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静 夜 




私の名前は香蓮。
孤児(みなしご)だった私は、故あって蜀漢の丞相である諸葛亮孔明さまに養われ、成都で孔明さまのご家族と一緒に暮らしていました。
最初の北伐が失敗に終わった後、漢中に撤退した孔明さまのもとを訪れた私は、そこで魏から降ったという姜維伯約さまと出会います。
そして、孔明さまのご養子であり、私と実の兄妹のように育った喬兄さまは、重い病の床に臥せっておられたのですが……。




諸葛喬が死んだ。
漢中に引き上げてから急に体調を崩したかれは、三月余りの闘病の後、あっけなく逝ってしまった。
香蓮が漢中に出向いてから一月半もたたぬうちに、諸葛喬伯松は帰らぬ人となったのだった。


喬の死から四日後。深更――。
南鄭城の中にある諸葛亮孔明の屋敷は、重苦しい空気に包まれて、ひっそりと静まり返っていた。
もう冬の訪れが近い。盆地である漢中の夜は、しんしんと冷えた。
(兄さま……)
香蓮は、眠れずにいた。身体は綿のように疲れていたが、目が冴えきっている。気持ちが高ぶっているせいだろう。
喬の容態が急変してからというもの、夜を徹して看病し、最期を看取り、葬儀の手配、弔問客の対応と、嵐のような数日間だった。
ようやく時間が空いた。同時に、どっと悲しみが押し寄せてきて、香蓮は何度も声を殺して泣いた。
ひとり静寂の中にいると、喬と過ごした日々の記憶が次々と思い出されて、眠るどころではない。
居ても立ってもいられなくなり、そっと部屋を抜け出した香蓮は、奥庭の一隅、月明かりの下に立つ人影を認めて足を止めた。
青く冴えた月光に照らされ、彫像のように立ち尽くしているのは、香蓮と喬の義父である孔明そのひとだった。


「お風邪を召しますよ?」
ふいに目の前に現れた香蓮に、孔明はひどく驚いた様子だったが、ふっと深いため息をつくと、慈愛にあふれたまなざしをじっと香蓮に注いだ。
「眠れぬのか」
「はい――。孔明先生も?」
「やはり無理をさせすぎたのであろうか。弱音を吐かぬ子であったゆえ、私がもっと気をつけてやっておればよかった」
「………」
孔明の口から喬の話を聞かされると、こらえていた涙が、またあふれてきてしまう。
「もう少し早くあれの病に気付いておれば、戦になど連れていかなかったものを。私があれの命を縮めたのかもしれぬ」
「いいえ。たとえ出師の前に病であることがわかっていたとしても、兄さまは決して成都に残ることを承知なさらなかったでしょう。そういう方でしたわ」
「そうだな。今となっては、何を言っても気休めにすぎぬが……」
孔明の頬が青ざめて見えるのは、決して月光のせいばかりではあるまい。
喬の人柄を誰よりも愛し、その将来に大きな期待を寄せていたのは、ほかならぬ義父 孔明であった。


「私は明後日、喬の遺骸とともに成都に発つ。とにかく陛下にご報告せねばならぬ。呉の兄上(諸葛瑾/喬の実父)からも弔問が来るであろうし」
諸葛喬は、主君である劉禅の妹を娶っていた。名実ともに諸葛家の跡継ぎとして、その地歩を固めていたのだ。
「そなたも一緒に参るか?」
「いいえ。……私はここで、孔明先生がお帰りになるのを待っています」
諸葛喬が死んだ今となっては、香蓮が漢中にいなければならない理由もない。孔明とともに成都へ向かえば、おそらく再びここへ戻ってくることはないだろう。
できることなら、もうしばらく、孔明の側にいたかった。
「奥さまの悲しまれるお顔を見るのが辛いのです。父(趙雲のこと)も漢中におりますし、もしお許しいただけるなら、もう少しこちらに置いていただけませんか」
香蓮の嘆願をじっと聞いていた孔明は、やがて静かにうなずいた。
「そうか。では伯約とともに、留守を守っていてくれ」
「ありがとうございます」
香蓮は、ほっと安堵の息をつき、小さく頭を下げた。
「伯約さまは、成都へは行かれぬのですか?」
「うむ。陛下にお目通りするよい機会ゆえ、私は連れて行きたかったのだが」
漢中の守りを疎かにするわけにはいかないという理由で、姜維は孔明の誘いを断ったのだという。
「確かに、伯約が残ってくれれば、私も安心してここを空けられるというものだ。石亭での戦以来、魏と呉の国境が騒がしい。いつ何が起こるか分からぬ状況だからな」


