Bar ピーチ・ハート ここは、心優しいひとたちのとまり木 |
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都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。 バー「ピーチ・ハート」。気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。 今夜も、ちょっと疲れた男たちが羽根を安めにやってくる……。 |
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PART.9 花 束 「静かな夜ですね」 カウンターに座った上品な中年女性が、ぽつりとつぶやく。 時折、同僚と一緒に飲みに来ていた記憶があるけれど、目立つ感じの人でもなかったので、あまり印象に残っていなかった。 その女性が「静かな夜」と言ったのも道理で、今夜はめずらしく常連客の姿がない。 孔明さんは、今日から勤め先の慰安旅行(オカマさんばっかりの団体旅行って、ぼくには想像つかないんだけど;;)。張飛さんは、季節遅れのインフルエンザにかかったとかで、しばらくの間、趙雲マスターから出入り差し止めになっていた。 どこか艶めいた春の気配がただよう店内には、趙雲マスターとぼく(アルバイトの姜維)、そしてその女性の3人だけだった。 「今日、30年間勤めた職場を退職してきたんです」 女性は、グレンフィディックのロックが入ったグラスをカウンターに置くと、ほっとため息をついた。 「そうですか。司馬さま、長い間お疲れ様でした」 マスターの言葉を聞いて、ぼくはようやく、その女性が司馬遼子さんという名前だったことに気づいた。 「定年っていうわけじゃないのよ。同期の人たちがみんなまだがんばってる中で、私だけ先に『一抜けた』しちゃって、申し訳ない気もするんだけど……」 「皆さんそれぞれに、事情もおありでしょうから」 「優しいんですね、マスター」 遼子さんの顔に、ほんの少し寂しそうな笑顔が浮かぶ。 「ああ、でもなんだかほっとしたわ。肩の荷が下りたっていうか――。そうしたら急にお酒が飲みたくなって、気がついたらここに来てしまってたの」 「大切な日に、うちの店を思い出していただいて、光栄です」 「ほんと。家に帰るより先にお酒を飲みに来るなんて、私って不良主婦ね」 「姜維くん、ちょっと」 マスターに呼ばれて、ぼくは奥のストックへ入っていった。 「向かいの花屋さんへ行って、花束を買ってきてくれませんか」 「花束……ですか?」 「今の時間ならまだ開いてるはずですから。女性の退職祝いだと言えば、適当に見繕ってくれるでしょう」 マスターの意図に気づいたぼくは、さっそく花屋へ行き、小さな花束を調達してきた。花の選択はお店の人に任せたので、マスターの気にいるかどうか自信はなかったけど。 店に戻ってくると、遼子さんはマスターと小説の話で盛り上がっていた。 「それじゃ、マスターはハードボイルドが好きなのね?」 「レイモンド・チャンドラーは、私の学生時代からのバイブルですよ」 「やっぱりね、っていう感じだけど、似合いすぎてて意外性がないわ」 酔いも手伝ってか、遼子さんの笑顔がしだいに華やいでいく。 「司馬さまは歴史小説がお好きでしたね」 「ふふ、マスターったら、つまらないことをよく覚えてるんだから」 「うちの常連客の張飛さんを相手に、幕末の話題で盛り上がっておられたでしょう」 「きゃあ、恥ずかしい;;」 大仰に照れつつも、まんざらでもないような……。(^_^;) 「以前、自分でも、小説のまねごとのようなものを書いているとおっしゃってましたね。お仕事を辞められたのは、それもあるんですか?」 マスターの言葉に、遼子さんの頬が赤く染まった。 「恥ずかしいから、周りにはずっと内緒にしてたんだけど、小説家になるのが子どもの頃からの夢だったの。ほんとに今さらだけど、夢を見るのに遅すぎることもないよねって思うと、がまんしきれなくなっちゃった」 ――まあ、しばらくは大人しく専業主婦してるつもりだけど、と笑いながら、彼女はグレンフィディックを飲み干した。 「私のわがままを聞いてくれた主人や子どもたちには感謝してるのよ」 春の夜に交錯するのは、少しの寂しさと、遥かな希望と。 新たな出発(たびだち)へとけじめをつけた遼子さんの笑顔が、いっそすがすがしい――。 「では、私から司馬さまの前途を祝って、一杯おごらせていただきましょう」 マスターが、とっておきの一杯を遼子さんの前に置いた。 「司馬さまのシンデレラ・ドリームの実現を願って。どうぞ、『シンデレラ』です。ノンアルコールのカクテルなので、お口に合うとよいのですが」 「まあ、美味しい! 目が覚めるわ。これって、飲みすぎるな、ってことかしら、マスター?」 一口飲んだ遼子さんは、いたずらっぽく片目をつぶってみせた。 「たまに羽目をはずすのは良いことだと思いますよ。ただ、お酒も過ぎると体をこわします。特にお一人のときは、ほどほどになさってくださいね」 「魔法が解けないうちに、家に帰りなさい、ってことね」 馬車がかぼちゃに変わるまでには、まだもう少し時間があったのだけれど。 遼子さんは、マスターの心づくしの花束に感激して家路についた。 いつか、彼女の書いた本が書店に並ぶ日がくるかもしれない。 新しい春に、乾杯。 |
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2011/3/31 |
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【あとがき】 私事で恐縮ですが、今日、30年間勤めた職場を退職しました。不況のこの時期、もったいないと人にも言われ、自分でもそう思う気持ちもあるのですが、いろいろ考えた末に決断しました。 といっても、このお話の遼子さんのように、大きな夢にチャレンジするなどという気概はさらさらなく、ただずっと憧れていた専業主婦になるというのが、私の選択肢です。その上で、今までできなかった「家 -home-」と「家で過ごす時間」を大切に暮らしたいなあと思っています。 自分自身を励ます意味で、このSSを書きました。 ちょっと寂しいような、すがすがしいような。定年退職なら、それなりに感慨もあり、寂しさもあるのでしょうが、私の場合はむしろ開放感の方がまさっています。(^^) 新しい春に乾杯! 【カクテル シンデレラ】 ノンアルコールカクテルの一つ。サンドリヨン、もしくはサンドリオンという別名もある。 オレンジジュース 60ml、レモンジュース 60ml、パイナップルジュース 60ml をシェイカーに入れてシェイクし、丸底のカクテルグラスに注ぐ。氷を入れ、パイン・スライス、オレンジ・スライス、レモン・スライスを飾る。ソーダで割ってロングカクテルのスタイルにする場合もある。 |
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