いにしえ夢語り蜀錦の庭言の葉つづり



花が香るのは


[2]

香蓮は、自分の身が中空に浮かんでいることに気づいた。
不可思議ではあったが、怖くはない。
(これは、夢だわ)
夢ならば、この胸の願いが叶えばいいのに。
そう思ったとき、遠くから聞き覚えのある笛の音が聞こえてきた。
(あ……?)
突然、まぶしい光が差して、辺りの景色が一変する。そこは、成都郊外にある梅林だった。
暖かな陽だまりの中、無骨な梅が枝は、ほころび始めた白や薄紅のつぼみに彩られ、咲き初めた花が高貴な香りを漂わせている。
その中に佇み、一心に笛を奏している人影を目にした途端、香蓮の胸は懐かしさと愛しさに弾けた。
「伯約さま!」
香蓮の声に気づいたのか、手を止めて振り向いたその人は、香蓮に向かって静かに微笑んだ。文字通り夢に見た、懐かしい笑顔で。
「あなた――!」
言葉よりも、思いが、涙があふれる。
駆けても駆けても、一向に縮まらない距離がもどかしい。すぐそこに、手を伸ばせば届くところに、あなたがいるのに。
ようやくのこと。無我夢中で、香蓮は、夫姜維の胸に飛び込んだ。
「あなた……あなた……あなた」
たくましい腕に包み込まれ、抱きしめられ――。
身に馴染んだ男の匂いが、鼻腔いっぱいに広がる。
「香蓮。会いたかった」
心の芯に染みとおる声が、耳元でささやく。

――ああ。愛しいひと。

言葉もなく、ただ泣くことしかできない。そんな妻の髪を優しくなぜながら、姜維は強い力で香蓮を抱きしめる。
口を開こうとした香蓮を目で制した姜維は、
「お願いだ。しばらく、このまま……」
言うなり、むさぼるように唇を重ねてきた。そんな荒々しい夫の口づけを、香蓮も夢中で受け止めた。
どれほどの時間が過ぎただろう。
甘い抱擁に酔いしれていた香蓮の身体は、ふいに夫の胸から引き離された。
顔を上げると、姜維の澄んだまなざしが、真正面から自分を見つめている。その眸子の色に、別れの兆しを感じて、香蓮の胸は不安でいっぱいになる。
「あなた、行ってはいや」
「だめだよ、香蓮。もう時間がない」
「いやです。せっかくこうしてお会いできたのに」
姜維は、やれやれといった顔で苦笑した。
「もうすぐ董封が来る。さあ、早く起きなさい――」

――いや。目覚めたくない。夢でもいい。もう少し、伯約さまと一緒にいたい……。

幸せな夢は、そこで途切れた。
目を開くと、そこはいつもの一人の寝室だった。
いつの間にか、うたた寝をしてしまったらしい。
「あなた……」
寝台の上に横たわったまま、後から後からとめどなく涙があふれ出る。耳朶の底には、未だ夫の奏する笛の音色が残っていた。
理不尽に破られた夢の残影を、香蓮は、必死に繋ぎ止めようとしていた。
だが、あわただしい外の動きが、否応無しに香蓮の意識を現実へと引き戻した。
遠くで、軍馬のいななき、兵士たちのどよめく声が聞こえる。跳ね起きるようにして寝室の扉を開けると、宮殿の辺りの空が赤く染まっている。
(伯約さま! まさか……?)
夫が言うところの「万が一の時」が来たのだろうか。
あるいは夫が夢に現れたのは、虫の知らせだったのか、と香蓮は不吉な予感におののかずにはいられなかった。


