PART.4 運命のひと ◆◇◆ 夢想 ――「月下美人」は、育てるのが難しくて、なかなか蕾をつけないんだが、それだけに開いた花の美しさと、その甘い官能的な香りは何ともいえないんだよ。 一夜のうちに咲いて枯れてしまう純白の花は、それは幻のように儚くて美しいんだ、とその客は、ふくらみ始めた蕾を自慢するように言った。 「ほんとは真夏の花なんだけど、丹精込めて世話をしたら、早い時期から蕾がついてね。マスターにはいつもよくしてもらってるから、これはほんのお礼ってことで。どうか、かわいがってやってね」 ああ……この甘やかな香りは何だったろう。 懐かしい、せつない香り……。 思い出せないのに、なぜか胸が痛い。 闇に漂う甘い香りが苦しくて、目が覚めた。 背中が汗でびっしょり濡れている。 寝返りをうつと、まだ明けきらない窓辺に置かれた一個の鉢植えが目にとまった。客からもらった月下美人が、いくつかの蕾をつけている。薄明かりの中に浮かび上がる蕾は、ひそかに息づいているかのようだ。 もちろん、まだ花が咲いていないので、何の香りもしない。 では、息苦しいほどのさっきの香りは? やはり夢だったのだろうか。 「ピーチ・ハート」のマスター趙雲は、近頃、毎晩のように見る同じ夢に悩まされていた。 昔から、何度か似たような夢を見たことはあったが、ここまで続くと何となく気味が悪い。しかも夢の記憶が、日を追って、だんだん鮮明になってくるのだ。 どうやら、夢の舞台は大昔の中国らしい。 そこで、趙雲は一軍を率いる武将なのだが、戦の場面などはめったに出てこなくて、いつも、日常のひとこまのような展開なのである。そして、かれの側には、常にひとりの女性がいた。 夢を見始めた頃は、目が覚めても、女性の顔がおぼろげに残っている程度だった。 それが今では、表情もしぐさも、声までも、はっきりと脳裏に焼きついている。 今朝も――。 「趙雲さま!」 そう叫んで、泣きながら自分の胸にしがみついた、そのひとの手の感触までが残っていた。 「はあ……。まいりましたね」 覚醒しきらない頭で、趙雲はため息をついた。夢だとわかっているのに、このせつなさ、胸の痛みはどうしたことだろう。 「何かにとりつかれちゃいましたかね?」 ふざけて言ったつもりが、まるで冗談に聞こえない。 (私に言いたいことがあるんなら、はっきりと言ってくださいよ。こそこそ夢の中なんかに出てこないで) 趙雲がなじると、夢の中の女ははかなげに微笑んだ。まるで月下美人のように。 ◆◇◆ 白昼夢 「マスターはどうして結婚しないの?」 「え?」 常連客の張飛の質問は、いつも突然かつ直截的だ。 「だって、そのルックスだよ(うらやましいぜ!)。しかもその若さで、お店のオーナーだよ(小さなカウンターバーとはいえ、社長様だ)。女の子が放っておかないでしょう?」 「………」 「それとも、やっぱり、あれ? “あっち” がいいとか」 張飛の言葉に、それまでとろんとした目つきで半分居眠りしかけていた孔明が、急に顔を輝かせた。 「そうよ! そうなのよ! マスターは女嫌いなのよ、ねえ〜〜♪」 カウンターのいつもの席に陣取った二人に詰め寄られて、趙雲は困ったような曖昧な笑みを浮かべた。 「どうして、って聞かれても困るんですけど……。どこかで、私を待ってくれているひとがいるような気がするんですよ」 「はあ?」 趙雲の口から、しごく真面目に、思いもしなかった言葉が返ってきて、張飛も孔明もぽかんと口を開けた。 「笑われるかもしれませんが、運命のひとがどこかにいて、私と出会うのを待っている。だから、そのひとにめぐり会うまでは、結婚なんてしちゃいけないんだ、って」 「うっそ〜〜。冗談」 「まあまあ、そういうことにしときますか。誰にだって言いたくないことはあるだろうからさ」 張飛も孔明も、趙雲流のとぼけ方だと納得して、もうそれ以上この話題には触れなかった。 だが、横で聞いていた姜維には、まるっきりそれが冗談だとも思えなかったのだ。 なぜなら。 つい数時間前のことだ。 いつものように、アルバイト先である「ピーチ・ハート」にやってきた姜維は、まだ開店前の店先に若い女性が座り込んでいるのを見て、あわてて駆け寄った。 