いにしえ夢語り蜀錦の庭言の葉つづり


Bar ピーチ・ハート
ここは、心優しいひとたちのとまり木


今宵ひとときのやすらぎをどうぞ…


都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
今夜も、ちょっと疲れた男たちが羽根を安めにやってくる……。



PART.8 春はすぐそこに (前編)

ああ、またバレンタインデーの季節か――。

デパートのショーウインドーに並ぶきらびやかなチョコレートのディスプレイを眺めて、ぼく(姜維)は小さなため息をつく。
あちこちでおしゃれなイベントが盛りだくさんなこの時期だけど、ぼくみたいに「恋人いない歴生まれてからずっと」という人種にとっては、何とも言えない寂しい思いにとらわれる季節だったりする。
去年の暮れに知り合った大喬さんとは、あれ以上何の進展もなく終わってしまった。今思えば、ぼくの中に、相手が社会人であることに対する気おくれみたいなものがあったのかもしれない。
結局、今年もまた一人寂しく(もしくはピーチ・ハートでのアルバイトで)過ごすバレンタインデー、ということになりそうだった。

ちょっと沈んだ気持ちを抱えて、ピーチ・ハートのドアを開ける。
ここだけは、街を彩るイルミネーションや喧騒とは無縁の、いつもどおりの空間だ。
ジャズが流れる静かな店内には、すでに常連客である孔明さん、張飛さんの姿があった。
「お二人とも、毎日ご精勤ですね」
「そうでしょ〜。だって、私たちがいないと、閑古鳥なんだもの」
「そうそう、閑古鳥だよな。春もすぐそこだっていうのに、客がいなくちゃマスターも寂しいだろ」
ぼくとしては精一杯の皮肉のつもりだったのだが、二人にさらりと受け流されて、何となく気が抜けてしまった。
二人は閑古鳥なんて言うけれど、週末ともなれば、ピーチ・ハートみたいに繁華街から離れた場所にある小さなバーといえども、それなりに賑わう。
けれど今日は週の真ん中の水曜日、しかも、まだ6時半をまわったところだ。こんな時間からバーの止まり木で時間をつぶしているなんて、よっぽどの暇人しかいないだろう。
「姜維くん、おしゃべりはそれくらいにして。閑古鳥の店でも、やるべき仕事はあるんですよ」
趙雲マスターの厳しい声に、思わず背筋が伸びる。どうやら『閑古鳥』という言葉がマスターの気に障ったらしい。
ぼくはあわてて奥に入り、店の制服に着替えた。
「あらためて、いらっしゃいませ。張飛さん、孔明さん、いつもありがとうございます」
「お、バーテンダーの顔になったね」
ウーロン茶割のグラスをもてあそびながら、張飛さんがにんまりと笑う。
ぼくは、たぶん「恋人いない歴生まれてからずっと」の大先輩である(と思う)張飛さんの無精ひげをながめながら、ちょっと哀しい気持ちになった。ぼくよりずっと長い間、寂しいバレンタインデーを過ごしているにちがいないからだ。

「ところで姜維ちゃん、今3回生よね?」
孔明さんが、ちょっと酔いのまわった妖艶な眸子でぼくに微笑みかける。
「そうですけど?」
「就活、大変なんじゃないの?」
「ええ、まあ」
なぜ急にそんな話題になったのか分からないまま、ぼくは曖昧に言葉を濁した。
「どうしても行く所がなかったら、うちへこない? 店長には私から紹介するわよ」
「へ?」
孔明さんの勤め先といえば、その筋では有名なオカマバー『成都』だ。ということは、ぼくにもオカマになれってことなのか?
言葉をなくしたぼくは、(オカマとは思えない)美しすぎるその笑顔を、呆然と見つめるしかなかった。
「姜維くんなら女装してもバッチリだし、売れっ子になれると思うわよぉ」
「じょ、冗談……」
一瞬、背中に冷たいものが走る。
ほんとに冗談じゃないよ。たとえ「彼女いない歴生まれてからずっと」のぼくでも、正真正銘の日本男児なんだから(ノーマルという意味で)。
「いっそのこと、ここの正社員になっちゃえば? なあ、マスター。一人くらい雇っても大丈夫なんだろ?」
「ご冗談を、張飛さん。何しろ閑古鳥ですからね、正式に人を雇うなんて、そんな余裕はとてもありません」
張飛さんにすれば、固まってしまったぼくに助け舟を出したつもりなのだろうが、マスターにぴしゃりと釘をさされてしまった。
「あ? もしかして、まだ怒ってるの? 『閑古鳥』は、俺としては最大級の賛辞なんだけどなあ」
あの、張飛さん、全く意味が分からないんですが……。
孔明さんのお誘いは速攻お断りだが、実際、就職がとんでもなく難しいのは事実だった。
ここ数年、理系でも、大手からの求人は少なくなっている。ましてぼくのように「考古学」専攻の学生ではつぶしがきかない上に、専門知識や資格を活かして就職するなんていうのは絶望的だ。
同級生の多くは、秋口から会社訪問したりしてせっせと就職活動をしているようだが、全くと言っていいほど景気のいい話は聞こえてこなかった。
(本当に、このままこの店で雇ってほしいくらいだよ……)
張飛さんの言葉に、つい心が揺らいでしまう自分が情けない。
そんなぼくの気持ちを見透かしたように、趙雲マスターがまじめな顔つきで張飛さんに言った。
「うちのような小さな店は、私一人でも十分切り盛りできるんです。従業員に払う給料があるのなら、その分をお客様へのサービスに回すべきじゃありませんか」
予想外の厳しい口調に、うーん、と張飛さんが唸る。
「趙雲マスターらしい立派な心がけだけど、ここはひとつ、就職難にあえぐ学生を助けると思ってだな――」
「もちろん、全く人を雇う余裕がないわけじゃありません。ただ、私の下で働く以上、本気でバーテンダーを目指したいと思う人でなければね」
マスターの言葉に、あっ、とぼくは胸を突かれた。
「姜維くんがここで働いているのは、将来バーテンダーとしてやっていくためじゃないでしょう? だから、一時的にアルバイトとして仕事を手伝ってもらっているんですよ。それ以上でも以下でもない」
そりゃあまあぼく自身、どうせアルバイトなんだし、という甘えがなかったといえば嘘になる。だけど、こうはっきり面と向かって言われると、ちょっと寂しい。
「そりゃあつまり、正式に雇うとなると、今以上に仕込みが厳しくなるってことかい?」
「もちろんです。酒も人間も仕込みが肝心ですからね。どこへ出しても恥ずかしくないバーテンダーになってもらうために、びしびし鍛えますよ」
「マスター。それって、従業員じゃなくて、江戸時代の徒弟制度なんじゃないのぉ」
孔明さんが酔いのまわった口でツッコミを入れる。「徒弟制度」という古めかしい言葉が、静かに微笑むマスターの横顔にとてもしっくり似合う気がして、ぼくは思わず肩をすくめた。
(うへえ〜〜。(^_^;))
やっぱり生半可な気持ちでは、ここのバーテンダーはつとまらない。「楽して就活」なんて虫のいい話は、あきらめた方がよさそうだ。

