いにしえ夢語り蜀錦の庭言の葉つづり

Bar ピーチ・ハート
ここは、心優しいひとたちのとまり木。

今宵ひとときのやすらぎをどうぞ…



都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
今夜も、ちょっと疲れた男たちが羽根を安めにやってくる……。



PART.2 水曜日の客

今日は水曜日。時刻は夜の8時50分を過ぎたところだ。
バー「ピーチ・ハート」のマスター趙雲さんは、黙々とオン・ザ・ロック用の丸い氷を削っている。ぼく(姜維)はというと、棚のグラスを一つずつ取ってはきれいに磨く、という少々退屈な仕事を繰り返していた。
BOZEのスピーカーから低く流れるジャズだけが、時を刻んでいる。
水曜日のこの時間の、いつもの光景――。

「マスター、腹減っちゃった。何か作ってくんない?」
突然、カウンターでいつものようにウイスキーのウーロン茶割りを飲んでいた張飛さんのだみ声が、静寂を破った。
「トマトソースのスパゲティがいいなあ。大盛りで」
「張飛さん、すまないんだけど――」
と、マスターはちょっと翳のある声で言った。
「もう少し待ってくれませんか。もうすぐ9時なので」
「あん? 9時? ああ、そうか、徐庶さんね。分かった、後でいいよ」
「すみませんね」
マスターは、本当にすまなさそうに頭を下げると、再び氷を削り始めた。
毎週水曜日だけ、9時きっかりに店に現れる客がいる。その客は、必ず最初にワイルド・ターキーをロックで一杯だけ飲む。ぼくがこの店でアルバイトをするようになってから、その習慣は一度も破られたことがない。
その一杯目のグラスに入れるための、丸くて大きな氷を、マスターは削っているのだ。
もうすぐいつもの客が、ドアを開けて入ってくるだろう。タイミングを見計らったように、マスターの手元で、地球のように丸い氷が出来上がる……。

「いらっしゃいませ」
いつも通り、9時ちょうどにドアが開いた。
入り口に立っているのは、「水曜日の客」徐庶さんだ。
トレンチコートに中折れ帽子、おまけにサングラスという、とんでもなく時代錯誤ないでたちなのに、不思議と浮いて見えないのはなぜだろう。コートも帽子も、徐庶さんの身体にしっくりなじんでいて、そこだけが、まるでハンフリー・ボガート主演のモノクロ映画のようなたたずまいなのだ。
「お待ちしてましたよ。さあ、こちらへどうぞ」
カウンターの上に、ロックグラスとワイルド・ターキーのボトルを置こうとしたマスターに、徐庶さんはあわてて声をかけた。
「あ、マスター。すまない、今日はいいんだ」
「え?」
「ちょいと野暮用があってね。先にそいつを片付けてくる。ターキーは、それが済んでから、ゆっくりと楽しませてもらうよ」
そう言うと、徐庶さんは、入ってきたときと同じように静かに店の外に出た。
「絶対に寄ってくださいね。何時まででも、お待ちしてますから」
マスターの呼びかけに、徐庶さんは、背中のまま右手を軽く挙げて答え、夜の街に消えていった。

それから――。
趙雲さんは、30分おきに氷を削っている。
徐庶さんが、いつ店に戻ってきてもいいように。
あいかわらず、客は張飛さんひとりだけ。徐庶さんが出ていってからというもの、ますます無口になってしまったマスターに、とうとう張飛さんは痺れをきらしたらしい。
「ねえ、マスター。腹減ったんだけど」
「………」
「ねえ、お願い、何か食わして。バカ盛りのトマトスパゲティとかさ」
「………」
「黙ってないで、何とか言ってよ。気配りの趙雲マスターだろ」
「姜維くん、そのうるさい客に、トマトソース大盛りでぶっ掛けてくれる?」
珍しくきつい冗談に振り返ると、案の定、縁なし眼鏡の奥の目は、笑ってはいなかった。
「え? 掛けていいんですかぁ」
ぼくは、ちょっとおどけて、わざと大げさに驚いてみせる。
「冗談ですよ。冷凍庫からソース出して、スパゲティ茹でかけて」
「はーい」
三個目の氷が見事な球形に仕上がったところで、マスターはようやくいつもの穏やかな笑顔に戻り、トマトソースの仕上げにかかり始めた。

