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帰 還




私の名前は香蓮。
孤児(みなしご)だった私は、故あって蜀漢の丞相である諸葛亮孔明さまに養われ、成都で孔明さまのご家族と一緒に暮らしていました。
最初の北伐が失敗に終わった後、漢中に撤退した孔明さまのもとを訪れた私は、そこで魏から降ったという姜維伯約さまと出会います。
やがて始まった第二次北伐も、孔明さまが病に倒れられたため、蜀軍は成果を上げられずに撤退を余儀なくされたのでした。



その日、漢中の城は異様な雰囲気に包まれていた。
二度目の北伐で、どうしても陳倉の城を抜けずに撤退せざるを得なかった蜀軍が、遠征を終えて引き上げてきたのである。
それは、何をどう言いつくろっても、まごうことなき敗戦であったから、帰城する兵たちを歓呼で迎えるわけにはいかない。
けれど、戦に出ていた夫や父や息子や……愛しい男たちが、ようやく自分のもとに帰ってくるのだ。
出迎える人々の顔には、安堵と喜びの表情があふれていた。


蜀漢の丞相、諸葛亮孔明の養女である香蓮も、他の民衆たちと同様、そわそわと浮き立つ心を抑えきれずにいた。

――孔明さまが、そして伯約さまが、戻ってこられる……!

長引く城攻めの最中、孔明が病に倒れたと聞いたときは、気が狂いそうだった。
すぐにもお傍へ飛んでいきたい、という気持ちをどうすることもできず、ただじっと祈って待つことしかできない辛さ。
己の無力さを、あれほど悔しく思ったことはない。
だからこそ。
(たとえ負け戦でも。無事に帰ってきてくださるのなら)
ただ、それだけでいい――。
軋むような胸を抱えて群集の中に立っていた香蓮に、誰かが呼びかけている。
「――香蓮さま」
「え?」
振り向いた香蓮に向かって、後ろから手を振っているのは、丞相府で働いている女官の紅蘭だった。
紅蘭は、人波をかき分けて香蓮の傍へ歩み寄ると、にっこりと微笑んだ。
「香蓮さまは、姜将軍のお出迎えですか?」
「え……ええ。紅蘭、あなたも?」
「はい。あの人が、やっと帰ってきてくれるんです」
紅蘭の瞳はきらきらと輝いていて、女である香蓮の目から見ても、とても美しく見えた。
「ああ、許婚の黄延どのね。本当によかったわね。おめでとう」
「ありがとうございます」
やがて、兵士たちが続々と城内に入ってきた。
お目当ての顔を見つけては、歓声をあげてまとわりつく人々。
城門前の広場は軍馬と群集でごったがえし、ひととき喧噪で埋め尽くされた。


そして。
群集の数も徐々に減っていき、果てることがないかと思われた喧騒もしだいにおさまりかけた頃。
「伯約さま!」
ようやく姜維の姿を見つけた香蓮は、思わず声をあげてその騎馬に駆け寄った。
「香蓮どの」
姜維もすぐに香蓮に気づき、馬から飛び降りた。
「わざわざ出迎えに来てくださったのですか。かたじけない」
「お帰りなさい。よくご無事で……」
笑ったつもりなのに、涙がこぼれてしまう。
「孔明先生もご無事ですよ。ただ、まだ少し体調がお悪いので、我々とは別に帰還される手筈になっています」
「そう……ですか」
思わず、香蓮の顔がくもる。
「大丈夫、心配しないで。もうほとんど快癒されていますから」
香蓮の気持ちを引き立たせようと、姜維は、わざと明るい笑顔をつくった。
その時、人込みをかき分けて近寄ってきた女が、声をかけてきた。
「姜維さま――」
「紅蘭? どうかしたの?」
二人の後ろに立っていたのは、青ざめた頬の紅蘭だった。
「あの方が……黄延さまがいないのです」
黄延という名前を耳にした途端、姜維の顔に暗い翳がさした。その顔を見つめる香蓮の胸にも、いいようのない不安が広がる。
「そなたは黄延の身寄りの者か?」
いつになく厳しいまなざしで尋ねる姜維の問いに答えたのは、香蓮だった。
「紅蘭は黄延さまの許婚なんです。此度の遠征が終わったら祝言を挙げることになっているのよ」
「そうであったか」
姜維は、小さなため息をつき――。だが、言葉は続かなかった。
「黄延さまは、姜維さまの部隊でしたわね? 一緒に帰ってはこなかったのですか? あの方はどこにいるのでしょう?」
「紅蘭、落ち着いて」
香蓮は、憑かれたように言い募る紅蘭の袖をそっと押さえたが、それでも彼女の興奮は収まらない。なおも追いすがろうとする紅蘭に、姜維が告げた。
「紅蘭とやら。黄延は、戦死した」
「え?」
「陳倉から撤退する際に、我らが殿軍(しんがり)を務めることになり、追いすがってきた魏軍との戦闘で命を落としたのだ」
「うそ……! うそです、そんなこと!」
紅蘭の体は硬直し、表情が凍りつく。
「すまぬ――。私が指揮を執っていながら、あたら多くの兵を死なせてしまった。どれほど謝ったとて、死んだ者が生き返ってくるわけではないが、どうか許してほしい」
「信じません、私は……。あの人が、黄延さまが死んだなんて……」
長い沈黙の果て、喉からか細い悲鳴を漏らし、紅蘭はその場に昏倒した。