「大丈夫ですか? 気分でも悪いんですか?」 「いいえ……なんでもありません。……もう大丈夫ですから」 「でも、顔色が真っ青ですよ」 「本当に……大丈夫……」 立ち上がろうとした女性は、しかしそのまま倒れ込んでしまった。 「マスター! 大変ですっ! お店の外で女の人が――」 姜維の叫び声に、開店の準備をしていた趙雲があわてて飛び出してきた。 「どうしたんです?」 「女の人が、ここで倒れてて……」 「大丈夫ですか?」 ひどい熱だ。 「とにかく中へ運びましょう。姜維くん、そっちをささえて」 胸に抱き上げるようにして女性の体を起こす。 そのとき、苦しそうな息の下から、切れ切れの言葉が聞こえた。 「――ああ、趙雲さま、お会いしとうございました……」 「え?」 驚いて顔をのぞき込んだが、一度も会ったことのない女性だ。 「あなたは誰です? どうして私の名前を?」 聞き返したときには、女性は体重のすべてを趙雲の胸にあずけて、意識を失っていた。 姜維が趙雲の話を冗談だと笑い飛ばせなかったのは、実際にそのやりとりを見ていたからだった。 そして、その女性は、実はまだここにいるのだ。 「ピーチ・ハート」は店舗と住居部分がつながっている。店のすぐ横は、酒や食材を保存する貯蔵庫になっていて、その奥に趙雲が暮らしている2DKの部屋がある。 店に担ぎ込んでから、すぐに医者を呼んで診てもらったところ、特に外傷や疾患はないが、衰弱が激しいのでゆっくり休ませるように、ということだった。 そのまま放り出すわけにもいかず、居間のソファに寝かせてある。 やがて店が退けて、客も姜維も帰ってしまった後、居間へ続く扉に手をかけるのが、ほんの少しためらわれた。 (煙のように消えてしまっていたら、どうしよう?) ――いっそその方が、気が楽なんですがね、と胸の内でつぶやいて、そっとドアを開ける。 灯りを落とした部屋の中で、女性はこんこんと眠っていた。 薬が効いているのだろう。趙雲が入ってきて灯りをつけても、目を覚ます気配もない。 あらためて顔をのぞき込んでみる。やはり、記憶になかった。 (お店のお客さまでしょうか。それとも、どこかでお会いしましたか――?) ふいに甘い香りが漂ってきて、趙雲は窓辺に置かれた月下美人の鉢植えに目をやった。今朝はまだつぼみだったのが、見事に一輪、夜の闇の中に花びらを広げている。 そのとき、趙雲の意識の底に、閃光のようにひらめいたものがあった。 夢――。 夢の中の女性。 (ああ……。あなただったんですね。では、これも夢の続きでしょうか) 突然言いようのない愛しさがこみあげてきて、趙雲はそっと女性の頬に手をあてた。もう、熱は下がっている。 血の気のない白い頬。冷たくて、陶器のようになめらかな肌。 それでも、確かに生きているという手触りを感じて、趙雲はほっと胸をなでおろした。 ◆◇◆ 秘密 月下美人の香り。 愛しくて、哀しくて、……胸がつまる。 あなたは、いったい――? 「ねえ、ちょっと、姜維くん」 姜維を店の外に呼び出してドアを閉めると、孔明はいきなり真剣な表情になった。 「マスターが女性と同棲してる、ってほんと?」 「ああ、いやあ、同棲っていうか……」 「ほんとなのねっ!」 ほとんど悲鳴のような声がもれた。今にも姜維に掴みかからんばかりの形相だ。 「ちょ、ちょっと、孔明さん、落ち着いてくださいよ。同棲とか恋人とか、どうも、そういうんじゃないらしいんです」 「そういうんじゃないなら、どういうのよ? どんな女? どういう関係?」 オカマといっても、実際には大柄な男性なのだ。自分よりはるかに上背のある孔明の迫力の前に、華奢な姜維はたじたじとなった。 そのとき、ドアが開いて趙雲と張飛が顔を出した。 「孔明さん。あまり姜維くんをいじめないであげてください」 「マスター!」 振り向いた孔明は、かわいそうなくらい取り乱している。 「私からちゃんとお話しますから。とにかく中へ入りませんか」 「そんな所で大声出してると、パトカーに連れていかれちまうぜ」 「………馬鹿」 いつもに増して落ち着いている張飛が憎らしい。 