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後 出 師 表 (1) 




趙雲の娘である香蓮は、故あって蜀漢の丞相 諸葛亮孔明の養女として育てられた。
最初の北伐が失敗に終わった後、漢中に撤退した孔明のもとを訪れた香蓮は、そこで魏から降ったという姜維伯約に出会う。
最初はぎごちない二人だったが、次第に心を通わせていく。
秋が深まる頃、孔明は着々と次の北伐の準備を整えていた。




九月に入り、諸葛邸のひとの出入りがにわかに激しくなった。
各地に放ってある細作からの知らせが入るかと思えば、孔明の下知を受けてまた各地に散っていく。成都との往来も、今までにまして繁くなった。
それらの応対の多くは、人知れず秘やかに行われたのだが、その合間を縫って、孔明はあいかわらず軍の調練と兵糧輸送の工夫に余念がない。
「香蓮、元気そうだな」
秋晴れの午後、邸内の薬草園で葉を摘んでいた香蓮は、自分を呼ぶ声に振り返った。生け垣の上に、人なつっこい笑顔がのぞいている。
「お師匠さまっ! お師匠さまじゃありませんか」
手に持った籠を取り落としそうになりながら、彼女は垣の外の男に駆け寄った。
がっちりと骨太な体つきが、いかにも旅を生業にしている男らしい。日焼けした顔は義侠心にあふれて逞しく、そのくせどこか愛嬌がある。香蓮がかつて身を寄せていた旅芸人一座の座長、陳涛だった。
「臥龍先生(孔明のこと)に用があってな。ついでにお前のことが気になったので、のぞいてみたというわけだ」
ふたり並んで腰をおろしてから、香蓮はあらためて旧来の恩義を謝した。
「先日、成都の奥方さまのところへ立ち寄ったのだが、そなたは漢中に行ったきり、いつ帰ってくるか分からぬという。奥方さまはたいそう心配しておられたぞ」
「喬兄さまのお世話がしたくてこちらに参ったのです。兄さまが亡くなられて、本当は成都に帰らなければならないのですけれど……」
「臥龍先生のことが心配か?」
「あ。それは――」
香蓮の頬に朱が差すのを見て、陳涛は苦笑した。女心の複雑さは、凄腕の細作である陳涛にも分からない。
孔明と陳涛は、かつて孔明が荊州に閑居していたときからの友人であり、やがて孔明が劉備に仕えるようになってからは、ずっとその耳目(隠密)として働いていた。陳涛の下には数多くの部下がおり、また同じ旅芸人仲間の繋がりもある。そこから入ってくる情報は、彼の手によって細大もらさず孔明のもとに伝えられた。
「お師匠さま自ら先生のもとにこられたのは、なにか重大なお話なのですね?」
「いろいろと魏と呉の国境が騒がしくなってきたのでな。それに、久しぶりに臥龍先生と酒を飲みたくなったのじゃ」
何げない顔の陳涛だったが、おそらくもっと火急の事態なのであろうと香蓮には思われた。


香蓮の推察どおり、陳涛のもたらした情報は、孔明にとっては天祐ともいうべき朗報だった。孔明と姜維を前にして、彼は声を弾ませた。
「曹休が死にましたぞ!」
「まことか?」
「まちがいはござらぬ。石亭で呉の陸遜に大敗して魏都洛陽へ逃げ帰って以来、病に臥せっており申したが、ついに身罷りました由――」
今こそ、捲土重来の好期である。だが、孔明は慎重だった。
「陳兄、ご苦労だが、すぐに魏へ向かってもらいたい」
「司馬懿、でございますな?」
打てば響くように、陳涛は応えた。
今、司馬懿は、荊州方面の軍事司令官として宛城にいる。曹休が死んだとなれば、その後をうけた司馬懿は、呉への備えに忙殺されているにちがいない。
「魏の諸将の中で、私が最も恐れるのは司馬仲達である。今ならば、司馬懿は東に手をとられてすぐには動けまい。しかしひとたび軍を動かすとなれば、国力を総動員しての大事業ゆえ、もっと確実な情報がほしいのじゃ。陳兄に、その目で確かめてきてもらいたい。先の北伐の二の舞いは許されぬからな」
「承知つかまつりました」
軽く頭を下げた陳涛は、ふと感慨深げな目をあげた。
「司馬懿といえば、先の戦のおりは迅速でございましたな」
「ふむ。上庸の孟達を討ったのも神速、街亭を奪った采配もまた神速。まったく私の完敗であった」
孔明の澄んだ双眸に暗い影が差すのを、姜維は見逃さなかった。街亭の敗戦を語るとき、孔明はいつも必要以上に自分を貶めるのだ。
「お言葉ですが、街亭を奪われたは馬謖参軍の罪でありましょう。先生の命に背いて山上に陣を構えたゆえ、水を断たれ――」
訳のわからぬ苛立たしさから、姜維は思わず声をあげた。師を弁護しようとしたその反論に、しかし孔明は断固として言った。
「伯約よ、それは違う。馬謖を街亭守備の先鋒に任じたはこの私だ。馬謖を信じたのも、司馬懿を侮ったのも、すべての責任はこの孔明にある」
「……」
「街亭は、また取り戻すことができる。いつの日か、司馬懿を討ち滅ぼすこともできよう。だが、馬謖は……。死んだ者は、再び戻っては来ぬ」
あとは声にならなかった。滂沱の泪が孔明の頬をしたたり落ちた。孔明のそんな姿を目のあたりにして、姜維はいいしれぬ胸苦しさを感じていた。
それほどまでに――。それほどまでに、この方は馬謖を愛しておられたのか。
孔明にそこまで嘱望され、期待されながら、その思いを踏みにじった男。生涯を賭した師の夢を、一朝にして瓦解させてしまった男。
その男のために、孔明は泣いているのだ。
(これは嫉妬か……)
漢(おとこ)として恥ずべき感情だ、と姜維は思った。思ったが、胸の奥底から湧き上がってくるような息苦しさを、どうしても打ち消すことができなかった。


