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後 出 師 表 (3) 




「また、戦なのですね」
先日、孔明が成都に向かったのは、劉禅に再度の北伐の許しを得るためだったと聞いて、香蓮は表情を曇らせた。
「ようやく先の戦の傷が癒えてきたと思ったら、休む間もなくすぐにまた、孔明さまも、伯約さまもご出陣だなんて――」
心配だわ、と香蓮は姜維に不安げな眸子を向けた。
「喬兄さまが亡くなられてまだ日も浅いのに。あの時の孔明さまの落胆を見ている私には、とても戦などという気にはなれないもの」
成都から漢中に帰還した翌日。久しぶりに空いた時間を、姜維の方から声をかけて、二人で槍の鍛錬に汗を流した。こんな時間も、もうしばらくは持てないだろう。
「実は、成都に向かったおりに、先生からあなたとの祝言を薦められました」
「え?」
そんな話は初耳だ。驚いて姜維を見つめる香蓮だったが、
「大丈夫です。きちんとお断りしておきましたから」
という彼の答えを聞いて、さらに目を丸くした。
「あ、誤解しないでください。決してあなたが気に入らないとか、そういうことではないのです」
真意を測りかねている香蓮に、姜維はあわてて言葉を続けた。
「私は武人です。いつかきっと、戦場で命を落とす。そのとき、香蓮どのを悲しませたくない。そう申し上げたら先生は、趙将軍と同じことを言う、と笑っておられました。それに――」
「それに?」
「香蓮どのには他に、胸に秘めた方がおられるのでしょう?」
はっと香蓮が顔を上げる。
姜維の眸子は、彼女の心の奥底まで見通したうえで、そっくりそのまま包み込むように優しく、温かかった。
「私、私は……」
――孔明さまの力になりたいの、と蚊の泣くような声で言い、香蓮は目を伏せた。
「できることなら、私も戦について行きたい。あの方の隣で戦い、あの方を守りたい。ずっと、幼い日に諸葛家に身を寄せたあの日から、ただそれだけを思ってきました」
長い年月、胸の奥深くに押し隠してきた情熱。それは、誰にも知られてはならない秘め事だった。
彼女の願いは、けして叶うことはないだろう。それでも、消し去ることなどできはしない。
「伯約さまは、すべてご存知なのね」
香蓮は小さく息をつき、寂しそうに微笑んだ。
陽が翳り、彼女の笑顔に儚い陰影を添えていく。
(あなたの思慕の深さ、思いの激しさを、『恋』と呼ぶのですね――)
伯約は、目の覚めるような思いで香蓮を見つめていた。
叶わぬ恋に胸を焦がす香蓮を、これまでにないくらい美しいと思った。思った瞬間、愛しさがこみ上げてくる。
その愛しさこそが『恋』なのだと、しかしまだ姜維は気づかない。
ただ、彼女の張り裂けそうな不安を、何とか和らげることができたら、と願うのが精一杯だった。
「孔明先生は、私が必ず、命に代えてお守りする。だから、安心して待っていてください」


