いにしえ夢語り蜀錦の庭言の葉つづり



花が香るのは


[1]

魏の景元五年(264年)春一月。
蜀漢の都だった成都では、梅の花が満開だった。
城内のそこかしこに、紅白の可憐な花が乱れ咲き、馥郁とした香りを漂わせている。


かつて劉備が、諸葛亮が、天下統一の夢を掲げて降り立ち、その拠り所とした蜀の地。
かれらもまた、昔日、この地に咲き匂う梅の花を愛でただろうか。
やがて、劉備ら桃園の義兄弟たちは相次いで世を去り、大志を継いだ諸葛亮孔明も、途半ばで五丈原に帰らぬ人となった。
孔明の後を受けた蒋エン、費イは、一貫して専守防衛に徹し、先人の遺徳と天然の要害に守られてか、蜀は、それから三十年にわたってその命脈を保ち得たのである。
だが一方で、劉備が漢室復興の理想を掲げ、孔明が引き継いだ『蜀漢』は、常に曹魏と対極の位置にあることで、その存在理由があったともいえる。孔明亡き後、蜀は、次第にこの存在理由を失っていくことになるのだ。
そんな『蜀漢』の行く末を、誰よりも激しく、歯噛みするような思いで案じていたのは、姜維伯約だった。

――今の蜀は、魏に滅ぼされるのを待っているようなもの。このままでは、先帝の理想、亡き丞相の悲願が雲散霧消してしまう。崇高な建国の理念なくして、たとえ百年千年永らえようと、何の意味があろうか。

姜維は元々魏に仕える将だった。第一次北伐の際、動揺した上司に内通の疑いをかけられ、進退窮まって蜀に降ったのである。以来、常に孔明の傍らにあって、漢室再興の旗印を掲げて奮戦した。
蜀の人々が偽りの平穏に慣れ、厭戦の空気が国全体を覆い始めても、姜維は、孔明の遺志を受け継ぎ、ただ一人戦い続けた。
晩年のかれの魏に対する執拗な攻勢は、狂気とも見えるほどだ。まるで孔明の魂が乗り移ったとしか思えない。姜維が孔明とともに過ごしたのはわずか六年あまりにすぎないが、その間かれは、師の悲願、志を、痛いほどその身と魂に浴び続けたのだろう。
故郷を捨て、不孝不忠のそしりを受け、それでもかつての己の故国に攻め入り続けたかれの姿を、天上にある孔明の魂魄はどのような思いで見ていたのであろうか。
だが――。
男たちが夢を描き、姜維が守り抜こうとした蜀漢は、すでにこの世にはない。
昨年冬、魏の大軍に攻め込まれて成都が陥落すると、劉禅は早々と魏の将軍トウガイに降伏し、ここに蜀漢はあっけなく滅亡したのである。
剣閣の要害で魏の大軍を防ぎ、後一歩で撤退させるところまで善戦していた姜維も、劉禅から直々に武装解除の命を受けては、武器を捨て、敵将鐘会に降らざるを得なかった。


「国が滅んでも、花は咲くのですね」
今年十三になる娘の言葉に、香蓮は声を詰まらせた。
「蓮花……」
「お父さまやお母さまが懸命に支えてこられた蜀漢は、もうなくなってしまったのでしょう?」
「そうね。でも、お父上は、今も戦っていらっしゃるのよ。最後の最後まであきらめずに。蜀漢のため、天下のため、孔明さまの夢を叶えるために」
庭先に、見事な花を咲かせている白梅の老木を眺めながら、香蓮は娘に言い聞かせる。
今を盛りと咲き匂う無数の花たち。
甘やかな香りに、胸が詰まる――。
凛と咲き誇るその姿に、一人戦い続ける夫の孤高の姿を重ね合わせた妻は、思わず目頭を熱くした。
香蓮は、姜維が蜀に降ってから娶った妻である。二人の間には、二男三女の子があった。上の二人の娘は他家へ嫁し、長男姜孔もすでに一家を成して別棟に暮らしている。
今、母とともにいるのは、十六歳になる次男姜啓と末娘の蓮花の二人だけだった。


