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心 重ねて 




私の名前は香蓮。
孤児(みなしご)だった私は、故あって蜀漢の丞相である諸葛亮孔明さまに養われ、成都で孔明さまのご家族と一緒に暮らしていました。
最初の北伐が失敗に終わった後、漢中に撤退した孔明さまのもとを訪れた私は、そこで魏から降ったという姜維伯約さまと出会います。
最初は遠く離れていた伯約さまとの距離。いつしか自分でも気づかないうちに、その存在がとても大きなものになっていることに、小さな驚きを覚える私でした。



夏五月。
重畳と連なる山々には、さまざまな濃淡の緑が輝き、空はぬけるように高い。遠く蛇行する漢水の流れに、まぶしい日差しがきらきらと反射して、漢中は、盛夏の装いだった。
午後の日差しを浴びて、香蓮は、間近に漢水を望む小高い丘へと続く道をたどっていた。頬を撫でる微風におくれ毛を遊ばせながら、慣れた足取りで馬を進めていく。
ここ半年余り、特別な用の無い日の午後には、南鄭城からほど近いこの丘まで馬を駆るのが彼女の日課になっていた。
頂上近くまでくると、雑木林がとぎれて眺望が開ける。片側には、山にへばりつくようにして、小さな廟堂が建っており、傾いた扁額の文字は「孔子廟」と読めた。
香蓮は、日々、この廟に詣でて祈りを捧げていたのである。
香蓮の実の父である趙雲は、北伐が再開される直前に病に倒れ、それから間もなくしてこの世を去っていた。
父が病床に臥せって以来、ひたすらその快癒を祈ってきた香蓮だった。さらに、北伐が始まってからは、孔明と姜維の武運を願い、陳倉の戦で孔明が倒れたと聞いた時には、その病気平癒にことに心気をこめた。
香蓮の願いは、ただひとすじだった。
蜀漢の長久と、義父孔明の大願成就。
今日も――。
いつものように、傍らの古木に馬を繋ごうとして、香蓮は手を止めた。松籟の音にまじって、どこからか嫋々たる笛の音が流れてくる。
(これは……伯約さまの笛の音?)
姜維は、ひとりでいる時など、よく手遊びに笛を吹いていた。音色に独特の余韻があり、最初にその笛を聞いたとき、香蓮は、訳もなく胸が締めつけられたのを覚えている。
空気が透き通っていくような響きは、確かに姜維の笛にちがいない。だが、これほどの悲痛な音色を耳にするのは初めてだ。午後の光が溢れる中で聞いてさえ、悲しみに心が凍りつくかと思われる。
香蓮の胸は騒いだ。
(どうかされたのかしら? そういえば、朝から姿を見かけなかったけれど)
切れぎれの音は、上方の松林の中から流れてくる。
笛の音の主を求めて、香蓮は、さらに急な坂を登っていった。