気を失った紅蘭を気遣って、香蓮と姜維はしばらく広場にとどまっていた。
やがて気づいた紅蘭を何とか落ち着かせると、姜維は信頼する部下に彼女を預け、自宅へと送らせた。
それを見送ってから、二人は黙々と丞相府へ向かう道をたどる。
「伯約さまが悪いんじゃないわ」
沈んでしまった姜維の気持ちを何とか引き立てたいと、香蓮は懸命に言葉を紡いだ。
「誰かが殿軍を務めねばならなかったんでしょう?」
久しぶりに顔を合わせたということもあり、そして何より、苦しい戦場から帰ってきた姜維に対して、香蓮の口調は自然と改まったものになる。
「撤退戦は、ただでさえ難しいものだと聞いています。本隊を無事に退却させるために、当然捨て駒になる覚悟もなければならぬと、かつて父も言っていましたわ」
「趙雲将軍ほど見事に撤退できれば……。みすみす兵を失うこともなかったでしょう」
凄惨な記憶をたどるように、姜維は目を閉じた。
そして、ぽつりぽつりと語り始めた。
「殿軍の我らが桟道に差し掛かってすぐ、魏の先鋒に追いつかれました。激しい戦になり、これ以上持ちこたえられぬとなったとき、私は桟道を焼いて何とか魏軍の追撃をかわしたのです。だが、そのとき対岸には、まだ桟道を渡りきっておらぬ味方の兵が多数残っていた――」


黄延も、その中にいた。
真面目で飲み込みもよく、細かい気配りのできる黄延を、姜維は常に手元においてかわいがっていた。
いずれは己の部下として、一隊を任せられる器量を持つ若者に育てたいと、期待を寄せていたのである。
「黄延! 早くこちらへ来い!」
「将軍、我らにかまわず、桟道を落としてくだされ! 早く!」
言葉をかわすその束の間にも、無数の敵兵が桟道に取り付こうと殺到する。

――引き際を、誤った。

姜維は唇を噛み締めた。
乱戦の中、兵をまとめることなど、すでにできなくなっている。
「将軍の使命は、中軍を無事に漢中へ撤退させることです。それをお忘れなきよう――」
黄延の悲痛な叫びは、天地を包むような敵の鬨の声にかき消されていった。


(ここで桟道を落とせば、取り残された兵がどうなるか。分かっていて……私は、彼らを見捨てたのだ――)
今も姜維の胸を、重く苦い後悔が塞いでいる。
「あの場所で命を落とした数多の兵たちに、その家族に、どう償えばいいのか、私には分かりません」
「伯約さま……」
姜維の話から、今回の遠征が想像以上に過酷な戦だったことを知り、香蓮は体が震える思いだった。
孔明はともかく、姜維が無事に帰還したことは、奇跡に近いことなのかもしれない。
あるいは、先刻、広場で泣き伏していたのが紅蘭ではなく、自分だったとしても不思議はないのだ。
あらためて、今こうして姜維と並んで歩くことができる喜びを、噛み締めずにはいられない。


戦のたび、大勢の将兵が命を落とす。
それは仕方のないことではあるけれど。
「伯約さま」
前を歩く姜維の背中に、香蓮は胸の内でそっと呼びかける。

――死なないで。

どんなことがあっても、たとえ部隊が全滅しようとも、あなただけには生きていてほしい。
そう願うのは女のわがままだろうか。
そして。
ふと、香蓮は、自分の心の変化に気づく。
いつから、これほどまでに姜維のことが気にかかるようになったのだろう、と。
帰還した姜維の顔を見るまでは、ただただ孔明のことが心配でならなかった。義父である孔明に寄せる狂おしいほどの想いがどこからくるのか、香蓮には分かっている。
だが、姜維に対する感情の変化は突然だった。それは、不意打ちのようにやってきて、香蓮の中にずっとあった孔明への思慕をどこかへ吹き飛ばしてしまった。
先刻、広場で姜維を出迎えてから、ずっと胸が痛くてたまらない。彼の怒りや悲しみに、心が共鳴しているのかもしれない。
張り裂けそうな胸を抱き締めながら、香蓮は男の背中を見つめ続ける。


――私は、と思ったより大きな声がでた。
「伯約さまさえご無事に帰ってきてくださったら、それだけでうれしいんです」
「わがままですね、香蓮どのは」
姜維の口ぶりはちょっと咎めるようで。
だが、香蓮に向けるまなざしは、どこまでも温かい。
「私には、そこまで自分に正直になれる香蓮どのがうらやましいな」
何とか姜維の心をなぐさめたいと、思い余って言った言葉を軽く揶揄されてしまったのは悔しいが、それでも彼の表情が和らいだことにほっとする。
「わがままは、お嫌いですか?」
「え? いや――」
今度は、姜維があわてる番だった。
くすりと忍び笑いをもらし、空を見上げた香蓮の頬を、早春の風が撫でてゆく。

――香蓮どののわがままなら、嫌いではありませんよ。

そんな答が聞こえた気がして、香蓮はあでやかに微笑んだ。



<帰 還  了>



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