あれは何時のことであったか。
長らく前線に駐屯していた夫が、数ヶ月ぶりに成都に帰還してきた。生まれたばかりの末娘を連れて、郊外の梅林へ花見に出かけたことがある。
風の穏やかな、うららかな春の午後。
だが、すでに盛りを過ぎかけた梅は、半分赤茶けてしぼんでしまっていた。
「まあ、少し遅かったのですね」
十日ほど前までは満開でしたのに、と残念がる妻に、姜維は穏やかな笑顔を返した。
「香蓮。私は、この梅の花のようでありたいと思っている」
「確かに華やかさはないけれど、薫り高く、寒風の中で凛と咲く姿は、伯約さまらしいとわたくしも思いますわ」
――ああ、と頷いた夫の眸子は、不思議な情熱をたたえている。
「私のことをそんなふうに言ってくれるのは、そなただけだな。……だが、それだけではない」
「と申されますと?」
姜維はじっと妻の顔を見つめ、自嘲に似た笑みを浮かべた。
「梅の散り際は無様であろう」
「え?」
夫の言っている意味がわからない。
「花の盛りに見事に散ってしまう桜などとは違い、梅は花が朽ち果てるまで、枝にしがみついておる。その姿は、決して美しくも潔くもない。いつまでも醜い姿をさらしていると、嘲笑う者もいよう。だが、私は、最後の最後まであきらめたくはない。万にひとつの望みでもあれば、その可能性に賭けたいと思っている。たとえ無様だと笑われようとも、最期まで己の生き様に執着する、この梅花のようでありたいのだ」
香蓮の胸がしんとする。
いつの間にか、夫の髪に白いものが目立つようになったことに、改めて気づいた。
蜀に降ってより今日まで、夫は、ただひとつの道だけを信じて、ひたすらに歩いてきた。その生き様を、胸に秘めた熱い志を、妻である自分だけは、最後まで見守り続けたい。

――ああ。命尽きるその瞬間まで、この方の進むべき道はひとつしかないのだ。

枯れてもなお、その残滓をさらし続ける梅花のように。
たとえ人から何と言われようと。
決意に満ちたあの日の夫のまなざしを、香蓮は今も忘れることができない。


「父上が何を考えていらっしゃるのか、私にはさっぱり分かりません」
醒めた声に振り向くと、息子の姜啓が憮然とした顔で立っていた。
「人は皆、父上のことを悪し様に申しております。無駄な北伐を繰り返して何の益も上げられず、国家の財政を疲弊させた。国を統べる大将軍の地位にありながら、内政を顧みず、宦官をはびこらせて宮廷を腐敗させた。さらに、国家存亡の大事の折にのうのうと生き長らえ、あまつさえ敵国の将軍と好を通じて、己が保身のみを図っている――」
香蓮の顔色が変わった。
「おやめなさいっ! それ以上父上のことを悪く言うと、母が許しませんよ!」
「母上……」
「父上には、きっと何かお考えがあるのです。息子であるあなたが父上を信じてあげなくて、どうするのですか」
だが、息子の言い分にも理由がないわけではない。
剣閣で鐘会に降伏した姜維だったが、その後なぜか二人は意気投合し、今も行動をともにしていた。鐘会は、姜維を客将として遇するのみならず、成都への進軍に際しては、兵五万を与えて先鋒としたのである。
やがて成都に入った鐘会は、謀反の企てありとしてトウガイ父子を捕え、本国へ護送してしまった。
元々二人の仲は良くなかったし、成都攻略の手柄を立てたトウガイを、鐘会が苦々しく思っていたことも確かである。だが、その背後に、姜維の影を感じ取ることのできた人間が、どれだけいただろう。
訳もなく、胸が騒ぐ。
(なぜ夫は、おとなしく敵である鐘会のもとにいるのか?)
世間が噂するように、夫が保身のために鐘会に取り入っているとは、香蓮にはとても思えなかった。
きっと、何かある。
考えているはずだ。その胸の奥深く、何か、とてつもないことを。

――あの方は、決してあきらめたりしない。
孔明さまから託された夢を、途中で投げ出すようなことはしない。
枯れ果ててなお、己が生き様に執着する梅花のようでありたい、と言うあなたを、わたくしもまた、最後まで信じています――。


