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届かぬ想い 




私の名は姜維。
故国である魏を捨て、今は蜀漢の丞相 諸葛孔明先生に仕えている。
丞相が捲土重来を期した二度目の北伐は、しかしついに陳倉を抜くことができず、蜀軍は無念の退却を余儀なくされた。傷心のうちに漢中に帰還した私を出迎えてくれたのは、丞相の養女 香蓮どのの笑顔だった。



まだ冬の寒さが残る曇天にむかって、はあ……と、姜維伯約は大きなため息をついた。
(どうにも、心が晴れぬ――)
陳倉での敗戦の悔しさは、今も生々しく胸に張り付いている。殿軍を預かりながら、多くの将兵を失ってしまった己の不甲斐なさを思い出しては、慚愧に目がくらむ日々だ。
さらには、戦場で病に倒れた諸葛孔明の身も心配でならない。孔明の容体は、取りあえずは安定しているものの、未だに病床に伏せったままだった。
あれを思い、これを憂い、考えれば考えるほど、思考が悪い方へと向かってしまう。
しかし。
それだけではないことを、当の伯約自身が誰よりもよく分かっていた。
折にふれ、ある女性の面影が脳裏に浮かぶ。そしてその度に、彼は自分でも説明できない胸苦しさにおそわれるのだった。


今朝早くのこと。
いつものように孔明の寝室を訪ねた伯約を出迎えたのは、孔明の養女である香蓮の憂いに満ちた顔だった。
「伯約さま……」
「香蓮どの。丞相のお加減はいかがです?」
「昨夜から、ご気分は悪くなさそうなのだけど。ただ、今朝もまだお食事を召し上がってくださらないの」
香蓮は、伯約の視線から腫れた目蓋を隠すように俯いた。
彼女は、孔明が帰還したその日から、昼夜を問わず傍らに侍して、文字通り献身的な看護を続けている。昨夜もほとんど寝ずに看病していたのだろう。
「それは心配ですね。ですが――」
と、伯約は言葉を継いだ。
「そんなに気を張り詰めていては、あなたが倒れてしまう。少し休んだ方がいいのではありませんか」
「ありがとう。でも、私なら大丈夫。これが、私にできる精一杯のことだから」
健気な笑顔を見ていると、それ以上何も言えなかった。
香蓮が、養父である孔明に父親として以上の感情を抱いていることを、伯約は知っている。
知っているからこそ、彼女に対しては特別な思い入れを持たぬよう、あくまでも友人あるいは同志としての関係を保とうと、固く己を律してきたのだ。
それが、あの日。
遠征から戻った伯約を出迎えてくれた香蓮の笑顔を見たとたん、心の中の何かが弾け飛んだ。
香蓮が孔明に寄せているであろう思いに対する遠慮も。あるいは、伯約が亡き妻に抱いてきたこだわりも。何もかもが弾けて消え、後にはただ、愛しさだけが残った。
そのひとの、無垢な笑顔がただまぶしくて。
自分に微笑みかけてくれる、そのひとの存在すべてが愛しかった。

――私はきっと、香蓮どのに恋をしているのだ。

だが、その思いを相手に伝える術を、伯約は知らない。


「姜将軍。今よろしいですか」
調練の合間に、小隊の長を務める王讃という男が声をかけてきた。
「あの――」
どこか幼さの残る顔にただならぬ決意をみなぎらせながら、なぜか王讃は言いよどんでいる。
「どうした? 何かあったのか?」
しばしの沈黙の後、彼は意を決して伯約に問うた。
「丞相のご息女の香蓮さまというのは、どのようなお方ですか?」
「え?」
不意打ちに香蓮の名前を出されて、伯約は少なからず動揺した。が、むろん顔には出さない。
「なぜ、私に聞く?」
「それは――。将軍は香蓮どのとお親しいのでしょう? よくご一緒におられるところをお見かけしますし」
最初の口火を切ったことで、勢いがついたのだろう。実は、と王讃はたたみかける。
「丞相がかねてから良い婿殿を探しておられると聞きました。しかし、香蓮さまはどのような縁談も気に入らず、断り続けておられるとか。いったいどんな男なら、あの方の心を射止めることができるんでしょうか?」
(どんな男なら――か)
私がそれを知りたいのだ、とはさすがに言えない。
王讃がそこまで言ったとき、後ろにいた同輩が割り込んできた。
「こいつ、一度香蓮さまと一緒に出かける機会があったんですよ。そこで少し話をしたらしいんですが、一目惚れしたっていうか、何ていうか」
「茶化すなよ。俺は真剣なんだ!」
王讃が真っ赤な顔で同輩を睨む。
怒られた同輩は、渋い顔で頭をかきながら伯約に話を振った。
「しかし、なぜ将軍にはお話がないのでしょうね? 俺たちから見ても、一番お似合いだと思うんですが」
何気ない言葉だったが、(そうか。周りからはそのように見えるのか)と、伯約はあらためて気づき、苦笑した。
「安心しろ。私も断られたクチだ」
「ええっ、将軍もですか? ……じゃあ、やっぱり、俺なんかじゃとっても無理かあ」
「諦めんなよ、そこで」
すっかり意気消沈してしまった王讃だったが、伯約は肩を叩いて励ました。
「まだ無理と決まったわけじゃない。お前がその気なら頑張ればいい。ただ、香蓮どのは一筋縄ではいかんぞ。槍の腕前では、お前たちが束になってもかなわんだろうしな。何より――」
言いかけて、伯約はふっと言葉を濁した。
(香蓮どのの心には、すでにあの方がいるのだ……)


