いにしえ夢語り蜀錦の庭言の葉つづり

Bar ピーチ・ハート
ここは、心優しいひとたちのとまり木。

今宵ひとときのやすらぎをどうぞ…



都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
今夜も、ちょっと疲れた男たちが羽根を安めにやってくる……。



PART.1 スプリングバンク15年 ブック・セラミック


「ああ、遅くなった」
地下鉄の出口から猛ダッシュしているぼくの名前は、姜維。21歳独身(当たり前だけど)。大学で考古学を学んでいる。
ぼくが全力疾走で向かっている先は、去年からアルバイトをしている「ピーチ・ハート」というバーだ。

――マスター怒ってるかな。

金曜の夜は、いつも閑古鳥が鳴いているこの店にしてはめずらしく、お客がたくさん来ることがある(ほんとに、たまにだけどね)。
だから、金曜日だけは少し早めに店に出るようにしているのだが、今日は思いがけない用事で学校に足止めされてしまったのだ。時計の針は、もう7時半をまわっている。
ぼくは、とても優しそうな、でも本当は凄みのあるマスターの笑顔を思い浮かべて、ちょっぴり緊張した。

「マスター、すみません。遅くなっちゃって……」
できるだけ申し訳なさそうな声を作って、そっとドアを開けると、カウンターの向こうにはマスターのにこやかな笑顔(――この笑顔がとても怖い)。磨きこまれたカウンターのいつもの席に、常連客が二人。ここまでは、毎夜同じ光景だ。
ほっとして店内に入ったぼくは、奥のひとつしかないテーブル席に、見慣れない客が座っているのに気づいた。
「いらっしゃいませ」
思いっきり商売用の愛想笑いであいさつしたが、客はちらっと視線を動かしただけでにこりともしない。
(ちぇっ……。いやな感じ)
出勤早々肩透かしをくわされて、少々へこんでしまった気分を取り返そうと、わざと元気よく身支度を整える。
マスターは黙々と(来週のための)ビーフシチューを仕込んでいた。
「姜維くん、どうしたの今日は?遅刻なんてめずらしいわね」
常連客のひとり、孔明さんは、もうすでにかなり出来上がっているらしい。オカマである孔明さんは、毎晩9時になるとお店に出る。それまでの時間つぶしに、いつもここに寄ってくれるのだが、仕事に行く前にお酒なんて飲んで大丈夫なんだろうか。
「ちょっと学校でいろいろありまして……。あ、マスター、本当にすみませんでした。連絡も入れられなくて」
「いいですよ、別に。これくらいのお客さまなら、私ひとりで十分お相手できますからね」
(わっ、やべえ。ほんとに怒ってるよ、マスター)
マスターがこういう丁寧な物言いをするときは、注意したほうがいい。
「ピーチ・ハート」のマスター趙雲さんは、いつも穏やかに微笑んでいて、滅多なことでは怒ったりしない。けれど、縁なし眼鏡の奥の切れ長の目が、いつも表情ほどには笑っているわけじゃないのを、ぼくは知っている。
みんな、そのていねいな物腰と温かい雰囲気にだまされて?いるけれど、マスターは本当は、かなり熱くてシニカルなひとなのだ。

ぼくは首をすくめて、タイミングよく空になっていた、もうひとりの常連であるフリーライターの張飛さんのグラスを取った。
「おかわりしましょうか?」
「んー、同じヤツ」
「まったくもう、どうしていつもウイスキーのウーロン茶割りばっかりなのよ!」
孔明さんが、柳眉をひきつらせて張飛さんをつつく。たわいない夫婦喧嘩を見ているようで、ぼくはこっそり笑ってしまった。
「あ、姜維くん。あちらのお客さまにも注文お聞きしてきて。もう、グラス空になってるはずだから」
マスターに言われたぼくは、ほんの少し顔を引きつらせて、くだんの客の前に立った。
年の頃は30代後半だろうか。隙のない服装といい、背筋を伸ばして座っている姿勢といい、よほどきっちりした人なのだろう。
「お客さま、何かお作りいたしましょうか」
聞いたとたん、帰ってきた言葉が、
「……バカめが!」
「はい?(ああ、びっくりした)」
「バカめが!バカめがっ!いったい私を何だと思っているのだ?」
「あの……お客さま?(もう、サイテーだよ〜〜泣)」
「私は教授だぞ」
「はあ(トホホ……)」
「それを何だ!まったく近頃の学生はなっておらん」
男性客は、手にしたグラスを乱暴にテーブルの上に叩きつけた。マスターの目がキラリと光ったのを背中で感じて、ぼくは首筋の毛を逆立てた。
「はあ……申し訳ありません(って、なんでぼくが謝らなくちゃならないんだ?)」

