Bar ピーチ・ハート ここは、心優しいひとたちのとまり木。 |
PART.6 すりぬけていったもの 「よう、久しぶり」 その夜、最後に入ってきた客は、私の顔を見てまぶしそうに笑った。 そう、十年前のあの日と同じ笑顔で。 「潮崎……。ドイツに行っていると聞いてたけど?」 「僕だってたまに里帰りくらいはするさ」 カウンターに腰を下ろした潮崎彰彦は、外の熱気を振りほどくようにネクタイを緩めた。 その日はアルバイト店員は休みだったし、常連客もすでに帰った後で、店内には私と潮崎の二人だけだった。しかし、旧友といっても相手はお客様だ。最初の驚きが収まると、私は言葉遣いを改めた。 「店の方は順調らしいね」 「おかげさまで。まあ何とかやってますよ」 物珍しそうに店内を見回していた潮崎は、受け取ったおしぼりでていねいに顔から首筋の汗をぬぐった。 「ここに来るのも、君に会うのも、十年ぶりか」 「あっという間でしたね」 「ああ。いろいろあったけれど……過ぎてしまえばね」 カウンターにゆるく頬杖をつき、ふっとため息をもらした彼の顔は、ほんの少し寂しげに見えた。 翳りを秘めた切れ長の眸子は、あの日のままに魅力的だったけれど。 「お客さま。何にいたしましょう?」 「他人行儀だなあ――」 苦笑しながら、それでも潮崎は穏やかな声で答える。 「せっかく腕のいいマスターがいるんだから、ビールなんていうのは失礼だね。……じゃあ、トム・コリンズを」 「かしこまりました」 私は軽く会釈をしてから、磨き込んだコリンズ・グラスを取り上げ、静かに客の前に置いた。 「やっぱり日本はいいな」 「故郷っていうのは、おいそれとは帰れないくらい遠くにあって、たまに帰るからいいものなんだそうですよ。思い出は浄化されて、きれいなものしか残らないから」 「うん。そうかもしれないね」 『思イ出ハ浄化サレテ、キレイナモノシカ残ラナイ……』 相槌を打ちながら、彼の眸はどこか遠くを見ている。あるいは私の話を、別の意味に受け取っていたのかもしれない。 次の瞬間、唐突に彼の口から出た質問がそれを物語っていた。 「彼は、今でもたまに来るの?」 潮崎のいう『彼』が、手塚和也のことを指しているのだと、私はすぐに理解した。 潮崎彰彦、手塚和也、そして私。 今から十年以上も前、私たちは『楽園』に住んでいた。友情と呼ぶには、ちょっといびつな三角形(トライアングル)――。 私にとっては、たまらなく懐かしく、そしてほろ苦い感慨を伴う情景だ。 私と潮崎は、同じ大学で学んでいた。3回生の終わりになって、父の急死によって店を継がなければならなくなった私は、やむなく大学を中退したが、それからも潮崎は、私を気に懸けてくれ、私たちは一番の親友だった。 やがて、大学院へ進んだ彼は、そこで手塚に出会う。潮崎をはさんで知り合った私たちは、すぐに親しくなった。 そうして、微妙なバランスの友情を保ち続けていた私たち三人だったが、そんな危うい関係がいつまでも続くはずがない。 十年前、ある事件がきっかけで、私は、自分から『楽園』を捨てた――。 「思い出したように、ときたまね。残念ながら、君の話はめったに出ませんが」 「そう……そうだろうな」 私はトム・コリンズの材料をシェイカーに入れると、静かにシェイクした。氷を入れたグラスに注ぎ、ソーダ水を満たし、軽くステアしてレモンスライスとマラスキーノ・チェリーを添える。 潮崎は、小皿に盛られたナッツとセサミをつまみながら、黙って私の手の動きを見ていた。 「相変わらず惚れ惚れするような手さばきだ」 「ほめすぎですよ」 「いや、お世辞じゃないよ。ドイツでもいろんなバーへ行ったけど、君ほど酒の扱いが見事なバーテンダーはめったにいない」 潮崎はトム・コリンズを一口飲み、「うまい」と頬をゆるめたが、その微笑は拭いがたい憂いの翳をまとっていた。 スピーカーからは、けだるいジャズが流れ続け、沈んだ空気をますます重たいものにしている。 