丘の頂上は平らになっていて、松の疎林と潅木に覆われている。切り立った崖が、ほとんど垂直に近い角度で、北にむかって落ち込んでいた。
その崖の上、ふた抱えほどもある松の老木の根本に腰を下ろして、眼下に広がる漢中平野の景色に視線を投げているのは、やはり姜維だった。その手には、一管の笛が握りしめられている。
声をかけようとして、香蓮は、喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。彼の後ろ姿には、人を拒絶するような厳しい孤独の翳がにじんでいたからだ。
それでも、そんな姿を見せられては、なおのこと黙って立ち去るわけにはいかない。
「伯約さま」
驚いて振り向いた姜維は、そこに立っているのが香蓮だと知って、赤く泣きはらした双眸を隠すように視線をそらした。
「あ……。ああ、驚かせてすまない。何でもありません」
「でも――」
われながら下手ないいぐさだと、観念したのだろう。姜維はあらためて香蓮のほうに向き直ると、
「郷里の母が死んだと、昨夜便りがあったのです」
と、しぼり出すような声で言った。
「まあっ、母上さまが――」
姜維には、魏に残してきた母がいた。幼くして父が死んだ後は、女手ひとつで彼を育ててくれた。美しく聡明で、また息子に対しては厳しさと優しさを忘れない賢夫人であった。
「母は、私が官吏となって父の事績を継ぎ、没落してしまった姜の家門を再興することを願っていました。それなのに私ときたら、己のわがままで家を飛び出し、孝養を尽くすどころか心配ばかりかけてきたのです。天水に戻ってからも、母には苦労のかけどおしで……」
姜維の記憶にある母は、質素な暮らしの中で身を飾ることもなく、朝早くから畑を耕し、夜遅くまで繕い物に精を出していた。帰郷した息子が郡に出仕するようになっても、母の暮らしぶりは相変わらずだった。
やがて、先の北伐で蜀軍が侵攻してきたとき、太守に従って故郷を離れていた彼は、身に覚えのない謀反の疑いをかけられ、進退窮まって諸葛孔明に降伏することになる。母と息子は離れ離れになり、以来二度と会うことは叶わなかった。
その後、母からは一度だけ手紙がきた。「魏に戻ってきてほしい」という書面に涙しながらも、姜維は心を鬼にしてその願いをしりぞけた。
すべては、天下のため。敗残の身を拾い上げ、進むべき道を指し示してくれた孔明の恩義に報いるため。そして、己が夢でもある、師の大志を叶えんがため。
けれども、遠い故郷の地で、息子の無事を祈りながら暮らしているであろう母のことを、一日とて忘れたことはない。
――いつか必ず、我らの大願が成就し、泰平の世を実現できる日がくる。そのときには、これまでの不孝を詫びることもできよう。
誰にも知られぬように、母への懺悔と悔恨を胸の奥深くたたんで、今日まで過ごしてきた姜維であった。
「母のことも、死んだ妻のことも、心の外に置いてきたつもりだった。過去は捨てたと、自分にいい聞かせてきた。それが、これほど心を乱されるとは思いませんでした。母の命を縮めたのは、まちがいなくこの私なのです」
苦衷に満ちた眸子が、じっと香蓮を見つめている。そこにいるのは、諸葛孔明に蜀漢の未来を託された俊才、香蓮のよく知っている、寡黙で穏やかな姜維ではなく、深い哀しみと苦悩にあえぐひとりの若者だった。
「私はまちがっていたのだろうか? たったひとりの母を泣かせることしかできなかった男に、天下を安んじ、孔明先生の大義を継ぐなどという志を立てる資格はないのかもしれない」
――いいえ、と香蓮は激しくかぶりを振った。
姜維の苦しみが痛いほど伝わってきて、こみ上げる切なさに彼女は目蓋をぬらした。
涙とともに、言葉があふれた。
「そんなに自分を責めないで。母上さまは、きっと伯約さまのことを最後まで気遣って……あなたのことだけを思っておられたはずです」
香蓮には、確信がある。一度も会ったことはないけれど、姜維の母がどのような女性であるか、彼女にははっきりと思い描くことができた。
「私には分かります。あなたを慈しみ育ててこられた母上さまだもの。伯約さまが自分の信じる道をまっすぐに進まれることを、心から望んでおられたと思うわ」
「………」
「女には、自分の命よりも大切なものがあるの。愛する夫や子どものためなら、何もかも捨ててもかまわない、そんな気持ちがきっと、母上さまにも――」
必死で言い募る香蓮の優しさが、姜維の荒れた心に染みとおっていく。
「香蓮どの、すまぬ。もういい、もういいのだ」
香蓮の言葉をさえぎって、姜維は遥か北、秦嶺の彼方に目をやった。
この山並みのむこうに、母と妻の魂が眠っている――。
だがそこは、彼には帰ることのできない故郷であった。
涙がはらはらと姜維の頬をこぼれた。
「香蓮どのの言葉、胸にしみました。母が生き返ってきて、私を叱咤してくれたような気がします」
姜維は、手にした笛をもう一度懐かしそうに見つめ、そして、決然と眉を上げた。
「あの日、私は誓ったのだ。この命、丞相のために捧げると。――もう迷わぬ」
そう言って振り向いた顔は、いつもの凛とした姜維に戻っている。
香蓮は、ほっと安堵のため息をついた。
「伯約さま、お願い。私にも聞かせて。母上さまがお好きだった曲を」
「そうですね。母への手向けに、心をこめて奏しましょう。香蓮どのにも聞いていただこう。だが、過去を振り返るためにこの笛を吹くのは、今日限りにします」
姜維の唇が管にふれたかと思うと、澄んだ音が流れるように湧きあがった。嫋々、その音色は風に乗り、訣別の情は天を翔けて哭く。
一心に笛を吹く姜維の、怜悧な面貌の内に秘められた暗い翳を認めて、香蓮の肌はひりひりと痛んだ。故郷を捨て、肉親の情に背いて、大義に生きる孤高の姿が、ふいに孔明のそれと重なった。
(ああ、この方も。孔明さまと同じ世界に……孤独の中に生きておられる――)
涙があふれてとまらなかった。身体が震えるほどの激しさで、そのとき香蓮は心の底から、姜維をいとおしいと思ったのである。