この時、姜維の胸の奥深くに秘められた回天の奇策は、鐘会をそそのかして蜀独立のクーデターを起こさせることだった。主だった魏軍の将を鐘会の手で始末させた後、返す刀で鐘会を倒し、劉禅を復位させて蜀漢を再興する、というまさに起死回生の大博打だったのである。
元々、鐘会には、人の下風に立つことを良しとしない独立反骨の気概があった。そのため、司馬氏がすべての実権を握っている今の魏の朝廷では、彼のような人物は、いずれ身の置き所をなくすであろうことは誰の目にも明らかだった。
姜維は、そんな鐘会の不安と野心に火を付けたのだ。そして、その企ては、ほぼ成功したかに見えた。
成都に入った鐘会は、己の野望の赴くまま、まずはライバルであるトウガイを謀略によって陥れ、罪を被せて本国へ送り返した。次に彼は、自分が反乱を起こした際に敵に回ると思われる将軍たちを捕え、宮殿内の獄舎に監禁してしまった。
後は、劉禅から正式に蜀漢の政権移譲を受け、独立を宣言すればいい。
自分の王国建国という夢に酔いしれる鐘会を、姜維は醒めた眼で見つめていた。
(哀れなり、鐘会。ひとときの夢に酔うがいい)
事が成ってしまえば、鐘会を殺す機会はいくらでもある。
そのために、膝を屈して彼に取り入り、ここまでの信頼を得たのだ。すべては、胸にたたんだ起死回生の秘策のため。
だが、あと一歩、というところで、鐘会と姜維の企ては魏兵たちの知るところとなる。捕えられていた魏将の口から、「魏の将兵は、鐘会によって皆殺しにされる」という噂が流れたため、怒りに燃えた兵士たちが宮殿へと殺到したのだ。
時ならぬ太鼓の音を合図に、宮殿のあちこちに篝火が焚かれ、鬨の声が上がるのを聞いて、姜維は、己の策が破れたことを知った。

――我が計破れたり。これも天命か。

「姜将軍、どうすればよいのじゃ」
蒼白な顔で立ち尽くしていた鐘会が、すがるような視線で姜維に問いかける。
茫然と天を仰いでいた姜維は、その声ではっと我に返った。
宮殿の内も外も、すでに敵兵が固めているだろう。抵抗しようにも、宮殿内にいる鐘会配下の兵は、数えるほどしかいない。
「もはや、これまで。鐘会どの、覚悟を決めましょう」
凛然とした声で言い、姜維は凄みのある微笑を浮かべた。
それから四半刻もたたぬうちに、彼らのいる広間へと敵がなだれ込んできた。姜維、鐘会、さらに張翼も加わって奮戦したが、衆寡敵せず、三人は乱戦の中で斬り殺された。


宮殿内の異変を告げるかのように、不気味な血の色に染まった夜空。
我に返った香蓮は、大急ぎで子どもたちを呼び寄せた。
「お母さま、これは……? 戦でも始まったのですか?」
怯える娘を抱きしめ、「大丈夫、大丈夫」と繰り返しながら、香蓮は改めて気を引き締める。
混乱する使用人たちの動揺を抑え、声を枯らして指示を出しているところへ、董封が駆け込んできた。
「奥方さま! すぐにお逃げください。間もなく魏軍の兵がこの屋敷へ寄せて参ります」
息を切らせて告げる董封の顔は、汗と返り血にまみれていた。彼自身、死線をくぐり抜けてきたのであろう。
「董封どの、旦那さまは?」
「大将軍は、先刻宮殿内にて、鐘会とともに魏の将兵に討ち取られてござる」

――ああ、すでに……? 伯約さまっ!