それから数日。
趙雲が突然倒れたという知らせが、孔明のもとにもたらされた。
取るものもとりあえず、孔明は、趙雲の娘である香蓮を伴って、趙雲の館へ駆けつけた。
案内された寝所の扉を開けると、驚いたことに趙雲は、寝台の上に端座して二人を待っていた。
「お父さま!」
思わず駆け寄った香蓮の姿を見とめて、
「香蓮か。よく来てくれた」
と微笑んだ趙雲の顔は、父の慈愛にあふれている。
「将軍。無理をなさってはなりませぬ」
「なんの、これしきのこと」
手を差し伸べて寝台に仰臥させようとした孔明に向かって、ことさらに平静を装って答えた趙雲だったが、その顔には病の色が濃かった。
趙雲は、この時すでに五十半ばを超えている。劉備が旗揚げした頃から辛苦をともにしてきた家臣は、今はもうほとんど残っておらず、趙雲は蜀臣中の最長老といってよかった。
端座の姿勢を崩さず、孔明を見つめていた趙雲の視線が、にわかに鋭くなる。
「丞相には、成都へ行っておられた由。出師の表を奉られましたか?」
「いや、陛下には、ただ出陣の許しをいただいてまいっただけです」
孔明は、真正面から趙雲の熱い視線を受けとめて、姿勢を正した。
「表は、亡き殿の墓前に捧げてまいりました」
「さようでしたか」
趙雲の眸子からふっと緊張の色が解けた。そうと聞いただけで、彼の目には、恵陵で出師の表を読みあげる孔明の姿が浮かんだのだろう。
「こたびの出陣には、もちろんそれがしもお供するつもりでござった。だが、どうやらそれも叶わなくなってしまいました」
「お気の弱いことを申されますな」
「いやいや。己の体のことは、己自身が一番よく分かっております」
父の言葉に打たれたように、孔明の後ろに控えていた香蓮が、声を殺してすすり泣いた。
そんな娘を見守りながら、趙雲は淡々と言葉を続ける。
「丞相。それがし、戦うことしか知らぬ無骨者です。丞相が日夜ご苦労なさっておられるのをお助けしたくとも、内治外交の才もなく……。それがしが丞相のお役に立てることといえば、戦場で敵将の首を挙げるくらいのことでござった」
「……」
「そんなこの身が、玄徳さまにも、雲長(関羽)どのや翼徳どの(張飛)にも遅れて、ひとり生きながらえてしまいました。それがしもできることなら、武人らしく、戦場で屍を前に向けて死にたいと思うておりましたが――」
お役に立てず口惜しゅうござる、と趙雲は唇を噛み、双眸に泪をにじませた。
「趙将軍――」
孔明にとって趙雲は、今や唯一の、そして最も古い戦友であり同志だった。鬼神にも勝るその働きによって、劉備軍は幾たび窮地を救われたかしれない。彼にいつまでも壮健でいてほしい、己の大業を助けてほしいと、誰よりも切実に願っていたのは、他ならぬ孔明であっただろう。
長きにわたり、同じ主君のもと、同じ理想を掲げ、ともに乱世を駆け抜けてきた二人には、余人には分からぬ絆があった。
孔明は、万感の思いと衷心からの祈りをこめて、趙雲の手をとった。
「いうまでもなく、将軍は蜀軍の柱石、またこの孔明の右腕とも頼むお方です。将軍のご出馬を頼む機会は、これから先、幾度となくありましょう。どうぞ、今は心安らかにご静養あって、お元気になられたそのときには、またこの不肖孔明をお輔けくだされ」
「ありがたきお言葉、痛み入る」
そうして、しばらくの世間話の後、
――それがしに万一のことがありましたときは、とまるで世間話の続きのような口調で、趙雲は孔明に、香蓮の行く末を頼んだ。
「お父さま……」
香蓮は、あふれる泪で顔を上げることもできずにいる。
「父親らしいことは何ひとつしてやれませんでしたが、たったひとりの血を分けた娘でござる。この身が儚くなるは天命なれど、後に残った香蓮のことを思うと心が乱れます。なにとぞ――」
趙雲は、生涯妻を娶らなかった。
若いころは、戦から戦へ転々とする日々であったし、何度か主君劉備から縁談を勧められたこともあったが、いつ戦場に屍をさらすやもしれぬわが身を思えば、そんな気になれなかったのである。
ただ一度、香蓮の母だった女人との許されざる恋だけが、今も趙雲の心を疼かせる想い出であるといえた。ひとを愛したのは、おそらく、あれが最初の最後ではあるまいか。
かれが妻帯しなかった理由のひとつに、あるいは翠蓮へのこだわりがなかったとはいえまい。
しかし、劉備にすれば、趙家の血筋の絶えることが惜しまれてならなかった。成都に落ち着いて後、主君の強い勧めによって、趙雲は、統と広のふたりを養子に迎えた。ふたりとも、謹厳でまじめな若者だった。むろん武将としての才能は、父趙雲子龍の威名には及ぶべくもなかったが――。
これで趙家の跡目も安泰となった。もはや思い残すことは何もない。
ただ、唯一実の娘である香蓮のことだけが、老いた父の気がかりだった。
「香蓮のこと、よろしくお願いいたします」
もう一度、趙雲は孔明に深々と頭を下げた。