「ねえ。徐庶さんてさあ、なんでいつもワイルド・ターキーの、しかもオン・ザ・ロックなの? バーボンは最初の一杯だけでしょ。後はジンとかウオッカとか、スピリッツ派じゃない? 徐庶さんて」
たっぷり二人前はあるスパゲティを平らげながら、張飛さんがマスターにしつこく質問している。フリーライターという職業柄、何でも聞かないと気がすまないというのは分かるけどね……。
第一、ワイルド・ターキーはバーボンじゃない。厳密に言うと、アメリカン・ウイスキーの中のライ・ウイスキーに分類されるものなんだ(下の解説参照)。
「徐庶さんが昔お世話になった方が、いつもターキーをロックで飲んでおられたんだそうですよ」
「ふ〜〜ん。お世話になった方ねえ。でも、それってちっとも答えになってないよ。……でさ、実際のとこ、どういう関係だったの? その人とは」
あんまりしつこいと、マスターに嫌われるよ、とぼくは余計な心配をしている。
「………」
「だいたいさあ、徐庶さんてふだん何してるの? ここではしょっちゅう顔を合わせてるけど、仕事とか家庭のこととか、全く謎の人なんだよね。なにか、やばい事でもやってるんだろうか。結婚は……まさか、してないよね?」
ハラハラしながら二人のやりとりを見守っていたぼくは、趙雲さんの眼鏡がきらりと光ったような気がして、思わず姿勢を正してしまった。
「張飛さん。それ以上何か尋ねたら、椅子ごと外へ放り出しますよ!そういうことは、本人に直接聞けばいいでしょう」
ほーら、言わんこっちゃない。
趙雲さんの迫力に、さすがの張飛さんもたじたじだ。
「あー、そう、そうだったね。マスターが言うと冗談には聞こえないから、怖いんだよ。はいはい、分かりました。そう睨みなさんなって。もう聞かないから」
「分かっていただければ結構です」
趙雲さんのえらいところは、このままでは終わらないところだ。子どものように叱られっぱなしでは、張飛さんだって気まずいだろう。
まず、張飛さんのためにとっておきのジェラートをデザートに出すと、趙雲さんは、静かに語り始めた。

「私も、それほど詳しいことを知っているわけじゃありません。何しろ、めったなことではプライベートなことなど話す人じゃないですからね。ただ、この店に初めて来られたときからずっと、一杯目はワイルドターキーのロックですから、さすがに気になりましてね。あるとき遠慮がちに尋ねてみたんです」
「なあんだ。マスターだって知りたかったんじゃない」
間髪を入れずに、突っ込む張飛さんに、
「張飛さんみたいに、単なる好奇心じゃありません!」
と、マスターはぴしゃりと言った。
「私は、酒を人様に飲ませる商売をしているものとして、お客さまの嗜好や好き嫌いをきちんと把握しておきたいんですよ」
うん、うん、とジェラートのスプーンをなめながら、張飛さんは気のない相槌をうった。
「それで、徐庶さんは話してくれたの?
「ええ、まあ」
一呼吸置いて、
「――聞きたいですか?」
趙雲さんの顔が、いたずらっ子のように輝いた気がした。
「聞きた〜〜〜い!フリーライター魂が騒ぎますよ」
張飛さんと一緒に、ぼくも心の中で「聞きたい!」と叫んでいた。だが、次の瞬間、
「もう、焦らさないでよ。マスターのイ・ジ・ワ・ル〜ン」
孔明さんを真似た張飛さんの声色の気色悪さに、ぼくもマスターも辟易してしまった。
「姜維くん、張飛さんの椅子をさっさと外へ出して!」
「はーい♪」
せっかくいいところなのに、水を差すんだから。ぼくは本気で、マスターの指示に従おうかと思った。