注文も取れず、すごすごとカウンターに戻ってきたぼくは、マスターに泣きついた。
「マスター、ダメですよぉ。あのお客さま、こっちの言うことなんか全然耳に入ってませんよ」
「大学の先生?初めてじゃないんでしょ」
孔明さんが頬杖をついたまま、夢見るような瞳で言う。
「東西大学の司馬懿先生。以前に同僚の方と二、三度お見えになったことがあります」
さすがにマスターだ。一度来た客の顔は、絶対に忘れない。
それにしても東西大学って、金持ちばっかりが通ってるので有名な「お坊っちゃま校」じゃないか。
「学校で嫌なことでもあったのかしらん。あんな仏頂面してたんじゃ、せっかくのいい男が台無しじゃない?」
「孔明さんは、誰を見てもいい男って言うよな」
ウイスキーのウーロン茶割りをちびりちびり舐めていた張飛さんが、にやりと笑う。
「ま、失礼ね!少なくとも張さんには、言ったことないわよ」
何を思ったのか、張飛さんは急に立ち上がると、奥の客に声をかけた。
「ねえ、そちらの先生。こっちへきて一緒に飲りませんか」
「けっこうだ」
「取り付く島もないたあ、このことだね。……まあまあ、そう言わずに、酒は楽しく飲まなくちゃ」
そう言うと、張飛さんはウーロン茶割のグラスを持って、奥のテーブルに向かった。

「あわわ……張飛さんってば」
相手が堅苦しい大学教授でも、いっこうに物怖じしないところは、さすがにフリーライターである。司馬懿先生の真向かいに座った張飛さんは、インタビューをするかのような口ぶりで尋ねた。
「何をそんなに怒ってるんです?」
「どうもこうもないわ!おとなしく授業を聞いているかと思えば、メールなんぞにうつつを抜かしおって!」
「あー、まあ今の若い連中は、ケータイが三度の飯より好きですからなあ」
(あんたの授業が面白くないから、学生が遊ぶんだろーが!)
張飛さんの相づちを聞きながら、ぼくは思い切り心の中でツッコミを入れていた。
「いつもは代返ばかりで、まともに出てきておらん奴らが、今日はえらくまじめに出席しておると思っておれば……」
思い出すと余計に腹がたってくるのだろう。先生はこぶしを握り締めたまま、黙り込んでしまった。
そのとき。
「いいじゃないですか、先生。あなたには、教えるべき相手が前にいるんですから」
マスターがそっと、本の形をしたボトルと代わりのグラスをテーブルに置いた。
「先生のお好きなスプリングバンク15年、私からのサービスです。どうかご機嫌を直してください。ブックのボトルは、大学の先生にふさわしいでしょう?」
マスターがブックの中身をグラスに注ぐ。琥珀色の液体がゆったりとただよい、芳醇な香りが立ち上る。
司馬懿先生は、驚いたようにだまってマスターの顔を眺めていたが、やがてにっこり笑うと、グラスを取り上げて口に含んだ。
「ああ、うまい」
先生はすっかり穏やかな表情になっている。ぼくは時々、マスターが本当は魔法使いなんじゃないかと、真剣に思ってしまうのだ。
「マスター、ありがとう。やっぱり酒は楽しく飲まねばいかんな」
「そう、そして生身の学生を相手にするのも、楽しんでしまうことです」
マスターの言葉に、先生がはっと顔を上げた。
「そのうち授業も何もかも、パソコンの画面を通して――なんてことになりかねませんよ。そうなれば、学生に怒ることさえできなくなりますからね」
「………」