先に、魏討伐の兵を挙げるにあたって、孔明は、同盟国である呉でもなんらかの軍事行動を起こしてくれることを期待し、そのための工作に力を傾注した。蜀と呉、ふたつの国が力を合わせなければ太刀打ちできぬほどに、魏は強大だったのだ。
その甲斐あって、この年五月、呉は魏領に侵攻した。そして八月には、石亭において魏軍を散々に打ち破る大勝利をおさめた。
春に街亭で大敗を喫した蜀にしてみれば、呉の動きは、いかにも遅きに失した感は否めなかったが、おかげで関中方面の守りが手薄になっていた。
一度撤退した蜀軍が再び攻めてくるにしても、まだまだ先のことであろう――。
魏には、そんな油断があったのかもしれない。
孔明も好機到来とみていたのであるが、ただひとつ、気掛かりな点があった。
「気掛かりなこと、ですか?」
「伯約はすぐに言い当てたぞ」
「まあ! 先生の意地悪。どうせ私には、難しいことは分かりませんよーだ」
「これこれ、若い女子がそんなにふてくされるでない」
相変わらずの子どもっぽい仕草がおかしかったのか、孔明は思わず苦笑した。
「私が恐れているのは、司馬懿仲達」
「司馬懿?」
魏の文帝曹丕の死に際して、世嗣曹叡を輔佐するようにとの遺詔を受けたのは、曹真、陳羣、司馬懿の三人であるが、孔明が、その中で最も油断できない人物とみていたのは、司馬懿だった。
今、司馬懿は、荊州方面の軍事司令官として宛城にいる。
「我が軍に動きがあれば、すぐにも司馬懿が出てくるだろう。宛城ならば漢中にも近い。何とかこれを抑える手立てを考えているのだが、なかなかよい策が浮かばぬ。このような時期にここを離れるのは、いかにも不安なのだが、伯約であれば留守を任せられると思うてな」
「先生は、本当に伯約さまのことを信頼しておられますのね」
ほんの少し、胸が痛い。嫉妬――など、幼稚で場違いな感情なのに。
「だが、人を本気で信じることは難しい。あまりに信頼しすぎては、その者にとって重荷にもなる」
「それは、馬謖さまのことですか?」
「………」
沈黙が肯定を意味していた。
「幼常(馬謖の字)が今ここにあって、伯約とともに私を輔けてくれていたなら、と思う」
「そして、喬兄さまも元気でいらっしゃったなら――」
「ああ。そうであれば、どれほど心強かったかしれぬ」

――大切なものが、次々と失われていく。なす術もなく、私はひとり取り残される。深く暗い悲しみの底に……。

夜空を見上げる孔明の双眸に映る虚無の色が、香蓮の心を訳もなくざわめかせる。
このまま、孔明の存在自体が虚無の中に呑み込まれてしまうのではないか。そんな不吉な予感に捉われて、彼女は小さく肩を震わせた。
(何とか孔明さまのお力になりたい。たとえ、この命に代えてでも!)
香蓮は、眼前に立つ孤高の人の姿を、ひたと見つめた。潤んだ眸子に、ひたむきな熱をたたえて。
この燃えるような思いがどこからくるのかということは、彼女自身にもはっきりとは分からなかったけれど。

◇◇◇

孔明が成都へ出立した日の夜。
諸葛邸の留守を預かる姜維は、私室で、香蓮とともに遅い夕食を取っていた。
ここ数日、姜維は、関中へ向かう経路の修正を詳細に地図の上に落とす、という作業に没頭している。桟道の壊れている場所。兵を伏せられそうな地形。細かな間道。耳目からの報告は刻々と寄せられていたが、情報はいくらあっても十分ということはない。
遠征にあたって、兵站線の確保は最も重要な課題である。孔明が帰還するまでに、何とか実用性のあるものに仕上げておきたかった。
寝食を忘れて地図に向かっている姜維を気遣って、香蓮は温かい夜食を用意して、かれの部屋を訪ねたのだった。