そんな話をしているうちに、やがて時間は7時をまわった。孔明さんはそろそろ出勤の時間だ。
そのとき、遠慮がちに開いたドアから、見慣れない女性が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
ぼくは飛んで行って、入り口に佇んでいる女性からカシミヤの上品なコートを預かった。セミロングの髪が魅力的な、横顔の素敵なひとだ。
女性の年齢って正直よく分からないのだが、20代後半か30歳前後だろうか。
「カウンターへどうぞ」
「ありがとうございます」
その女性は店内を見渡してから、ほっとため息をつき、カウンターの端の席に遠慮がちに腰をおろした。
「いらっしゃいませ。お客様、どなたかお探しですか?」
「え? ええ。そうなんです。よくお分かりですね?」
マスターの言葉に、女性は驚いたように顔を上げた。
「ずっとこの商売をしていますと、お顔を拝見しただけでお客様の気持ちが分かることもあるんですよ」
まあ、と女性は鮮やかな笑みを浮かべた。
「私は春梅といいます。実は、このお店に、徐庶さんという人がよく来られると聞いてきたのですけど……」
春梅さんの口から出た「徐庶さん」という名前に、思わずぼくや張飛さん、帰り支度をしていた孔明さんまでが聞き耳をたてた。
この女性が、徐庶さんの知り合い……? どういう関係なんだろう?
「はい、ご贔屓にしていただいております」
ぼくたちの動揺をよそに、趙雲マスターは淡々と答える。
「水曜日にはいつも来られるんですよね?」
「ええ。ですが、お越しになるのはたいてい午後9時頃ですね」
「まあ、そうなんですか」
春梅さんの顔に、軽い失望が落ちた。
「それじゃ、今日も9時にならないとダメなんですね」
伏せた睫毛が、華やかな目元に影を落とす。憂いに満ちた眸子を見ていると、こっちまで胸がきゅんとしてしまう。
「どうしても、お会いしたかったんだけど、やっぱり無理ね。なかなか自由にならなくて、ようやく時間を工面できたっていうのに、残念だわ。今夜9時発の飛行機で札幌に帰らなくちゃならないんです」
「札幌に――」
ここから空港までは、どんなに急いでも40分はかかる。搭乗手続きの時間を考えたら、1時間前には店を出なければ間に合わない。
どうして、徐庶さんはいつも9時にしかやってこないんだろう。どうにかして、連絡を取ってあげられないものだろうか。マスターなら連絡先を知っているかもしれないのに……。
だけど、趙雲マスターは静かに彼女の顔を見守っているだけだ。
ぼくは、黙ってマスターの顔を見つめるしかなかった。


――後編に続く
2011/2/16


【あとがき】
みなさま、ピーチ・ハートの話もずいぶんご無沙汰しておりました。m(__)m
趙雲マスターも姜維くんも、常連客のみなさんたちも、相変わらずピーチ・ハートにたむろしては、なんということもない平凡な日々を送っていたようです(笑)。
今回、バレンタインデーにちなんだ話を考えていたのですが、例によって遅れに遅れ、結局前編だけ先にアップすることにしました。それでも14日には間に合わなかったのですけれど;;
まさかの徐庶さんの彼女??ってことで、びっくりされたかもしれません。そのあたりは後編でじっくり書こうと思っています。
これからも、「Bar ピーチ・ハート」シリーズをよろしくお願いいたします。


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