、すっかり暗くなった空を見上げてほっとため息をついた。
街はクリスマスのイルミネーションに飾られ、いつもの喧騒も心なしか華やいで聞こえる。すれちがう人たちの表情もどことなく楽しげだ。
ぼくはといえば、今年も取り立てて何ということもなく、また一年が過ぎようとしていた。
(結局今年も、カノジョできなかったしぃ……)
ふだんはたいして気にもならないのに、毎年クリスマスが近づくこの時期になると、ちょっと寂しい感傷的な気分にとらわれてしまうのはなぜだろう。


その夜、ピーチ・ハートはめずらしく客が多かった。常連客の張飛さんや孔明さん、時々足を運んでくれる馴染み客、忘年会の流れらしい初めての客まで、狭い店内は大賑わいだ。
中でも、そこだけ花が咲いたかのように華やかなのは、一番奥のテーブル席に陣取った二人の女性だった。
近くに勤めるOLだろうか。飲んで食べておしゃべりして、と思いっきり週末の夜を満喫している。
楽しそうにさんざめく彼女たちの様子を、ぼくは見るともなく眺めていた。
すると突然、二人のうち若い方のコが、ぼくに向かって手を上げた。
「すみませ〜ん。生ビールお代わりお願いします」
「はいっ」
自分でも、ちょっとテンション高いなと思うほどの声が出てしまい、さっそくカウンターに座っていた張飛さんに突っ込まれた。
「おっ、姜維くん。いい返事だねえ」
「張飛さんってば、茶化さないでくださいよ」
ぼくがビールのジョッキを持っていくと、さっき手を上げたコがにっこりと笑った。
「ねえ、キミ、アルバイトくん? なんていう名前?」
「え? ぼくですか」
「そう。さっきからこっちの大喬お姉さまが、聞け聞けってうるさいの」
「ちょっと、小喬!」
大喬と呼ばれた女性は、真っ赤になって僕の方をちらりと見た。

――ええ? それって、どういうリアクション?

思いがけない展開に、ちょっとドギマギするぼく。我ながら分かりやすい性格だよ、全く。
「はい。アルバイトの姜維です。どうぞよろしく」
「ふ〜ん。姜維くんっていうんだ。ここのお店にはいつも出てるの?」
「ええ、まあ。テスト期間以外は」
「ですって。大喬お姉さま、これから毎晩通う?」
「ばか……」
恥ずかしそうに目を伏せるしぐさが、何ともいえずかわいらしい。
(かわいいひとだなあ。ぼくよりは年上みたいだけど)
何と答えたらいいのか、言葉に詰まって、そんなことをぼんやりと考えていたぼくに、趙雲マスターの厳しい声が飛んできた。
「姜維くん、2番テーブルのオーダー上がりましたよ」
「あっ、はい! すみません」
いけない、いけない。仕事中だぞ。
ぼくは、あわててカウンターに戻り、渡された料理をテーブルに運んだ。


他の客がいるときは、特定のお客さまとあまり馴れ馴れしく話したりしないように、とはいつもマスターに言われていることだ。
そんなことも忘れてしまうほど、ぼくはのぼせ上がっていたんだろうか。確かに今だって、彼女の視線が気にならないといえば嘘になるけど。
けだるそうにカウンターに頬杖をついていた孔明さんが、料理を運び終えて戻ってきたぼくの顔を眺めて、にんまりと笑った。
「姜維ちゃんってば、過剰なサービスはだめよ〜。ここはホストクラブじゃないんだから」
「ちょっ……孔明さん。何を言うんですか、いきなり」
「うふ。まあ、舞い上がるのもわかるけどねえぇ」
孔明さんは、ギムレットのグラスを一気に飲み干すと、何がおかしいのか、くっくっと喉を鳴らして笑った。
隣に座っていた張飛さんも、楽しそうにウーロン茶割りのグラスを傾ける。
「よかったな、姜維。今からがんばれば、今年のクリスマスに間に合うぜ。カノジョいない歴20年の俺としちゃ、青春真っ最中の姜維くんがうらやましい限りだよ」
「な……。張飛さんまで……」
「うふふ。ほらほら、顔がにやけてる〜♪」
だめだ。孔明さんったら、今夜はお店が休みだからって、完全にまわっちゃってるよぉ。
「もう、やめてくださいよ、二人とも」
こんな会話、奥の女性たちに聞かれたくない。困り果てたぼくに、見かねた趙雲マスターが助け舟を出してくれた。
「はいはい、姜維くん。ここはいいから、裏へ行ってお水のボトルを2本持ってきて」
ぼくは、これ幸いと、逃げるようにその場を離れた。