香蓮の口から声にならない叫びがもれ、彼女はがくりと肩を落とした。
「母上! お気を確かに」
「お母さま!」
驚いて、子どもたちが駆け寄る。
「大丈夫よ、啓、蓮花。母さまは大丈夫だから、心配しないで」
香蓮は、子どもたちに、かねて用意していた旅装を手早く整えさせると、董封の前に連れて行き、深々と頭を下げた。
「董封どの。啓と蓮花、この子たち二人を連れて逃げてください」
「奥方さまはいかがなされます?」
いぶかしげに董封が問うた。姜維からは、「妻と子どもたち」を逃がしてやってほしい、と頼まれていた。むろん香蓮にも、その旨は伝えてある。
「私は、どこまでも旦那さまと一緒に参ります。孔も父上の供をすると言ってくれました。ですが、死ぬのは二人で十分。この子たちまで道連れにしては、それこそわたくしが旦那さまに叱られます」
思いがけない母の言葉に、次男の啓は、身を硬くしてその場に立ちすくんだ。
「啓。そなたは、一刻も早くここからお逃げなさい。董封どのとともに、蓮花をつれて逃げておくれ」
「母上! 何を言われるのですか」
「お母さまっ」
蓮花が悲鳴を上げて、母の膝にしがみつく。その娘の手を握りしめ、香蓮は諄々と言い聞かせた。
「蓮花、よく聞いて。母と大兄は、ここに残ります。でも、お前たちまで死ぬことはないわ。旦那さまも、お前たちには生きてほしいと思っておられるはず。そのために、こうしてわざわざ文を下さったのだもの」
「母上っ」
啓も、泣きながら母の前に跪く。その肩に手を置き、じっと息子の目を見つめながら、香蓮は言った。
「啓。そなたは何としても生き延びて――そして、父上がなさろうとしたことを、姜伯約の真の姿を、後世に伝えておくれ」
「母上……」
逆らうことを許さぬ、毅然とした声。母の覚悟は、決して翻るまい――。
「さあ、早くお行きなさい。もう、時間がありませぬ。ここから先は、全て董封どのの言われる通りにするのですよ」
いつ来たのか、母の後ろには、長男の孔が鎧を着込み、槍を手にして立っている。
「後のことは母上と私に任せろ。啓、蓮花を頼んだぞ」
「兄上……」
言葉もなく悄然と、唇を噛み締める弟に向って、兄は翳りのない笑顔を返した。
「董封どの、どうぞ啓と蓮花の二人を、無事に逃がしてやってくだされ。しばらくの間、私たちがここで追手を食い止めますゆえ、その間に」
「承知つかまつった。では、それがしはこれにて。若君、蓮花さま、参りますぞ」
董封にうながされ、半ば追い立てられるようにして、啓と蓮花はその場を後にした。振り返り、振り返り、目にいっぱいの涙をためて。
去って行く二人を見守る香蓮の目蓋にも、熱い涙がほとばしるのだった。


闇の中に、ひしひしと、兵たちの近づいてくる気配がする。
「家人たちは皆、屋敷を出ましたか」
「最後までここに残ると言いはってきかぬ者が、十人余りおりますが。後は皆、無事に逃げたようです」
香蓮の問いに、孔が答える。残ったのは、皆、姜維の代から仕える家人たちであった。
やがて、表門を見張っていた家人が駆け込んできた。
「若。敵が寄せて参りましたぞ」
「わかった。すぐに行く」
「孔。できるだけ時間を稼いでおくれ。少しでもあの子たちが遠くへ逃げられるように」
「お任せください、母上。姜家の戦を、魏兵どもに見せてやりましょう」
孔は父によく似た笑顔で答えると、身を翻して駆け出していった。
(屋敷を取り囲んでいる兵の数は、およそ百。我ら母子の捕縛が目的であろうから、最初から手荒なまねはすまい。孔が防いでいる間に、できるだけ多くの敵を引きつけて――)
孔と別れた香蓮は、一人館の奥へと歩を進めると、厳重に閉ざされた一室の扉を開いた。
そこは、夫姜維の書斎だった。
壁いっぱいに造り付けられた棚には、あふれんばかりの竹簡や図面などが堆く積まれている。
ここ数年、めったに成都には帰ってこない夫だったが、たまに館へ戻ってくると、必ずここに籠もって、孔明から譲り受けた竹簡やさまざまな書簡を眺めているのが常だった。
部屋に入り、燭台に灯りを灯すと、文机の前に頬杖をついて、竹簡に見入っている夫の姿が目に浮かぶ。今にも、そこから立ち上がってきそうだ。
(あなた――)
一緒に逝くことを許してくださいますわね、と独りごちながら、香蓮は、静かに燭台の火を床に倒した。