午後の調練が終わった後も、伯約は一人で槍の鍛錬に没頭していた。
槍さばきは体が覚えている。一心不乱に動いていれば、余計なことは考えずにすむ。
それでも、いつの間にか勝手に思考が膨らみ、腕が止まってしまうのだった。

考えたこともなかった――。
香蓮どのが、誰かの妻になる。私の手の届かないところに行ってしまう……。
そんなことが。そんな日が来るなどとは。

これまで伯約は、香蓮は孔明を慕うあまり、どこへも嫁がずにずっとこのまま孔明の傍に(すなわち自分の傍に)いるのだろうと、何の根拠もなしに思い込んでいた。
だが、冷静に考えてみれば、そんな不自然なことが許されるはずがない。
孔明の養女という立場からしても、また彼女自身の幸福のためにも、いずれそれなりの相手と婚姻の契りを結ぶのは当然のことだろう。

――その相手が、なぜ自分ではないのか。

かつて、孔明から香蓮との縁談を勧められたとき、なぜ深く考えもせずに断ってしまったのだろう。あの時は、ただ香蓮のために良かれと思ってしたことだった。だが、もっと違うやり方はなかったのか。何より、己の心に嘘をついていたのではあるまいか。
思考は同じところを堂々巡りするばかりだ。
(だめだ。これ以上やっても、どうにもならぬ)
とうとう彼は槍の鍛錬も諦めて、一人馬上の人となると、城門を出て南へと馬を走らせた。
どれほど駆けたか。
気がつくと、そこは、伯約が初めて香蓮と出会った泉のほとりだった。
(あの日、香蓮どのはあの泉の中に立っていて――。突然のことに、私は、洛水の女神が降り立ったのかと驚いたものだ)
まだそれほど昔のことではないのに。
今、改めてこの地に立つと、過日の出会いがとても懐かしく、愛おしく思い出される。甘いような苦いような…言葉にならない切なさに、伯約の胸はひときわ熱く震えるのだった。


その夜、死んだ妻の夢を見た。
目覚めた後も、何かが心に刺さっている。
居住まいを正した伯約は、久しぶりに懐から笛を取り出してみた。
繊細な螺鈿を施され、見事な竜の金細工で飾られた一管の笛。
それは、笛の名手だった妻 春英が愛奏していたものだ。父親の形見でもあるこの笛を、いつも肌身離さず、宝物のように大切にしていた。
けれども、どこかに哀しい予感があったのだろうか。最後に別れる前に、春英は、その笛を良人に託したのである。
「あなた――」
明日は太守に従って領内の巡察に出るという前の夜、妻は思いつめた表情で夫の手を取った。
「この笛をわたくしだと思って、お連れくださいまし……」
「春英。どうしてそんな悲しそうな顔をする? 私は戦に行くわけではない。巡察のお役目は、それほど長くはかからぬのに」
ことさらに明るく振る舞って、妻の愁眉を開こうとした伯約だったが、春英は寂しげに微笑むばかりであった。
「どうぞ、ご無事でお帰りくださいませ」
透きとおるように儚げな笑顔が、今も目蓋に焼き付いている。
そしてそれが、春英との今生の別れになった。
触れれば今も、妻の体温が残っているような気がして、伯約は歌口にそっと自分の唇を押し当てた。
静かに息を吹き込めば、妻の吐息のようなせつない音色がわき上がる。
(俺はそなたに、何もしてやれなかった……)
春英と自分の縁の薄さが哀れだった。
初めて出会ったのは、まだ世間知らずの青二才だった頃。己の進むべき道も、求める世界も知らなかった伯約は、春英をいとおしく思いながらも、別離の運命を受け入れざるをえなかった。
その後二人は、互いに相手に思いを残しながら、心ならずも別々の道をたどることになる。長く過酷な年月を経て、ようやく再会して夫婦となったが、幸せは長く続かなかった。
蜀への内通を疑われ、城を追われたあの時。
春英は、伯約の母を守ろうとして斬り殺されたのだ。

――もう二度と、誰も愛さない。

それは、妻を守れなかった自分への呪詛だった。孔明のもとに身を寄せてからも、ずっとその痛みを心の底に沈めて生きてきた。
だが、香蓮と出会ってからというもの、彼女に傾斜していく気持ちを止めることができない。
心に刺さった棘は、妻を裏切ろうとしている己に対する自責の念なのだろう。
(今になってあの時の誓いを破った俺に、恨み言を言いにきたのか?)
夢の中の春英は、静かに微笑んでいたように思う。
彼女は確かに、無限の優しさと温かさで夫を包み、許しを与えてくれた。
(しかし、それとて己に都合のいい自分勝手な解釈だ)
それでいい、と伯約は思った。
妻の呪縛は、決して忘れまい。これからも、棘の痛みを背負ったまま生きていく。
香蓮への叶わぬ恋は、天が与えた罰なのだ、と。


<届かぬ想い 了>



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