何となく、みんながしんみりしたところへ、勢いよくドアが開いて、ひとりの若い男性が入ってきた。
「あ、いたいた!やっぱりここか」
「キミは――、曹丕くんじゃないか」
司馬懿先生が驚いて立ち上がる。
曹丕と呼ばれた男性は、ぼくと同じくらいの年頃だろうか。学生だろうに、ブランドものの時計やネックレスをちゃらちゃらさせ、いかにも「いいところのお坊っちゃん」風だ。
彼はわき目もふらずまっすぐ先生のテーブルの横に進むと、小さく頭を下げた。
「先生、今日はすみませんでした」
「わざわざそんな事を言うために、こんなところまで来たのかね」
――ははあ、さてはこいつが、司馬懿先生の癇癪のタネだったんだな。
さすがに先生も、わざとしかつめらしい顔をしてみせたが、実際はもう、機嫌はすっかりよくなっているはずだ。
「今日は司馬懿先生の誕生日でしょう?今日、授業中にメールを回していたのは、そのことで友だちと相談していたからなんです」
「相談?」
「みんなで、先生の誕生日をお祝いしようって」
「何――?」
先生は、ぽかんとした顔で教え子を眺めた。
「さあ、先生、行きましょう!別の店でちゃんと用意してあるんです。うちの親父が贔屓にしている高級クラブなんですよ。みんな待ってますから。こんな辛気臭いところはさっさと出ましょう」
「曹丕くん……」
突然の展開に、司馬懿先生は言葉も出ない。ただ、厳しそうな目元がうるんでいるのが、チラリと見えた。
「さあ、先生、早く早く」
勘定もそこそこに、司馬懿先生は曹丕という学生に引っ張られるようにして席を立った。
二人がそそくさと出て行き、ドアが閉まったところで、趙雲さんがつぶやいた。
「こんなところで……悪かったですね」
(きゃ〜〜っ!怖いよ〜〜〜)
ぼくはしばらく、マスターの顔をまともに見られなかった。

「いったい、何だったんだろうね、今のは」
「さあ」
嵐のように二人が去った後で、ぼくと張飛さんは、呆然と顔を見合わせていた。
カウンターでは、孔明さんがひどく酔っ払っている。
「口では難しいこと言ってても、中身はただのオヤジよね。ちょこっとでもいい男なんて思った自分が悔しいっ」
「孔明さんったら……(汗)」
今夜もこれからお勤めのはずなのだが、こんな状態で大丈夫なんだろうか。
「ま、いいわ。やっぱり私は今までどおり、マスター一筋で行くから」
「はあっ?」(←趙雲)

2005/9/3


【あとがき】
2000ヒットの自爆記念に、ちょっと毛色の違うSSを書いてみました。
たぶんこんな機会でもなければ、絶対にパラレルものなんて書かなかったでしょう。でも、書いてみるとけっこう楽しくて、「Bar.ピーチハート」のお話はシリーズにしてもいいかな、なんてチラッと思ったりして(笑)。
とにかく、登場人物の設定を考えるだけでも楽しいですよね……。まだまだ出したいキャラがたくさんいますし。
いっそのこと、自爆したとき用のスペシャルシリーズにしてもいいな(爆)。
なお、ご存知の方もおられるかもしれませんが、元ネタは古谷三敏さんのマンガ「Bar.レモン・ハート」です。張飛さんのキャラなんて「松田さん」まんまのパクリでごめんなさい。

【スプリングバンク15年 ブック・セラミック】
我が家にある「ザ・ウイスキー」という文庫本には、濃い藍色のブック型容器に入ったスプリングバンクの15年ものが掲載されているのですが、実はこの本かなり古くて、現在ではスプリングバンク15年は製造されていないようです。……すみません。
ほかのお酒に差し替えようかとも思ったのですが、ジェントルマン司馬懿先生には、やはり正統派スコッチウイスキーのシングルモルトが、一番ぴったりな気がしますし。
スプリングバンク8年は、昔よく飲みましたが、口当たりがよくてとても飲みやすいお酒でした。


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