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あなたを想い、心は揺れる 




私の名前は香蓮。
孤児(みなしご)だった私は、故あって蜀漢の丞相である諸葛亮孔明さまに養われ、成都で孔明さまのご家族と一緒に暮らしていました。
最初の北伐が失敗に終わった後、漢中に撤退した孔明さまのもとを訪れた私は、そこで魏から降ったという姜維伯約さまと出会います。
やがて二度目の北伐が始まると、私はひとり漢中に取り残されることになるのでした。



その年の冬。
漢中はいつもに増して寒く、雪の降る日が多かった。
孔明と姜維が二度目の北伐に向かうのを見送ってから、香蓮は鬱々とした日を送っている。


蜀軍の本隊が出立してから十日目の未明、趙雲が死んだ。三日間降り続いた雪がようやくやんだ日のことだ。
正式に父子の名乗りをしていない香蓮は、臨終に間に合わなかった。知らせを受けて駆け付けたときには、すでに父は冷たい骸(むくろ)となって横たわっていた。
「お父さま……」
香蓮の呼びかけに答えてくれるひとは、もういない。
頭をなでてくれた大きな手。
穏やかだがよく通る懐かしい声。
愛おしむような優しいまなざし。
自分を包んでくれていた温かいものすべてが、永久に失われてしまった。
世界が足元から崩れ去っていくような喪失感の中、香蓮は、泣くことすら忘れて立ち尽くすしかなかった。


その後の葬儀には、孔明の名代として参列したが、公の場ではあくまでも他人である。このような時であっても、親子として振舞うことは許されない。覚悟はしていたものの、いざ現実となると、その悔しさ心細さは想像をはるかに超えていた。
(先だって喬兄さまが亡くなったときも、身を引き裂かれるほどに辛かったわ。それでもあの時は、孔明さまや伯約さまなど、共に悼んでくれる人が傍にいた。だから、乗り越えることができた――)
しかし、今は。
唯一の肉親を失った悲しみに、香蓮はひとり耐えている。彼女に寄り添ってくれる人は誰もいないのだ。
(せめて隣に『あなた』がいてくださったなら。この寂しさや苛立ちも、少しは慰められるのに……)
無意識のうちに、孔明の面影を思い描いている自分に気づいて、香蓮はため息をついた。
あの夜のことを思い出せば、恥ずかしさで理性が飛びそうになる。必死の告白はあえなく拒絶されてしまったが、それでも、胸の中に今もくすぶる恋心を、なかったことになどできはしない。
あれ以来、なるべく孔明のことを考えるまいと努力してきた。だが、遠く離れて会えない日が続くほどに、孔明と過ごした時間のあれこれや、そのひとの仕草の様々が思い出されて、香蓮の胸は塞がれてしまうのだった。


そんなある日。
香蓮は、早朝の日課である槍の鍛錬を終え、女官の紅蘭と丞相府の中庭を歩いていた。
二つ年下の紅蘭は、明るく物おじしない性格で、香蓮ともすぐに親しくなった。香蓮にとって、漢中での唯一心を許せる友人といっていい。
「香蓮さま。若い娘が朝からそんな暗い顔をしていては、好きな殿御に嫌われますよ」
「まあ、紅蘭ったら。私にそんな方はいません!」
「あら、そうなんですか? 私はまた、此度の戦でその方に会えないからふさぎ込んでおられるのだとばかり」
冗談めかした紅蘭の言葉に、はっとする。

『そのひと』に会えないから――。

確かにそうだ。
会いたくてたまらない、そのひとに。無事を確かめたい、そのひとの。一日も、一刻も早く。
けれど、と香蓮は思う。
次に会った時には、どんな顔をして『そのひと』に接すればいいのだろう。
無様な姿をさらしてしまった相手に対して、今までと同じように振舞うことができるだろうか。
そんな心の動揺を隠して、香蓮はなるべく明るく言い返した。
「それを言うなら、あなたの方でしょう?」
紅蘭には許婚がいる。黄延といい、姜維の下で小隊長を務めている。彼もまた今回の北伐に従軍していた。
「今は会えなくて寂しいけれど、黄延どのが帰ってくればすぐに祝言ですもの。楽しみね」
「……」
だまって俯いた紅蘭の頬がうっすらと紅い。横顔に、恋する乙女の色香が匂う。
その顔で言った。
「姜維さまも。早くお帰りになられるといいですね」
――え? と思ったが、香蓮はさりげなく言葉を濁した。
「あ。ああ、そうね。本当に……」
紅蘭は衷心から香蓮を気遣っているようだ。彼女が、香蓮の『そのひと』を姜維だと勘違いしていることにようやく気付いて、香蓮は胸の内で苦笑した。