◇◇◇

蜀軍十万は、再び陽平関の野に集結した。
いよいよ明日は、出師の大号令を下すべく、孔明も南鄭城を発って陽平関に向かう。
最終の軍務ことごとくを終えた孔明が、自室にもどったのは、もう夜半を過ぎた頃だった。寝所の扉を開けようとして、ふとその手がとまった。扉の後ろにひとの気配がしたのである。
星明かりだけの部屋の中に座っていたのは、思い詰めた表情の香蓮だった。細い肩が、苦しげに小さくわなないている。その肩が揺れた。
「先生、お願いでございます! わたくしも、ご一緒に、お連れくださいませっ」
孔明は、慈愛に満ちた眼差しを香蓮にむけると、静かな微笑みを口元に刷いた。
「香蓮。無理を言うてくれるな。余人はどうあれ、この諸葛亮、戦場に女子を伴っていこうと思うたことはないぞ」
「……」
「そなたには、もっと大切なこと、なさねばならぬことがあるのではないか?」
これまで、孔明は香蓮に、度々婿取りの話を持ちかけていたのだが、どうしても彼女は頷じえない。理由を尋ねても、まだまだ学問に身を入れたいので、の一点張りである。
孔明にすれば、早く香蓮に良い婿をみつけて、実父である趙雲を安心させてやりたい一心だった。
「実は先だっても、伯約にそなたとの婚儀を薦めてみたのだが……」
「伯約さまですか?」
相変わらず他人事のような香蓮を横目に、孔明はため息をついた。
「見事に断られたわ。戦で死んだときに妻を悲しませるわけにはまいりませぬゆえ、とな。まったくそなたといい、趙将軍といい、そろいもそろって頑固な者どもよ」
もはや、苦笑するしかない。
「確かに、男というものは、戦に赴いてはひとの命を奪い、あるいは己が命を捨てる因果な生き物じゃ。だが女子は、子を生み、育て、命を繋いでいくことができる。これは女子にしかできぬ立派な仕事ぞ。香蓮、そうは思わぬか?」
「……」
「そなたには、一日も早く、良い良人を見つけてもらいたい。そうでなければ、この孔明、趙将軍に申し訳がたたぬ」
赤児をあやすようにやさしく諭されて、香蓮は、喉元でこらえていた感情をどっと双眸にあふれさせた。
「でも、でも、香蓮は……、先生のお側を、離れとうございませんっ!」
絞り出すような嗚咽が漏れた。次の瞬間、孔明は、己が胸に飛び込んできた香蓮の身体を、反射的に抱きとめていた。
その身は天女のように軽く、薄絹に包まれた細腰は、このまま折れてしまうのではないかと思われるほど嬌やかだった。さらに、白磁のようなその肌からは、朝露を含んだ蓮の花のごとき甘やかな香りが立ちのぼってくる。
それは、孔明がこれまでに見たことのない、香蓮の、成熟した女性の顔であった。
(ああ。そうであったか!)
このとき初めて孔明は、香蓮の秘めたる情熱に気づいたのである。
(これほど側にいながら、そなたの思いに気づかなかったとは……不覚であった)
幼い日から、実の我が子のように慈しみ育ててきた娘。親子以上に、親しく近しい存在だった。ともに過ごした日々が走馬灯のように思い起こされて、孔明はしばし言葉を失った。
今、大輪の花のごとく美しく成長した娘は、父親としてではなく、ひとりの男として自分を求めている――。
だが、その思いに応えてやることはできなかった。
「香蓮、許せ――。私には、そなたの望みをかなえてやることはできぬ」
「……」
孔明はそっと香蓮の腕をほどくと、身を離した。
香蓮は、打ち捨てられた花のようにその場にくずおれ、声を咬み殺して忍び泣いた。
「ついてまいってはならぬ。よいな!」
断固としていい放ちながら、逃れるように部屋の外に出ると、澄みわたった夜空には、満天の星が凍てついた光を放っている。
扉の内に、香蓮のすすり泣く声は、いつまでも止まなかった。


時、建興六年(228)冬十一月。
その日、空には鉛色の厚い雲がたれこめ、ときおり北風に乗って粉雪が舞った。
凍りついた大地の上には、無数の戈戟と旌旗、蜀紅旗が、野を覆ってひしめいている。
諸葛孔明は、北の空に向かって凜としたまなざしをあげた。
「――いざ、征かん!」
出師の大旗と諸葛の大将旗を押し立て、蜀軍は陸続として秦嶺の嶮を越えてゆく。
同じ頃、街道から遠く離れた小高い丘の上に馬を立て、軍勢の行方をじっと見守る孤独な姿があった。
香蓮である。
中軍とおぼしきあたりに、あざやかにひらめく諸葛の旗を認めて、香蓮は思わず馬上で手を合わせた。
(このわたくしの命にかえても、どうか、孔明さまのお命をお守りください……!)
旗は、小さく遠くなり、やがて野の果てに消えて見えなくなった。それでも香蓮は、彼方に横たわる秦嶺の山並みに目をこらし続けた。
そのとき、天上にたれこめていた雲が雪の重さに耐えきれなくなったのか、一面に白い雪片を降らせ始めた。とたんに、あたりの景色は白い紗幕に閉ざされ、秦嶺の山並みも蜀軍の旌旗の群れも、吹雪の中にかき消えてしまった。
香蓮の双眸に泪がわきあがり、幾筋も頬を濡らした。狂ったように舞う風花が濡れた頬をたたき、心の芯まで凍らせるようだ。耐えきれずに閉じた目蓋の裏に、あざやかに浮かんだ孔明の面影を、香蓮は、胸の中でしっかりと抱き締めた。
ひとり馬上に慟哭する人影を押し包んで、天地はただ、霏々として降る雪であった。


<後出師表 了>



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