二人に諭されてしぶしぶ店内に戻った孔明は、黙っていつものカウンター席に腰を下ろした。 よく冷えたロゼのワインをその前に置き、趙雲はこれまでのいきさつを語り出した。 「じゃあ、記憶喪失だっていうの?」 「自分の名前が翠蓮だっていうことしか分からないんですよ。帰る場所も、行くあてもない。そんな人を放っておけないでしょう」 「優しいのね、マスターは。あたし以外の人には……」 目の前のワイングラスを一気に空けた孔明は、わざとらしくちょっと咳き込んだ。 「それじゃあ、しばらくは、彼女はここに住むんだな」 「ええ、まあ。これも何かの縁だと思って。ほかにいい方法も思いつきませんし」 三人の会話を黙って聞いていた姜維は、心のどこかで違うことを考えていた。 (何かの縁? そんな曖昧な理由で、マスターが見知らぬ女の人を家に入れるはずがないじゃないか) それに、趙雲と翠蓮という女性の間には、初対面とは思えない親密さがあるような気がしてならない。二人が一緒にいるところを、ほんの少ししか見たことのない姜維でさえ、二人の周りに流れる空気の濃密さを感じることができた。 趙雲の翠蓮に対する優しさには、何かもっと別の、はっきりとした訳があるはずだ。 ――そういえば前に、「運命のひと」って言ってたよな、マスター。 (どこかで、私を待ってくれているひとがいる、とか何とか……) 「くやしい〜〜っ!」 ようやく、大切なことにたどり着きそうになった寸前、姜維の思考は、孔明の金切り声に破られた。 「あたしも店の前で倒れてやるんだから」 立て続けに4杯目のグラスを飲み干して、孔明はカウンターに突っ伏した。 「まあまあ、孔明ちゃん。真相が分かったんだからいいじゃないの」 「ぜっんぜん、よくないっ! 理由はどうあれ、マスターが女の人と暮らしてることに変わりないんだもの」 「確かにまあ、ちょっとした青天の霹靂だけどな」 どうやら張飛も、趙雲の話にすんなり納得したわけではなさそうだ。 ◆◇◆ 幻想花 暗闇の中に浮かび上がる白い花弁。 うつむいていた蕾は、見る間に頭をもたげ、身もだえしつつ透明な花びらをほどいていく。 ひっそりと開いた花は、やがて甘美な香りで夜の闇を包み込む。 月下美人の甘やかな香り。それはあまりにも官能的だ。 一晩だけの命だから。短い夜を命の限り燃え尽きてしまいたい――。そう言っているかのように。 趙雲は、ベッドの中からぼんやりと、窓辺に咲く大輪の花を見ていた。傍らには、翠蓮が小さな寝息をたてている。 彼女がここへ来て五日。 三番めの月下美人が開花した夜、二人はごく自然に結ばれた。 「趙雲さま。ようやくお会いすることができましたのね」 「翠蓮……。私も会いたかった」 細い肩をそっと抱き寄せ、唇をあわせる。 ふるえる背中に手をまわし、やさしく愛撫すると、小さな吐息がもれた。 どうして、こんなに懐かしいのだろう? (初めて出会ったはずなのに) どうして、こんなにせつないのだろう? (まだ、何も起こりはしないのに) こうしていると、少しの違和感もない。その女性が翠蓮という名で、自分と深い関わりがあったこと。遥かな時間と空間を超えて、ようやくめぐり会えたこと。 運命の糸にたぐり寄せられたかのように、彼女はこの腕の中にいる――。 (ああ、私はこのひとを知っている……。何度も何度も、こうしてお互いを確かめ合いましたね。遥か遠い昔――) 夢と現(うつつ)が重なる。 めくるめく、甘美なひととき。 今、この腕の中にあるのは、いにしえの幻? それとも月下美人の精霊か? いや、あなたは確かに生きている。 抱きしめれば、こんなにも温かくやわらかい――。 これは、決して夢なんかじゃない。 幸福な眠りから目覚めた後、翠蓮は趙雲のよく知っている眸子で微笑んだ。 「趙雲さま。もう、お気づきですね。わたくしは現実のものではありません」 「翠蓮――!」 「わたくしは、遠い昔、あなたさまに心を遺して死んだのです」 その遺志のあまりの強さが、彼女の想いをこの世に留め、幾世代も幾世代も時を超えて伝わったのだ、と翠蓮は言った。 