「はあ……」
ストックヤードの冷蔵庫を開けて、「ごろごろ水」というラベルが貼られたペットボトルを2本取り出した僕は、何だかやり切れない思いでため息をついた。

――みんなしてあんなにからかうなんて、ひどいよ。まだ、何がどうなったっていうわけでもないのに。

何がどうなったどころが、まだ何も始まってすらいないのだ。
この調子だと、「ピーチ・ハート」で働いている限り、ぼくには恋愛なんてできないんじゃないだろうか。
(何言ってるんだ。それじゃまるで、「ピーチ・ハート」がぼくの生活のすべてみたいじゃないか)
ぼくにだって、大学生としての日常があるんだ。あんまり熱心に授業には出てないけど。
合コンや合ハイのお誘いだって来るかもしれない。まあ、部活もやってないし、サークルもうざくて半年でやめちゃったから、どこからもお呼びがかかりそうにはないけど。

――だめだ。やっぱりおれの毎日って、「ピーチ・ハート」オンリーじゃんか……。orz

あらためて気づいた。なんて寂しい、ぼくの学生生活。
これじゃカノジョなんて、永久にできるわけないよ〜。(T_T)
げんなりして店内に戻ったぼくに、趙雲マスターから次々と仕事の指示が飛んだ。まるで、わざと忙しくさせてるみたいに。
まあ、そのおかげで、余計な気を遣わなくてもよくなったんだけどね。ぼくがせわしなく動いているものだから、張飛さんや孔明さんの冷やかしも来なくなったし。
そうこうしているうちに、客足が引き始め、12時をまわった頃には、常連の張飛さんと孔明さん、それに奥の女性二人組だけ、といういつもの静かな「ピーチ・ハート」の風景になった。
「さあて、もういいでしょう」
グラスを片付けていたマスターが、ぼくに目配せした。
「このカクテル、奥のテーブルに持っていって。私のおごりですから。あ、少しゆっくり話してきてもいいですよ」
「え?」
きょとんとするぼくに、マスターが軽くウインクする。
「張飛さんも孔明さんも身内みたいなものですから、もう気を遣わなくても大丈夫。それよりも、こんな時間まで待ってくださったお客さまに、しっかりサービスしてきてください」
「マスター……」
いつもながらあざやかな趙雲マスターの気配りに、じわっと胸が熱くなる。
なんでこの人は、こんなにかっこいいんだろう。やっぱりぼくとは格が違うんだ。(←いえいえ、単なる年の功:作者)
ぼくは、おずおずとマスターからカクテルを受け取り、ちょっとうきうきしながら奥のテーブルに運んだ。


「これ、マスターからのサービスです」
「きゃっ、うれしい〜〜」
ぼくがカクテルグラスとおつまみをテーブルに置くと、彼女たちは、黄色い歓声を上げた。
「それから、お客さまと少し話してきてもいいって、マスターのお許しが出ました」
「わっ、ほんと?」
「じゃ、どうぞ、ここに座ってくださいな」
大喬さんが、自分の座っている位置をずらして、ぼくに隣の席を勧めてくれた。
「失礼します」
律儀に断ってから、ぼくはソファの隅っこに腰を下ろした。
ここで働き始めてもう結構経つけれど、こんな風にお客さまの横に座るなんて初めてだ。やたら体が緊張してる。
ぼくは、思い切って大喬さんに話しかけた。
「こんなに遅くなって、大丈夫なんですか?」
大喬さんは、びっくりしたように顔を上げると、ぼくを見てにっこりと笑った。でも、言葉で答えてくれたのは小喬さんの方だ。
「うん、平気よ。アタシも大喬お姉さまも、家近いから。タクシーで帰ってもすぐだし」
「そうですか。それじゃ、どうぞ今夜はゆっくりしていってくださいね」
ええっと、それから……。一体、何を話せばいいんだろう?
ああ、何だか顔がにやけているのが自分でも分かる。だって、思いがけず、幸福の女神が突然目の前に降りてきて、宝くじが当たったよと告げられたみたいなものなんだから。
それからも、いろいろ他愛のないことをしゃべった気がするのだが、話の内容は上の空で、全く覚えていない。
ただ、大喬さんの指が細くてきれいだなとか、目を伏せると睫毛がすごく長いんだなとか、そんなことばかり考えていた。


そろそろ腰を上げなくちゃ、と思いかけた頃、改まった顔つきで大喬さんがぼくに言った。
「姜維さん。24日の夜、空いてますか?」
「はい?」
「もしよかったら……」

――おおお、これはもしかして、デートのお誘いかぁ? キタ━(´∀`)━!!