陳涛が席を辞したのに合わせて、孔明のもとを退出した姜維は、奥庭の泉水のほとりでふと足を止めた。
水面から立ち上った靄があたりを覆い、月影をおぼろなものにしている。その光景は、初めて孔明と対面した日の記憶を思い起こさせた。
あれから幾年経ったか――。
胸にうずまく暗い感情は、未だ自分を捉えて離さない。それを振り切るように歩き出した彼の前に、突然、あでやかな笑顔が咲いた。
「――香蓮どの!」
「どうかなさいました? 伯約さま、お顔が怖いですよ」
「ああ、いや……。まいったな」
ため息をつき、苦笑しながらも、どこかほっとした顔に戻った姜維を、香蓮は泉水の上の亭へといざなった。
「ここなら誰にも聞かれる心配はないわ。何を怒っていらしたの?」
「まったく、香蓮どのには下手な言い逃れもできぬ」
馬謖に対する複雑な感情。自分自身にも説明できない焦燥を持て余しているのだ、と姜維は打ち明けた。
正直に己の気持ちを語る彼の言葉を、香蓮は生真面目な顔で聞いていた。男と女の立場の違いはあっても、姜維の思いは身にしみて分かる。その焦りも、苛立ちも、訳のわからない悲しみも、身に覚えのあるものだったから。
「伯約さまは、本当に孔明先生がお好きなんですね」
「香蓮どのに言われたくはないな」
「まあ――」
本当に、と香蓮は忍び笑いをもらした。
どうして二人とも、こんなに孔明のことが好きなのだろう。この世界の何よりも、かのひとが大切なのだ。かのひとの夢、かのひとの願い、それを叶えるためなら、どんなことでもしよう。己の命さえ惜しくはない。
嫉妬も焦燥も、孔明に対する思慕の深さゆえ。
香蓮は、我知らず熱いまなざしで姜維を見つめた。
同じ思いに胸を焦がす人が、側にいる。ただそれだけのことが、うれしくて。


香蓮と別れ、自室に戻った姜維は、やっとの思いで自分を捉えている暗い感情から立ち上がった。
「――俺は、馬謖にはならない!」
誰に言うともなく呟いた声は、低くかすかであったが、強い意志の響きを秘めていた。姜維には彼なりの、自負と信念がある。この日孔明の泪を見て、その信念は一層鉄石のものとなった。
(俺はけっして、師の信頼を裏切るようなことはせぬ。一日も早く実力を身につけ、孔明先生の期待に応えられる将にならねば……)
――そのためには、志を高く持つことだ。私の志は師とともにある。常に天下万民のためにあるのだ!
姜維はもう一度、唇をかみしめた。
次の日の朝早く、香蓮と姜維は、魏へ発とうとしている陳涛を城外十里まで送った。
「どうぞ、お気をつけて――」
「臥龍先生には、十日で戻るとお伝えください。では、おさらば!」
陳涛を乗せた馬は、土煙だけを残して瞬く間に疎林の彼方に見えなくなった。
眸を上げれば、朝もやの中に、定軍山がなだらかな稜線を見せている。足元の秋草はしとどの露にぬれて、漢中の秋はたけなわであった。