やがて、季節が夏から秋へと移る頃。
ようやく病の癒えた諸葛孔明は、漢中から成都へ帰還した。
姜維も香蓮とともに成都に戻り、あいかわらず孔明の屋敷に住まいして、昼夜を分かたず側近くに仕えていた。
だが、姜維の母が死んだという知らせが届いたあの日以来、ふたりの間には、ちょっとした変化があった。
一緒にいて、黙りこんでしまうことが多くなった。今までのように、軽口をたたいたり、議論を戦わすということをしない。といって、仲が悪いというわけでもない。
ふとした折りに、姜維をみつめる香蓮の眸子が、熱い。
最初にその変化に気づいたのは、陳涛だった。
「香蓮。おぬし近頃、臥龍先生のことを話さなくなったな」
そういわれて、胸の奥がどきりとした。臥龍先生とは、もちろん孔明のことである。
たしかに以前は、寝ても覚めても、そのひとのことが脳裏を離れなかった。自分でも哀しくなるくらい、孔明のことで頭がいっぱいだった。
――生まれて初めての恋だった、と思う。
だが、自分ひとりがどれほど想いをつのらせても、孔明にとって彼女は、所詮娘のような存在でしかないのだ。
それを思い知らされたとき、香蓮の前に姜維がいた。しかもそのときの彼は、大切なものを失い、傷心のまま孤独の中を彷徨っている若者だった。
孤独な魂が寄り添うように、互いの淋しさを重ねあうように、いつしかふたりの心が相寄っていったのは、自然の成りゆきであったろう。
「それは……」
陳涛の鋭い指摘に口ごもりながら、香蓮は、胸の内にいつも姜維の面影を追っている自分に気づいた。
香蓮に注がれる陳涛の眼差しは、どこまでも温かい。髭に埋もれた口元が笑った。
「姜伯約どのは、よいお方じゃな」
「お師匠さま?」
突然その名前を出されて、彼女はかわいそうなほどうろたえた。
「隠さずとも、その顔をみていればわかるさ。臥龍先生のために働くのもよいが、そろそろ自分のために生きてみてはどうじゃ? 亡きお父上も、孔明どのも、心からそなたの幸せを願っておられるはずだが」
自分のために――。
陳涛の言うとおり、己の気持ちに素直に従ってみようか。
長い間、胸の奥底に隠し続けてきた孔明への思いを、今なら断ち切れるかもしれない。
「姜将軍ならきっと、わしが育てた香蓮を、幸せにしてくださるであろうよ」
「――はい!」
香蓮の顔が輝いた。
その笑顔の鮮やかさに、陳涛の胸も穏やかな喜びに満たされていくのだった。


<心 重ねて 了>



届かぬ想い へ