心臓がどくん、と音をたてる。
「――会ってほしい人がいるんです」
「え?」
意味が分からない。茫然と大喬さんの顔を見つめるぼくの顔は、ずいぶんと間抜けに見えたことだろう。
「実は、私の兄が、ぜひあなたに会いたいって……」
「お兄さん……ですか?」

どういうことだ? お兄さんって?
なんでだよぉ? なんで、ここで突然、兄貴が出てくるんだよ?
ぼくに会いたいっていうのは、あなたじゃなくて兄さんだったの?
それって、いったい――?

ぼくは、頭が真っ白になり、ふらふらとその場を離れた。
大喬さんが大声で何かを叫んでいたようだったけど、ぼくの耳には何も届かなかった。


どうやってカウンターまでたどり着いただろう。
孔明さんや張飛さんの視線がやけに痛い。二人とも押し黙ったまま何も言ってくれないのが、かえって辛かった。
「すみません、マスター。今日はこれで早引けさせてください」
やっとの思いでそれだけ言うと、ぼくはそそくさと裏へ入り、着替えもせずに上着を引っ掛けた。
マスターが心配そうにぼくの顔を覗き込む。
「早引けはいいけど、姜維くん、大丈夫ですか?」
「そんなに心配してくださらなくても、大丈夫ですよ」
我ながら説得力のない返事だなあと思いつつ、他にいい言葉も見つからない。
「俺、送っていってやろうか」
やけに優しい張飛さんの声が聞こえる。
猫なで声はやめてよ。よけいみじめな気持ちになってしまうから。
「平気です。ちゃんと帰れますから」
足早に店を出ようとするぼくに、大喬さんが駆け寄った。
「ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……」
今にも泣き出しそうな顔をして――。
(冗談じゃないよ。だったら、どんなつもりだったんだ?)
ぼくは小さく頭を下げると、黙ってドアを開け、一度も振り返らずに店を後にした。

◆◇◆

その後、姜維がどこで何をしていたのかは誰にも分からない。ただ、携帯電話は一晩中不通になっていたようだ。
そして。
姜維が飛び出していった後の店内では――。


大喬が、血の気の引いた顔でおろおろしている。
「わっ、どうしよう。私、ひどく誤解させちゃったみたい」
「そりゃまあ、姜維くんにすればショックだわよ〜。彼、ああ見えて純情なんだから」
それまで黙ってカウンターに頬杖をついていた孔明が、大喬にあからさまな非難の目を向けた。
「ここでさんざん孔明さんを見てるのに、まだそっちに対して免疫ないのな?」
「バ〜カ。張飛さんはいつだって一言多いんだから」
相変わらず茶化してばかりいる張飛に、孔明は柳眉を逆立てる。
二人とも、大喬の兄というのが「そっち系」で、姜維のことを見初めた彼が、妹に橋渡しを頼んだのだと思い込んでいた。
「いえ、そうじゃなくて……。兄のこと、最初からもっとはっきり言えばよかったのに……」
しどろもどろになっている大喬の言葉を引き取ったのは、小喬だった。
「大喬お姉さまの兄貴って、毎朝テレビのディレクターやってんのよ」
「はあ?」
「その兄が作ってる番組で、街で見かけたイケメンの男のコを紹介するコーナーがあるんですけど……」
「あ、それ知ってる。あたし、毎週見てるわよ」
「もしかして、姜維に白羽の矢が立ったのか!」
思いがけない話の展開に、張飛も孔明もあっけにとられた。
「いえ、まだきちんと決まったわけじゃなくて――」
「ここのお店にかっこいいコがいる、っていう視聴者からの情報があったんだって」
「本当なら兄が正式に取材を申し込まなくちゃいけないんですけど。今すごく忙しくて時間が取れないから、代わりに見てきてくれないか、って頼まれたんです」
「なあんだ、そうだったんだ〜〜」
分かってみれば、驚くほど単純な話ではないか。
「じゃ、最初から、姜維の品定めをするだけのつもりで来たってことだな」
「ええ。それなのに私ったら、妙に思わせぶりな態度を取ってしまって……。姜維さん、びっくりされたでしょうね」
大喬は、本当にすまなそうに肩を落とした。
「びっくりしたっていうより、相当ショックだったみたいね。期待が大きかった分、落胆も激しかったのねえ」
(ほんとのこと言うと、私もちょっぴりショックだったのよ。姜維くんがノーマルなのは分かってたけど、ああもロコツに拒絶されちゃうとねえ……おネエさまはガックリだわ)
孔明は、ほうっと深いため息をついた。