「わたくしは何度も生まれ変わり、その度にあなたさまを捜し求めました」 「会えなかったんですね」 ええ、と寂しげにうなずく彼女のうなじから、月下美人の香りが漂う。 「時間と空間がうまく一致しなくて……」 「でも、ようやく会えた、こうして」 「いいえ」 力なくかぶりを振る翠蓮の眸子から、涙があふれ落ちた。 「わたくしは……今回も間に合わなかったのです」 ◆◇◆ 泡沫(うたかた) やがて、夢は現(うつつ)となり、 現実は、時の彼方で幻となって、色褪せる。 どちらが真実? 私にとって、本当に大切なものは……。 「本当のわたくしは、今、ニューヨークという町のある病室にいます。治る見込みのない病で、もはや意識もありません」 「………!」 「もうすぐ私は死ぬでしょう。けれどその前に、何としても今生であなたさまにお会いしたかった。また、永い時を待たねばならないのですもの」 やがて、何かを感じたのか、彼女は趙雲を見つめ、静かに微笑んだ。 「こんな形でしか、あなたさまの元にいられなかったわたくしを、許してください」 翠蓮の笑顔が、すうっと透き通ったように思えて、趙雲は思わずその身体を抱きしめた。 (消えてしまう――) 月下美人。一夜のうちに咲いて枯れてしまう純白の花。それは幻のように儚くて美しい。 「翠蓮! だめだ!」 趙雲の呼びかけに、そのひとはうれしそうにうなずき、精一杯の笑顔を返した。 ――やっと、こうしてめぐり会えたのに! ――逝くな! 逝かないでくれ。私を一人にしないで……くれ。 次の瞬間、翠蓮の身体は、透明な光の中ににじむように消えていた。趙雲の腕の中に、かすかなぬくもりだけを残して。 「翠蓮……」 (あなたに心を遺していたのは、私も同じでした。だから、私もこうして、何度も何度も転生を繰り返してきたのですよ) 突然消えてしまったひとの、さっきまで確かに感じていた体温が悲しい。 夢じゃない。幻なんかじゃない! あなたは確かにそこにいた。 残り香がせつなくて、胸がつまる――。 窓辺に置いた鉢植。朝の日差しの中で、月下美人の花は、命のすべてを燃え尽きさせて枯れていた。 急に翠蓮がいなくなってしまった理由を尋ねる姜維に、趙雲は「記憶が戻ったんですよ」とこともなげに答えた。 けれど、いつも冷静なマスターの眸子が、その日はやけに悲しげな色をたたえていたことに、姜維は気づいている。また、以前にもまして、月下美人の鉢植の世話に力を入れていることも。 だが。 趙雲には分かっていた。どれほど心を込めて世話をしても、その月下美人がもう二度と花を咲かせることはないということを。 それでも彼は、今朝も、窓辺の月下美人に話しかける。遥かいにしえの、「運命のひと」への想いを込めて。 「おはよう、翠蓮。今日もいいお天気ですよ――」 |
了 2006/6/5 |
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【あとがき】 ――突然! 訳の分からない話ですみません。m(__)m まったくの個人的趣味で、こんな毛色の違うものを書いてしまいました。 だって、マスターに恋する男をやらせたかったんですもの(笑)。それも、思いっきりシリアスな悲恋を(サドですな〜〜>自分)。 元ネタは、ずっと以前に書いていた姜維くんの小説(「姜維立志伝」の前身)の中のエピソードですが、語り部の脳内設定では、趙雲と翠蓮のカップルというのは、もはや定番になっております。 ところで、実は私、月下美人の花というものを実際に見たことがありません。そのため、文中おかしな描写になってしまっているところがあるかもしれませんが、どうぞ許してやってくださいませ。(こちらのサイトで華麗な月下美人の開花動画が見られますよ!) 先日、いつもお世話になっている涼さん(翠蓮さん)のサイト「POEM HOUSE」が開設6周年を迎えられました。何もできなかったので、せめてものお祝いに、この一篇を涼さん(翠蓮さん)に捧げたいと思います(遅くなってごめんなさい)。 翠蓮さんというお名前が、うちの趙雲の彼女と同じなのは、まったくの偶然だったのですが、そんな縁もありということで(笑)。 心からのお祝いと、感謝の気持ちをこめて――。 |