Bar ピーチ・ハート ここは、心優しいひとたちのとまり木 |
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都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。 バー「ピーチ・ハート」。気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。 今夜も、ちょっと疲れた男たちが羽根を安めにやってくる……。 |
PART.8 春はすぐそこに (後編) 徐庶さんに会うために「ピーチ・ハート」を訪ねてきた女性。春梅さんは、その名前のとおり、寒さに耐えて凛然と咲く梅のような、美しさの中に強さを秘めた魅力的な女性だった。 だが、肝心の徐庶さんは、いつも午後9時にならないと来店しない。一方、春梅さんは、9時発の飛行機で北海道に帰らなければならないという。 二人がどんな関係なのか、ぼくには全く分からないけれど、せっかく訪ねてきた春梅さんのためにも、何とか二人を会わせてあげられないものだろうか――。 ◇◆◇ 「残念だけど、今日はあきらめて帰ります」 春梅さんは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。 手にしたバックをしばらく見つめていた彼女は、中から小さな紙袋を取り出してカウンターに置いた。 「マスター。お願いがあるの。これを、徐庶さんに渡していただけないかしら」 「わかりました。大切にお預かりします」 席を立とうとする彼女をそっと手で制して、マスターが明るく声をかけた。 「せっかくお越しいただいたのですから、私から春梅さんに、一杯おごらせてくださいませんか」 「……ありがとうございます」 皆が見守る中、あざやかな手さばきで、趙雲マスターは一杯のカクテルを仕上げていく。梅酒と日本酒、グレナデンシロップをステアしてグラスに注ぎ、ソーダで満たし、最後に梅の実を添えたそれは、春の香りをいっぱいにただよわせたカクテルだった。 「どうぞ。『梅ごこち』という名前のカクテルです」 「まあ、きれいな色!」 春梅さんは、うっとりと目を細めた。 春らしい、はんなりとした温かみのある琥珀色が、春梅さんの雰囲気にぴったりだ。 「日本酒と梅酒のカクテルです。女性にも飲みやすいと思いますよ」 「ほんと、美味しい――」 彼女の顔に温かな笑みが浮かんだのを見て、なんだかぼくもほっとする。 「マスターのお酒をいただいたら、元気が出てきました。ありがとう、マスター。今日は残念だったけど、きっとまたいつか、お会いできる日もあるわね」 『梅ごこち』を飲み終えた春梅さんは、徐庶さんに心を残しながら、名残惜しそうに帰っていった。 「徐庶さんにお預かりものがあります」 「ほう、私に? いったい何だろう?」 午後9時になって店に現れた徐庶さんに、まずいつものようにワイルドターキーをロックで提供すると、マスターはまじめな顔で切り出した。 「春梅さんという方から、これを渡してほしいと」 「――春梅!」 いつも冷静な徐庶さんの顔に、驚きと動揺が走る。 「ここに、来ていたのかね?」 「ええ。8時過ぎまで待っていらっしゃいましたが、今夜の飛行機で札幌に帰らなければならないから、とお帰りになりました。徐庶さんに会いたかったと、残念そうにおっしゃっていました」 「そうか、春梅さんが……。申し訳ないことをしてしまったな」 徐庶さんが開いた紙袋の中には、チョコレートと思しき包みと、淡い萌黄色の封筒が入っていた。 徐庶さんは、サングラスをはずして春梅さんからの手紙を読み終えると、頬杖をついて目を閉じ、ほうっと小さなため息をついた。 いつも強面な徐庶さんには似合わない優しい表情に、ぼくは小さな衝撃を受けた。 「ねえ、徐庶さん。聞かせてもらってもいいですか」 マスターの眉間にしわが寄る。怒鳴られるのを覚悟で、ぼくは続けた。一度湧きあがった好奇心は、おさえられない。 「春梅さんとは、どんなご関係なんですか?」 店の中が、しんとした。 マスターが険しい目付きで口を開こうとしたそのとき、助け舟を出してくれたのは張飛さんだった。 「おいおい、姜維くん。野暮なことを言いなさんな。この季節、チョコレートと手紙とくれば、もう聞かずもがなだろう?」 「いやだなあ、張飛さん。そんな訳ありな仲じゃないよ」 意外に穏やかな口調で徐庶さんが答えてくれたので、緊張した店内の空気は一瞬でほぐれた。 「彼女はね、私が昔世話になった人の娘さんなんだ。まあ、妹みたいなものだ。結婚してアメリカで暮らしていたんだが、2年前に離婚して日本に帰ってきたと聞いている。もっとも、私はずっと会っていなかったんだがね」 妹みたいな……? 正直、ぼくが春梅さんから受けたのは、もっと切羽詰った感じだったのだけれど。 ぼくたちは、黙って徐庶さんの話に耳を傾けた。 