中庭を抜けて厨房の近くまで来たとき、にぎやかな女官たちの声が聞こえてきて、二人は足を止めた。
「姜将軍って素敵だと思わない?」
「物静かで、気品があって」
「少しも偉ぶったところがなくて、優しそうで」
「でも戦では、鬼神のようにお強いとか」
「孔明さまの信任もお厚いのでしょう?」
「あんな方の奥方になれたら、どんなにいいかしら」
見れば、四人ほどの若い女官が廊下に輪になり、噂話に花を咲かせている。
姜維の名前が耳に飛び込んできて、思わず耳をそばだてた香蓮だったが、女たちの雑談は一向に終わりそうにない。
香蓮の気持ちを慮ってか、さすがにいつまでも聞いていられない、という顔で声を上げたのは紅蘭だった。
「あなたたち。おしゃべりはその辺りにして、そろそろ持ち場に戻りなさい」
「あ、紅蘭さま!」
「申し訳ありません」
そそくさとその場を離れる女官たちの後ろ姿を見送りながら、香蓮は苦い笑みを浮かべた。
「そりゃあ、伯約さまは素敵だもの。彼女たちが騒ぐのも無理ないわ」
途端に、紅蘭に噛みつかれた。
「香蓮さま。そんな呑気なことを言ってると、本当にあの子たちに姜維さまを取られてしまいますよ。姜維さまのことがお好きなら、その気持ちをちゃんと相手に伝えないと」
「そうね……」
(そう。気持ちを伝えて。ようやく伝えようとして。見事に玉砕したわ――)
もう、誰の話をしているのか、自分でも分からなくなる。
どうにも紅蘭と話がかみ合わないのだ。孔明に対する想いを打ち明けるわけにはいかないから、それは仕方のないことだったが、彼女が香蓮の想い人が姜維であると勘違いしているために、ますますややこしくなってしまう。
これ以上話していると、孔明への恋心が露呈してしまいそうで、香蓮はさりげなく話題を変えた。
「そんなことより、紅蘭の話を聞かせて。黄延どのとはどこで知り合ったの?」
「黄延とは同じ村の出で――。幼なじみなんです、私たち」
紅蘭は恥じらいながら、少しずつ言葉を選ぶようにして答えていく。
「私が南鄭城に奉公に上がると聞いて、あのひとも漢中で兵役に就くと決めたらしくて」
「まあ。黄延どのはよほど紅蘭と離れるのが心配だったのね。それだけ好きだったということかしら。うらやましいわ」
「香蓮さま。あまり冷かさないでください」
冬の陽だまりの中、二人は顔を見合わせて笑った。


紅蘭と別れて自室に戻ってからも、何となく気だるい気分を持て余したまま、香蓮はぼんやりと窓に映る日ざしを眺めていた。
(伯約さまの奥方になれたら、か)
さっき聞いた女官たちの話が、耳に残って消えない。
いつもあまりに近くにいるせいで気づかなかったが、姜維は丞相府の女官たちの憧れの的なのだ。密かに恋心を燃やしている女性もいるのだろう。
そこまで思いをめぐらして、香蓮はかすかな胸の痛みを覚えた。
もしやこれは、嫉妬なのか? 突然の感情に、自分でもとまどってしまう。
(私ったら、馬鹿みたい。だいたい伯約さまは、私のことなど何とも思っていないのよ)
共に過ごした時間は四月に満たず、互いのことを理解し合うには短すぎる。
かつて、姜維との婚姻を勧められたこともあったが、あの時はとてもそんな気にはなれなかった。そんな自分の気持ちを察して、姜維の方から断ってくれたのだと思っていた。
だが、彼の本心は果たしてどうだったのか。最初から相手にされていなかっただけかもしれない。
(私は伯約さまに、何とも思われていない……)
もう一度胸の中で繰り返し、香蓮は愕然とする。姜維にとって自分が特別な存在ではないということが、とてつもなく寂しかったのだ。
――では、と香蓮は自分自身に問いかける。
(私にとって伯約さまの存在は? あの方に対する感情は、特別なものではないの?)
思い悩んでみても、答えは出ない。
孔明以外の男性について、これほど真剣に思いをめぐらすのは初めてのことだった。
(私は孔明さまのことが好きだった。今も、そしてこれからも――)
その気持ちに嘘はない。己の身も心も、すべて孔明のために捧げるべきものだと思って生きてきた。
未来のない恋だと分かっていても、たとえ相手に受け入れられなくても。ただそのひとを愛している、という事実だけで幸せだった。
では、たった今、胸の奥に芽生えたこの複雑な思いはいったい何なのか。
「分からない……」
小さく独り言ちて目を閉じる。
閉じた目蓋の裏に先に浮かんだのは、姜維の静謐な笑顔だった。


<あなたを想い、心は揺れる 了>



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