私は思い余って尋ねた。相手が客であるという思慮を忘れて――。 「潮崎。何かあったのか?」 潮崎は、驚いたように顔を上げ、すぐにまぶしそうに視線をそらした。私の表情が真剣すぎたのかもしれない。 長い沈黙の後、絞り出すように彼は言った。 「和也が……アメリカに行くんだ」 その一言で、私は潮崎が大切な何かを失くしてきたのだと悟った。あの日の私と同じように。 ドイツから帰国して手塚と再会した潮崎は、おそらく彼ら二人の過去と訣別してきたのだろう。二人の間でどんな会話があったのかは分からないが、確かなのは、手塚もまた自らの手で、二人の『楽園』を壊したのだということだ。 「和也にとっては、またとないいい話だと思う。こんなことを言えた義理じゃないけど、これでようやく僕の肩の荷も下りたような気がするんだ」 「よかったじゃないか。なら、素直に喜んでやれよ」 「分かってる。分かってるんだ。だけど……」 潮崎は、両手で顔を覆い、肩を震わせた。 「取り残されることが、こんなに辛いとは思わなかった」 自分が失ったものの大きさに改めて気づいた彼は、呆然と立ちすくんでいるようだった。 「和也は、天使の翼を取り戻したんだよ」 「潮崎……」 「飛び立ってしまうんだ。もう僕なんかの手の届かない、光あふれる場所へ」 『モウ僕ナンカノ手ノ届カナイ場所ヘ……』 だから、そんな悲しい眸をしてここに来たのか。 恋人にふられた寂しさを、よりによってこの『私に』慰めてほしくて? ――自分の手からこぼれ落ちていったものを、いつまでも未練がましく追い続けるなよ。 喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。 それは、私自身への叱咤でもあったから。 私はカウンターの上に出ていたビー・フィーター(ジン)をショットグラスに注ぐと、一気にあおった。喉の奥が、焼けつくように熱い。苦い気持ちとともに、ジンの香りが口の中にあふれた。 ふだんはめったに客の前でこんな姿は見せないのだが、自分でも訳の分からない苛立ちに、私は立場を忘れた。 「いつまでも昔の夢を追いかけてても仕方ないだろ、潮崎。人は変わっていくんだ!」 私の剣幕に、潮崎ははっと顔を上げた。その眸にうっすらと涙が滲んでいるのを見て、私は胸を衝かれた。 あの日の俺も、そんな顔をしていたのかな……。 そんな眸で見るなよ、潮崎。 お前の眸は、『楽園』を思い出させる。遠いあの日の、懐かしい記憶。 だけど、そこに三人は住めない。『楽園』は二人のものだから。 そして、お前は彼を選び、俺は『楽園』を捨てた。 忘れようとしてきたのに。ようやく忘れかけたのに……。 変わっていかなきゃ、忘れることができなきゃ、人が生きていくことは辛すぎる。 そうでなけりゃ、今こうして、お前の顔を見ていることなどできはしないよ――。 胸の奥深いところから湧き上がってくる甘く切ない想いを振り切るように、私は話題を変えた。 「ずいぶん前に、手塚からお前のことを聞いたよ。ドイツで結婚して、子どもも生まれたんだって?」 「ああ」 潮崎は力なくうなずく。 「一人娘だ。もう2歳になる」 「それが今のお前の生活だろう? 俺にはこの店のマスターとしての毎日がある。手塚にも、手塚の人生があるんだ。どうしてそれを静かに見守ってやれない?」 「………」 「自分を必要としてくれる会社があって、愛する妻と娘がいて。それ以上、何を望むというんだ?」 ちりちりと胸が痛い。 今、目の前で、声もなくうなだれている潮崎は、まぎれもなくあの日の私自身だ。 彼を問い詰める言葉は、そのまま、私が自分に向けた叱責だった。 「すまない、趙雲」 グラスを握りしめたまま、潮崎は肩を落とした。 「僕には君に会う資格なんてなかったのに。まして、自分勝手な辛さを癒してもらうために、君に優しさを求めるなんて、ほんの少しでも思ってはいけなかったんだ」 「違う!」 