「北海道は彼女の故郷だ。そして、私の故郷でもある」 もうずいぶん長い間帰っていないが、と徐庶さんはワイルドターキーを口に含み、遠い目をした。 「徐庶さんに、ぜひ味わっていただきたいカクテルがあるのですが」 「はて、何だろう?」 趙雲マスターが徐庶さんの前に置いたのは、カクテルグラスのふちをグラニュー糖で飾った白いカクテルだった。 「『雪国』です」 「ほう。山形県のバーテンダーが創作したというカクテルの名作だね」 「さすがに、よくご存じですね」 今から50年以上も前に、山形県酒田市のバーテンダー井山計一氏が創作した『雪国』は、日本を代表するカクテルのひとつなのだそうだ。(以下、趙雲マスターの受け売り) ウオッカ、ホワイトキュラソー、ライムジュースをシェイクし、グラニュー糖でスノースタイルにしたカクテルグラスに注ぎ、そっとグリーンチェリーを沈める。 きらきらと輝く雪の結晶がグラスを飾り、白いカクテルに沈んだグリーンチェリーの緑が、雪に埋もれて春を待つ新芽を髣髴させる。「日本の冬の情緒をカクテルの世界で描いた美しい作品である(HBAバーテンダーズオフィシャルブックより)」と言われる所以だ。 「北海道は、まだまだ雪が残っているんでしょうね」 「一面の銀世界だよ。春の訪れは、まだずっと先だね」 ぼくの問いに、徐庶さんは懐かしそうに目を細めた。 「春はまだ遠い……。だが、梅の花はそんな寒さの中で、馥郁とした香りを放つんだな」 あらためてサングラスをかけ、いつものハードボイルドな雰囲気に戻った徐庶さんに、マスターが声をかけた。 「久しぶりに故郷の景色を見に帰られたらどうですか」 「そうだねえ」 サングラスに隠れた眸子の色までは分からないが、温かい声音が返ってきた。 「マスターのカクテルを飲んだら、北海道の雪景色を見たくなったよ」 ホワイトスノーをまとったカクテルグラスが、徐庶さんの手の中できらきらと光る。 「来週あたり、札幌に行ってくるか。おやじさんの墓参りもしたいしな」 「それはいい里帰りになりますね」 マスターがにっこりと微笑む。 ぼくの目には、徐庶さんと再会した春梅さんのうれしそうな顔が浮かんでいた。 立春を過ぎたとはいえ、外はまだまだ真冬の風が吹いている。 だけど、ピーチ・ハートの店に集う人たちの胸はほっこりと温かい。 春は、もうすぐそこなのだから。 ◇◆◇ 仕事を終え、下宿に帰る道すがら、ぼくは今夜の出来事を思い出していた。 春梅さんと徐庶さん。 すれ違ってしまった二人の気持ちを結びつけたのは、趙雲マスターが作った2杯のカクテルだった。二人とも、マスターの作るカクテルで元気づけられ、前向きな気持ちになれたのだ。 もしかして、バーテンダーってものすごい仕事なんじゃないか? ――私の下で働く以上、本気でバーテンダーを目指したいと思う人でなければね。 (やべえ。ぼく、今、本気で、バーテンダーを目指したい、と思ってる) 胸がドキドキして落ち着かない。長い間ピーチ・ハートで働いてきたが、こんな気持ちになったのは初めてだ。 趙雲マスターのように、かっこいいバーテンダーになりたい。 「楽して就活」なんて、一瞬でも思った自分が恥ずかしくてたまらなくなった。 明日、マスターにきちんと謝ろう。そして、もう一度、あらためてマスターの下で働きたいと頼んでみよう。 春が来るまえに、自分の気持ちときちんと向き合わなければ、とその夜ぼくは、小さな決意をしたのだった。 |
了 2011/3/14 |
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【あとがき】 バレンタインデーにちなんだ話だったのに、ホワイトデーになってしまいました(爆)。 この後編をアップしようと思っていた直前に、東北と関東地方を襲った巨大地震と津波災害。被害にあわれた皆様には、心よりお見舞い申し上げます。 今はとても笑うことなどできない状況だと思いますが、どうぞ元気を出してください。寒い冬の後には、暖かい春がやってくる、春はもうすぐそこなのだ、と信じて。 【カクテル 梅ごこち】 酒造メーカー菊正宗が考案した、日本酒を楽しむためのオリジナル・カクテル。ほんのり梅の香りがするさわやかな味。 → 菊正宗HP 梅酒 80ml、日本酒(菊正宗)50ml、ガムシロップ 小さじ2、グレナデンシロップ 小さじ1をミキシンググラスに入れてステアする。グラスに注ぎ、ソーダ水 50mlで満たし、最後に梅の実を入れる。 【カクテル 雪国】 カクテルグラス(容量90ml程度)の縁をレモンの切れ端などで湿らせ、平らに敷いたグラニュー糖にふせて付け、スノースタイルとする。ウォッカ 40ml、ホワイトキュラソー 10ml、ライムジュース(またはライム・コーディアル)10ml をシェイクし、スノースタイルにしたカクテルグラスに注ぐ。グラスの底にミントチェリー(または、緑のマラスキーノチェリー)を沈める。 |