「以前、伯松どのが私に話してくださったことがあります」
二人でいると、話はいつしか諸葛喬のことになる。
「香蓮どのは男に引けを取らぬ槍の使い手、自分など足元にも及ばないだろう、さすがに血は争えぬと。もしかしたら、戦をさせても自分より上手いかもしれぬともおっしゃっていました」
「まあ、兄さまったら。私を何だと思ってらっしゃったのかしら」
香蓮はくすりと笑い、そして、笑いながら涙ぐんだ。
喬との思い出は、楽しいことばかりだった。
「兄さまは、自分が元気になったら、三人で槍の鍛錬をしたいものだと言ってらしたの」
「ああ、本当にそうしたかったなあ。もっといろいろなことを教えていただきたかった」
――あまり話す機会もなかったが、と姜維は遠い目をした。
「伯松どのは、漢中にいる蜀軍将士の中で、唯一私のことを理解してくださっていた方でした」
静かに語る姜維の横顔を見つめながら、香蓮は、初めて漢中へ来た日に喬から聞かされた言葉を思い出していた。

――姜維どのは、ここ漢中で、心を許せる相手が一人もいないのだよ。

あの時は何気なく聞き流していたが、今思えば、それは喬自身のつぶやきではなかったか。
「それはきっと、伯約さまの立場が兄さまと似ていたからではないかしら」
「そうなのですか」
「兄さまは、少しもそんな素振りは見せなかったけれど」
諸葛喬は、孔明の跡継ぎとして将来を嘱望されてはいたが、実の親は呉の孫権に仕える諸葛瑾である。喬の二つの祖国である蜀漢と呉は、今でこそ同盟国として良好な関係を築いているが、かつては干戈を交えたこともあったのだ。
かれが、そんな微妙な境遇からくる疎外感や居心地の悪さを、人知れず抱いていたとしても不思議ではない。
(自分の弱さや辛さを、決して他人には見せない兄さまだった。いつも一人で抱え込んで――)
熱いものがこみ上げてくる。逝ってしまった人へ、哀惜の涙が止まらない。
香蓮は、姜維が側にいることも忘れてすすり泣いた。
「香蓮どの。大丈夫?」
「ごめんなさい、私……」
ようやく涙をふいた香蓮は、思慮深いまなざしでじっと姜維を見つめた。
「伯約さま。兄さまのために、笛を吹いてくださいませんか」
「笛を?」
「はい。ぜひ、兄さまにも伯約さまの笛の音を聞かせてあげたいの」
「………」
姜維は、黙ってうなずくと懐から笛を取り出し、歌口に唇を付けた。
たちまち、澄んだ音色が湧きあがったかと思うと、嫋々たる音は風に乗り、訣別の情は天を翔けて哭いた。
静寂な夜気の中へ吸い込まれていくような笛の音に身をゆだね、香蓮の涙はいつまでも止まらなかった。


やがて、笛を奏し終わった姜維が、ぽつりとつぶやいた。
「あなたは成都へは帰らないのですか?」
「帰ってほしかったの?」
「いいえ。伯松どのが亡くなられて、あなたも成都へ帰ってしまわれるのかと思っていました。ここに残られると聞いたときは、うれしかった」
姜維の口から思いがけない言葉を聞かされ、にわかに香蓮の心は泡立った。
「ほんと?」
「本当です――」
ほのかな灯りに照らされた男の顔を、香蓮は、あらためて食い入るように見つめる。
整った目鼻立ち、強い意志を秘めた口元、何よりも憂いを帯びた暗い眸子。理知的で、真面目で、頼り甲斐があって――。
年頃の女なら、誰でも憧れずにはいられないだろう。
今までこれほど身近にいながら、そんな風に考えたことなどなかった。いつも、すぐ側にいたのに。
(伯約さまの馬鹿。こんなときに、そんなこと言うなんて、反則だわ……)
目の前の姜維が、昨日までのかれとは全く違う人物に見える。香蓮は一人赤くなり、そんな自分を悟られないようにするのに四苦八苦していた。

こうして、風もなく穏やかな漢中の夜は、静かに更けてゆく。


<静 夜  了>



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