◇◇◇

出立の際に告げたごとく、陳涛は十日で南鄭城に戻ってきた。
孔明がにらんだとおり、司馬懿は未だ宛城にあって、呉の陸遜に備えるべく軍備に忙殺されていた。当分動く気配はないという。
好機である。
「やはり、陳倉か――」
孔明は独りごちて、陳涛の顔に視線をあてた。かねてから今回の遠征は、斜谷道を通って散関から陳倉に出ると決めている。
「しかし魏のほうでも、陳倉城の守りを固めておりまするぞ」
「もとより予想しておったこと。守将は誰か?」
「守備兵は千人あまりの小勢ながら、その指揮をとるは音に聞こえた豪将、雑覇将軍カク昭にござる」
魏の大司馬曹真は、祁山進出に失敗した孔明が次は必ず陳倉に出ると予想して、名将カク昭をその守備に配していた。カク昭は城壁を補強し、厳重な警戒態勢をひいて蜀の進攻に備えているという。
「カク昭を曹真に推挙したのは、司馬懿だそうで」
孔明は、やれやれという顔でため息をついた。
「司馬懿の折り紙付きでは、調略はきかぬか。ならば、力攻めしかあるまい」
一口に城壁を補強するといっても、そうそう簡単なことではない。資材も人手もかかるのだ。力で攻めるならば、敵が守りを固めきってしまう前に叩いたほうが有利であろう。
孔明は、来春に予定していた出兵を年内に繰り上げることを決めた。
「陳兄、ご苦労だった」
「いよいよご出陣なされまするか」
「斜谷道は難路ゆえ、すぐにも前軍を派遣して道を補修せねばならぬ。さっそく準備にかからねば。成都の陛下にも、一日も早くお許しを頂きに参ろう」


その夜、孔明は斎戒沐浴して、皇帝劉禅に奉る表をしたためた。
『先帝(劉備)、漢と賊(魏)の両立せず、王業の偏安せざるを慮り、故に臣に託するに賊を討つを以てす。……賊を伐たざれば、王業また亡ぶ。ただ坐して亡ぶるを待つよりは、これを伐つにいずれぞ。……』
先の北伐は、満を持しての出兵であった。街亭の敗北さえなければ、あるいは中原の懐深く攻め入り長安を陥すこともできたかもしれない。
が、すべては水泡に帰してしまった。
(しかし私は、戦い続けるしかないのだ。私の夢を実現し、先帝劉備さまの遺詔にお応えするためにも、魏と戦ってこれを討つ以外に、この蜀の国を保っていく途はない)
『今、民窮して兵疲れ、しかも事は息むべからず。……』
だが、と孔明の中のもうひとつの声が言う。
戦には莫大な費用がかかる。これらの出費や兵役の徴用など、すべての負担は国民に大きな犠牲を強いることになるのだ。
(私の願いは、民草をそのような苦しみから救うことではなかったのか?)
民のため、天下のため――。今まで幾度となく繰り返してきた言葉が、急に色褪せたような気がして、孔明は筆を持つ手を止めた。
脳裏に、先の北伐で戦死した将士たちの顔が浮かんでは消えた。さらには馬謖、馬良、張飛、関羽、ホウ統など、今は亡き懐かしい同僚たち。そして、自分が生涯の主と定めた先帝劉備玄徳。今もありありと思い出す、白帝城での最期の別れ。
あの時、瀕死の劉備が自分に託したものは何だったか。
ひとり劉禅という遺児ではない。蜀漢という一国家の行く末でもない。それは、ひとつの灯火だったように思う。劉備軍団の軌跡をたどり見るとき、そこには常に、消えることなくあかあかと燃え続ける灯火があった。
夢、あるいは希望――と呼んでもよいかもしれない。
戦乱の世に、理想の国家を夢見て戦い抜いた男たちが掲げた灯火。その灯は、いつの日か中原を照らし、天下万民の幸せを照らす明かりとならねばならぬ。それを守るために自分たちは戦ってきた。多くの命が散っていったのだ。
「そうだ、この灯を消してはならぬ。どんなことがあっても!」
独語して、その瞬間孔明は、自分の中で何かがふっきれるのを感じた。
やはり自分は、死ぬまで戦いをやめることはできない。それは、己の義を貫くための戦いなのだ。
『……臣、鞠躬尽力し、死して後已まん。成敗・利鈍に至りては、臣の明の能く逆覩する所にあらざるなり』
そう表を結んだ後、読み返してみて、孔明は愕然となった。
そこには蜀のおかれている現状の厳しさ、さらには峻厳たる出師の覚悟が縷々綴られていたが、なぜかその文面からは、覆い隠せぬ悲しみばかりがあふれているように思われたからである。
出師に際して人心を鼓舞するための表にしては、あまりにも悲愴にすぎる。これではかえって、劉禅にも不安を抱かせるだろう。廷臣の中には、魏討伐を無用の戦として出兵に反対している者もいるのだ。
(これは、公表すべきではない)
彼は、書き上げた表の草稿を棚の上にしまうと、帳を払って起ち上がった。
どこかで夜明けを告げる鷄鳴が響いていた。窓の外に目をやれば、すでに東の空は白々と明るい。
季節は、はや晩秋であった。


<後出師表(2)に続く>



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