その後の、趙雲さんの話によると。
徐庶さんは、幼い頃に両親をなくし、施設で育ったらしい。お決まりの転落人生で、若い頃は、かなりアブナイ事もやっていたようだ。
そんな彼を手元に引き取り、やくざな世界から足を洗わせてくれた人がいた。その人の助力で、徐庶さんはアメリカの大学を卒業し、ひとかどの事業を起こすことができたのだという。
その恩人が、いつも飲んでいたのがワイルド・ターキー。ロックグラスに丸い氷を入れて、ゆっくりと溶けていくのを楽しんでいたそうだ。
徐庶さん自身は、ウイスキーよりもジンやウオッカなどのスピリッツ系が好きなのだが、恩人に敬意を表して、いつも一杯目はワイルド・ターキーのオン・ザ・ロックを飲むことにしている、というのだった。

「ふーん、なかなかいい話だねえ」
「ぼく、今までどことなく徐庶さんって怖い感じがしてたんですけど、本当はすごくいい方なんですね」
ぼくは、強面の徐庶さんの外見を思い浮かべた。あのサングラスの下には、案外涼しげで、優しそうな眼が隠されているのかもしれない。
「フリーライター魂は満足しましたか?」
「えーえー、十分満足しましたよ。でも、マスター、まだ話してないことがあるんじゃないの?」
「たとえば?」
「んー。徐庶さんって、やっぱり今もアブナイ仕事やってるんじゃないか、とかさ」
「どうしてそう思うんです?」
「いやあ、マスターがあんまり心配しすぎだからさ。つい、ね」
上目づかいに見つめる張飛さんに、マスターはふっと謎めいた微笑を浮かべた。
「ま、後はご想像におまかせしましょう」
ワイワイ盛り上がっているうちに、マスターの手元では五個目の氷が出来上がっていた。
そのとき。
ドアが静かに開いて、「水曜日の客」が顔をのぞかせた。
「遅くなってすまない。まだ、いいかい?」
「もちろんですとも。まだ、水曜日ですから」
マスターは、徐庶さんのための席に、ワイルド・ターキーのボトルとロックグラスを置くと、今仕上げたばかりの氷を入れた。
「どうぞ、こちらへ。お待ちしておりました――」


2005/10/13


【あとがき】
とうとう第2弾を書いてしまいました!自爆したわけでもないんですが……(笑)。
今夜は「水曜日の客」徐庶さんがゲスト。というかこの人、本当は常連客のつもりのキャラだったんですけど。今回は、ちょっと姜維くんの影が薄かったですね。
どこのお店だったか忘れましたが、オン・ザ・ロックを注文すると、バーテンさんが丸く削った氷をグラスに入れてくれて、それだけで感激した記憶があります。普通の氷と違って、表面積が小さい分、なかなか溶けないから、酒が薄まりにくく、ゆっくりと楽しめるというわけ。
そういえば長い間、バーなんて行ってないなあ。
昔よく行った店は、ピアノが置いてあって、興の乗ったお客さんが勝手に弾いたりしていました。カウンターに座って、まず一杯目を何にしようか、と考えるのが楽しかったものです。

【ワイルド・ターキー】
アメリカン・ウイスキーは、原料・製法によりタイプが異なる。アルコール分80度未満で蒸留し、内側を焦がした新しいオーク樽で熟成させた場合、原料にとうもろこしを51%以上含んでいればバーボン・ウイスキーとなり、ライ麦を51%以上含んでいればライ・ウイスキーとなる。ただし、とうもろこしを80%以上含み、樽熟成させないか、熟成させるにしても内側を焦がしていない新樽か、内側を焦がしたオークの古樽を使ったものは、コーン・ウイスキーとなる。
七面鳥の絵柄のラベルで有名なワイルド・ターキーは、代表的なライ・ウイスキーである。アルコール度数50.5度の非常に強い酒だが、口当たりはなめらかで、独特のまろやかさがある。



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