――花が見事に咲くのは、人にその美しさを愛でてもらうため。
けれど、花が香るのは、誰のためでもない、己が生きた証を残さんがため。
伯約さま。
あなたのそのまっすぐな志を、私たちは決して忘れません。
凛として咲き匂う梅花のごとき生き様を――。

館に放たれた炎は天を焦がし、成都の夜空を煌々と染め上げた。


その頃、混乱に紛れて成都から脱出した董封たち三人は、北へ向かう街道を急いでいた。
背後に、紅く染まった夜空が浮かび上がり、成都の異変を告げている。
馬を下りた姜啓と蓮花の兄妹は、南の空を眺めて、茫然と立ち尽くした。
「母上、兄上――」
噛み締めた唇が破れ、血が滲む。
蓮花は、そんな兄の胸にすがり、ただ泣きじゃくっている。
「啓兄さま、母さまと孔兄さまは……」
「泣かないで、蓮花。これからは、私がお前を守る。だから、今は逃げのびることだけを考えるんだ」
孤児となってしまった二人の兄妹を励ますように、董封が力強く声をかけた。
「お二人は、この董封めが命に代えてお守りいたします。何としても無事にお逃がし申し上げると、伯約さまに約束いたしましたゆえ」
父よりも幾分年長に見える、かつての荊州耳目の頭領の顔を、啓は改めてじっと見つめ返した。
「董封どのは、父を、昔から知っておられたのですか?」
「今のあなたさまくらいの時から存じておりますよ。もっとも当時は、伯約さまは儂のことなど、気づいてもおられなかったでしょうが」
「父のことを――」
聞かせてくれませんか、と董封に言った啓は、自分でも恥ずかしくなるほど頬を紅潮させていた。
「私は今まで、父のことを少しも分かっていませんでした。いや、分かろうともしなかった。いつも戦ばかりで、めったに家に帰ってこない父を、私は自分でも気づかぬうちに、胸の内から遠ざけていたのかもしれません。時折母が聞かせてくれる父の話も、ただ疎ましいだけだった。ですが――」
と啓は、勢い込んで言葉を続ける。
「今初めて、本当に父のことを知りたくなりました。最後まであきらめずに戦い抜いた父の思い、真意を掴み取ることが、残された私に課せられた使命だと思うのです」
まだどこか幼さの残る表情は、真剣そのものだった。
「董封どの。ぜひ、あなたの知っている父の姿を、私に教えていただけないでしょうか」
「よろしいですよ」
きらきらと輝く啓の眸子が、若き日の姜維にそっくりなことに気づき、董封は胸の内で微笑した。
「道々の寝物語に、お聞かせいたしましょう。伯約さまのことなら、どれほど語っても語り尽くせませぬから。ですが今は、この地を離れることが先決でござる。一刻も早く漢中へ入りませぬと」
董封は、かつて姜維が潜伏していた浮屠の村を目指していた。騒ぎが収まるまで、そこで身を隠すつもりだった。
「街道はすぐに手配がまわるでしょうから、馬はここで捨てることにいたします。ここからは間道伝いの山越えですぞ。蓮花どのは、儂が背負いましょう」
「かたじけない、董封どの」
三人は再び歩き出す。
罪人の汚名を着せられ、生まれた土地を捨てて。この先、逃亡の旅路にどんな苦難が待ち受けているか、それは誰にも分からない。
だが、険しい杣道をたどる姜啓の足取りは、軽かった。


――知りたい。父が、何を思い、どのように生きたのか。
自分の知らない父の姿を。姜維伯約という男の生き様を。
最後まで夢を追い続け、夢もろともに滅び去ったその生涯の真実を。

――父上。今はまだ、私には何も分かりません。
ですが、いつかきっと、あなたの思いに近づいてみせます。
姜伯約の息子として、恥ずかしくない生き様を全うしたその時こそ、
父上の意志を我が物とすることができると信じて。


◆◇◆◇

当時の記録によると、姜維伯約の妻子は、成都の乱に際して、皆捕らえられ処刑されたという。
だが、姜維が最後に打った起死回生の奇策とその真意を、後の世に伝えた者が誰だったのかということは、どこにも記されていない。


2008/2/24


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