「さあ、お客さま方。そんなところに立っていないで、こちらにお座りください」
趙雲マスターに勧められるまま、大喬と小喬はカウンターに腰を下ろした。
「これをどうぞ。気持ちが落ち着きますよ」
趙雲がタイミングよく二人の前に置いたのは、ホカホカと湯気を立てているグラスだった。
「これって、お酒?」
「ええ。『ホット・ラム・カウ』という名前の温かいカクテルです。身体が温まりますし、牛乳が入っているので胃にも優しいし、寒い夜にはぴったりでしょう?」
ふーん、と不思議そうな表情でグラスに口をつけた小喬が、弾けるような声を上げた。
「うん、おいしい! 大喬お姉さまも飲んでごらんなさいな」
「ええ、ほんとに。優しくて、ちょっと懐かしい味……」
心が癒されていくような温かい味わいに、大喬はいつしか涙ぐんでいた。
「大喬さん。さあ、もう気を取り直して――。きれいなお嬢様には、悲しい顔は似合いませんよ」
趙雲は、何とか大喬の気持ちを引き立てようとするのだが、彼女の顔は晴れなかった。
「でも、彼のこと、傷つけちゃいましたよね」
「大丈夫。ああ見えても、彼は打たれ強いですから(←マスターってば、それってどういう意味?)。それに、あなたが気に病むことじゃありませんよ」
「でも……」
「誤解なら、いつかは解けますから」
「そうだといいんだけど。誤解を解くチャンスがあるかしら」
「チャンスは作ればいいんです」
そう、誤解ならいつかは解ける。
そして、機会はいつか訪れる。このまま離れ離れになってしまうのでなければ。
さらには、きっかけが何であれ、二人の出会いがこれからどう進展していくか、それはまだ誰にも分からないのだから。
「イブの夜、もしよかったら、ここへお兄さまをお連れしていただく、というのはいかがでしょう? もちろん、大喬さん、小喬さんもご一緒してくださいね。こちらは姜維くんと私、それに張飛さんと孔明さんの四人で、貸切ということにしておきますから」
「え? そんな……いいんですか? クリスマス・イブなのに?」
「もちろんですよ」
趙雲の大胆な発言に、張飛と孔明は思わず顔を見合わせた。
「また始まったぜ」
「マスター、太っ腹〜〜♪」
ここ何年か、クリスマス・イブの「ピーチ・ハート」は貸切ばかりだ。去年は馬超組のロックコンサート。その前の年は孔明ひとりのために。
趙雲マスターが本当に太っ腹なのか、それとも全く商売っ気がないだけなのか、二十年付き合っても未だに分からない張飛だった。




2007/12/27


【あとがき】
すみません。どうしても、クリスマスに間に合わせたかったので、途中までアップしてから追加で書き加えました。年の瀬も押し詰まって、ようやく完結です。
今回名前だけ登場した大喬のお兄さんというのは、実は孫策なんですよ(笑)。売れっ子スターのお友だち周瑜ともども、すでにアイコンもキャラクターもできあがっていて、本当はこの話に登場させようと思っていたんですけど…。
後日譚は、また次の機会に書きますね。今までは、クリスマス前のお話ばっかりで、肝心のイブの話がまったく書けていないんですけど、さすがに今回は、姜維くんと大喬さんのイブの顛末を書いてやらねば、と使命感に燃えている語り部です。
それにしても、ここ3年、クリスマス・イブは貸切の「ピーチ・ハート」。こんなんで商売の方は大丈夫なんでしょうか? 張飛さんならずとも心配になってしまいますね。

【ホット・ラム・カウ】
ホワイトラム30ml、牛乳120ml、砂糖茶さじ1杯を厚手鍋に入れ、木杓子で混ぜながら弱火で温める。65〜70℃くらいが適温。耐熱グラスに注ぎ、シナモンスティックを添える。




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