「蓮花。すまないけれど、表の梅の枝を少し手折ってきておくれ。そろそろ客間の花を替えなくては」
そう言って娘を外へ出した後、
「啓、これを見てごらんなさい」
香蓮は声音を改めると、懐から小さくたたんだ紙を取り出して、息子の手に渡した。
「これは、父上からの文ですか?」
「数日前に、董封どのが密かに届けてくれたものです」
董封は、かつて姜維の身辺を警護していた耳目である。今は陳涛の後を継いで、荊州耳目の頭領となっていた。
そこには、余計なことは一切記されておらず、ただ「自分に万一のことがあれば、すぐに子どもたちを連れて逃げよ。すべては董封に任せてあるゆえ、その指図に従うように」という意味のことが簡潔にしたためられていた。
文章の最後に、小さく「起死」と書かれているのを認めて、姜啓は顔色を変えた。
「これは……! 母上、父上は何をしようとなさっているのです?」
「わかりませぬ。董封どのも、はっきりと答えてはくださらなかった。ただ、心を静め、万一の場合に備えておくように、と」
夫が何を思い、どんな策をめぐらしているのかは分からない。
だが、文を手にしたときから、香蓮には、姜維が最後の賭けに打って出ようとしているにちがいないという確信があった。
企てが失敗すれば、自身の身は言うに及ばず、一族郎党の命もない。それほどの「起死回生」を賭けた大博打なのであろう。
目を上げると、啓の肩が小さくふるえている。
「啓。そなたも姜伯約の息子ならば、覚悟を決めておきなさい」
「母上――」
「父上はこう仰っていますが、母は、何があろうともここから逃げるつもりはありません。姜伯約の妻として、最期まで旦那さまとご一緒に参ります」
ごくり、と息子が唾を飲み込む。
「兄上は、このことをご存じなのですか?」
「孔には先日話しました。妻と娘を早く成都から逃がすようにと」
「あ! それで、義姉上は実家に戻られたのですね」
「他家に嫁いだ娘や孫にまでは、詮議の手も及びますまい。けれど、そなたたちは……」
そこまで言い、香蓮は絶句した。
(男子である孔や啓は、助かるまい。敵の手に捕らわれれば、おそらく死罪――)


董封から夫の文を受け取った香蓮は、取るものも取りあえず長男の姜孔を訪ねた。
文を一瞥するや、孔の顔色が変わった。彼もまた、すぐさま父の企図するところが分かったのである。
しばらく沈思していた孔は、やがて真剣なまなざしを上げてじっと母を見つめた。  
「私は、逃げませんよ、母上」
「孔?」
「姜伯約の血を引く男子となれば、たとえこの場は逃れても、どこまでも追っ手がかかるのは必定。それならばいっそ、潔く父上のお供をいたしましょう」
父によく似た横顔に、かすかな笑みが浮かぶ。
「ここで身の処し方を誤って、父上のお名前に傷がついては一大事です。私は、蜀漢の大将軍 姜伯約の息子として、立派に死にたいと存じます。母上も、すでに覚悟を決めておいでなのでしょう?」
覚悟。
(そう。覚悟はできている。何があっても、最後まで伯約さまの側を離れぬと。生も死も、あの方とともにと。伯約さまと結ばれたあの日から、わたくしの進むべき道も、またひとつ)
けれど――。
子どもたちまでを巻き添えにするのは、母として忍びなかった。
「母上。私は嫡男ですから、父上のお供をするのは当然としても、啓や蓮花は不憫ですね。できることなら、死なせたくない」
孔もまた、弟妹たちだけでも何とか助けられないかと考えていた。
「姜家の血を絶やしてしまっては、父上も悲しまれましょう。母上、何とか董封どのに、啓と蓮花だけでも無事に逃していただけるように頼んでくださいませんか」
「――そなたは、よいのですか? こんなところで、こんな形で終わっても……」
「言ったでしょう。私は、姜伯約の息子ですよ。何があっても、父上とともに参ります。できることなら、今すぐにでも父上の下に馳せ参じ、微力ながらお力になりたいところですが。それができぬのが残念です」
「孔……」
香蓮の中で、こらえていたものが堰を切ったようにあふれ出た。

<2 に続く>

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