私は、思わずカウンターから身を乗り出して叫んだ。 「そうじゃない」 そんな眸をするな。 俺は、お前を苛めたいんじゃない。 言いたいことはほかにあるのに、 どうしてこんな棘のある言葉しか出てこないんだろう。 そんなふうに、悲しみに打ちひしがれた惨めな姿を見せないでくれ。 お前には、屈託のない笑顔が似合うんだから。 笑ってくれよ、潮崎。 あの日のように――。 私はとうとうカウンターの外側に回り、潮崎と並んで腰を下ろした。 もうマスターでも客でもなかった。手を伸ばせば届く場所に、潮崎はいるのだ。失くしてしまった『楽園』の誘惑に、目が眩みそうだ。 その時、スピーカーから、ニーナ・シモンの歌う「エヴリシング・マスト・チェンジ」が流れてきた。 むせび泣くような切ない歌声が店内に広がり、時間は一気に十年の距離を遡る。 幸せだった日々、二人で幾度となく聴いた。不幸になってからも、ひとりで聴いては涙を流した。遠い日の夢の残影に。 ――俺たちの『楽園』は、もう、ないんだ。 あの時の自分の選択を、間違っていたとは思いたくない。 けれど、失ったものを取り戻すことは、永久にできないだろう。 「なあ、潮崎。やっぱり過去の夢だよ。思い出は、思い出としてあるからこそ美しいんだ」 ニーナの歌声はやるせなく私たちの全身を包み込み、こみ上げる温かいものが胸を満たしていく。いつしか私は、穏やかな気持ちに戻っていた。 「すりぬけていったものを懐かしいとは思っても、それを追いかけていって取り戻したいとは、俺は思わない」 ほんの少しだけ……やせ我慢なせリフを吐いてみる。潮崎の頬にも、ふっと微笑が浮かんだ。 「もう少し――」 と、私の肩に頭を持たせかけるようにして、彼は言った。 「夢が醒めるまで、ここにこうしていさせてくれないか」 「ああ、いいとも」 短い夏の夜。 せめてひととき、遠い楽園の夢の名残を楽しもうか。 神様がくれた、この一夜が明けるまで。 |
了 2007/5/5 |
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【あとがき】 サイト開設2周年記念作品は、やっぱりこれ! 「ピーチ・ハート」シリーズ(笑)。 それにしても、回を重ねるごとに、ますます謎の人になっていきますね、趙雲マスター。 ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、今回の「ピーチ・ハート」は、私のネッ友であり師匠でもあるよもぎさんの長編小説「解のない方程式」、そしてその外伝「アズライト」(悠さん作)とのコラボ作品になっています。 いやあ、最初は、手塚先生(「解のない方程式」の主人公)にふられた潮崎サンが、大学の同級生である趙雲マスターの店にやってきて、心の痛手を癒してもらう……みたいな、ごく普通のお話にするつもりだったんですが――。 書いていくうちに、なんかやばくね? みたいな話になってしまいました。 で、結局「マスター、潮崎サンといったい何があったのよ?」と思わず作者も突っ込みを入れてしまうという(爆)。 二人(というか、手塚先生も入れて三人)の間に、昔何があったのかというところは、実のところ作者自身も、まだそれほどきっちり考えているわけではないんです〜〜。ごめんなさい。 このあたりは、またいつか詳しく書くことがあるかもしれません。 よもぎさん、悠さん、勝手にキャラをいじっちゃってごめんね。m(__)m 何はともあれ、無事に2周年を迎えられた喜びと、いつもお越しくださる皆さまに、心からの感謝の気持ちをこめて――。 ありがとうございます。そして、これからも、どうぞよろしくお願いいたします。 ◆乱読おばさまが、この小説のためにとってもステキな挿絵を描いてくださいました(笑)。 →こちらからどうぞ! |
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