いにしえ・夢語りHOMEへ 言の葉つづり目次へ


芽生え (1)




私の名前は香蓮。
孤児(みなしご)だった私は、故あって蜀漢の丞相である諸葛亮孔明さまに養われ、成都で孔明さまのご家族と一緒に暮らしていました。
最初の北伐が失敗に終わった後、漢中に撤退した孔明さまのもとを訪れた私は、そこで魏から降ったという姜維伯約さまと出会います。
孔明さまが「自分の後継者に」とまでおっしゃった俊才だということでしたが、最初の印象が悪かった私は、どうしても伯約さまのことを好きにはなれませんでした。


その日から、香蓮は姜維と同じように諸葛邸に住んで、かいがいしく孔明や喬、姜維らの身の廻りの世話に勤めた。
寝食をともにし、身近に接してみると、姜維が決して最初の印象のように、意地悪な男でも粗野な男でもないことが分かってきた。
かれは、誰に対しても礼儀正しく、真摯な態度を崩さなかったし、決して人前で感情的になることもない。そんな姜維の静謐さは、香蓮の目には、少々冷淡に過ぎると見えなくもなかったのだが。
もっとも、姜維の今の立場を考えれば、そうすることが一番いい身の処し方だったろう。目立たず、でしゃばらず、ただ孔明の意を解し、その企図するとおりに動いていれば、余計なやっかみや猜疑を受けることもないからだ。
己はあくまでも黒子に徹し、すべてはただ孔明のために。それが、漢中における姜維の全てだった。
(他の方は皆、どんな些細なことでも、自分の手柄や功績にしようとこだわるものなのに。姜維さまときたら、自分のことなどおかまいなしで、ひたすら孔明さまのためだけに心血を注いでいる。この方は、それでいいの?)
特に打ち解けて親しく言葉を交わすようなこともなかったが、香蓮は、いつも不思議な思いで、この寡黙な男の立ち居振る舞いを見つめていた。

◇◇◇

秋が深まるにつれ、南鄭の城下では、目に見えて人や物資の出入りが激しくなってきた。
孔明の眼は、早くから次の北伐の機会を見据えていたが、いよいよ軍の再編成や調練の見直しなど、実戦に備えた具体的な調整にかかりつつあるのだ。
そして、姜維はといえば、かつて馬謖がそうだったように、片時も孔明の側を離れず、遠征軍の構想を練り上げていた。
ここ数日は、二人とも部屋にこもりきりで、軍備の補充や兵糧運搬の工夫に余念がない。
そんな師弟の傍らにあって、香蓮の漢中での日々は、幾分の緊迫をはらみつつも、静かに過ぎていく。
彼女のただひとつの気掛かりは、喬の病が一向に回復の兆しを見せないことだった。


ある日のこと、香蓮は、喬の薬草を摘むため、南鄭城から南に広がる丘陵地帯を歩いていた。
そこは、以前漢中に来たとき、初めて姜維と出会った場所に近かった。
丞相府に出入りしている商人から聞いてきたのだが、なにしろ慣れない山道である。知らぬ間に、かなり奥深い所まで入り込んでいたのだろう。気がつくと、すっかり帰る道を見失ってしまっていた。
(ああ、どうしよう――。もうすぐ日が暮れてしまう)
目当ての薬草は見つからぬまま、いたずらに歩き回ったせいで、足が鉛のように重い。途方に暮れた香蓮は、泣きそうな思いで、その場に座り込んでしまった。
その時。彼女の耳に、聞き覚えのある笛の音が聞こえてきた。それはまぎれもなく、姜維と別れた帰途、この山道で耳にしたものだった。
「この笛の音は……姜維さま! 今日も、ここに来ていらしたんだわ」
遠くから切れ切れに流れてくる笛の音をたよりに、香蓮は、その方向をめがけて夢中で駆けた。
ようやく、いつぞやの淵の場所まで来て、そこに姜維の姿を見出した時、彼女は不覚にも泣き出してしまった。
「……姜維さま!」
「え? ええっ? 香蓮どの? こんなところで、いったいどうしたのです?」
森の中から突然現れた香蓮に抱きつかれて、さすがの姜維も狼狽したらしい。
「よかった……。私、喬兄さまの薬草を摘みに来て、道に迷ってしまって。怖くて、寂しくて……このまま日が暮れてしまったらどうしようかと」
安堵感が一気に押し寄せてきて、香蓮は人目もはばからず、男にすがって泣きじゃくった。
「そうしたら、あなたの笛の音が聞こえてきて……。もう、夢中でここまで走ってきたの」
そこまで言って、ようやく香蓮は、自分が姜維の胸にしがみついていることに気づいた。
「ご、ごめんなさい!」
恥ずかしそうに身を離そうとする香蓮に、姜維は、この男にはめずらしく、いとおしむようなまなざしを向けた。初めて見る香蓮の女らしい姿に、かれは少なからず驚いていた。
「ここで出会うあなたには、いつも驚かされる。私がここへ来たのは久しぶりのことですよ。偶然とはいえ、香蓮どのは運がよかった。ともかく、何事もなくて、本当によかったですね」
思いがけない口調の温かさ。意外な思いにうたれて、香蓮はまじまじと男の顔を見つめ返した。
この人は、こんなに優しい目をする人だったのか――。
初めて、その眸子の中に、血の通った姜維の素顔を見たような気がした。


「それでは早く戻りましょう。きっと丞相が心配しておられますよ」
香蓮が落ち着くのを待って、姜維は彼女をうながした。
西の空が、淡い茜色に染まっている。できれば、陽が落ちきる前に、山を出てしまいたかった。
(問題は、馬が一頭しかいないということだ――)
考えてみたが、もとより答えはひとつしかない。
「香蓮どの、私のような者と相乗りでも、よろしいですか?」
「え?」
律儀に断ってから、姜維はまず自分が馬上の人となり、続いて香蓮に向かって腕を伸ばした。一瞬ためらったものの、次の瞬間、香蓮の体は、男の胸に軽々と抱き上げられていた。
「少々狭いが我慢してください。ご無礼の段、お許しを」
華奢な体を右腕で抱き取るようにして自分の前に乗せると、左手に槍を提げたまま、姜維は器用に手綱をさばいた。ほとんど太股だけで馬を操っていく。姜維の馬術の見事さに、香蓮は目を見張った。
姜維には羌族の血が流れているらしい、と以前喬から聞いたことがある。辺境の遊牧民たちは、生まれた時から馬上で生活し、馬を我が身同様に操ることができるのだという。
――この方がどこか異質なのは、そのせいかもしれない、と香蓮は頭の隅でぼんやりと考えていた。
秋の日暮れは思った以上に早い。
すでに暗くなりかけた山道を、姜維は、なるべく急ぎ足で降っていった。周りの景色が飛び去るようだ。
「しっかりと私の背中に腕を回していてください。揺れますので」
「はい」
言われたとおり、香蓮は男の背中に回した腕に力を込めた。
肩、背中、脇腹……。衣服を通して、たくましい筋肉の隆起と躍動が伝わってくる。
(喬兄さまとさえ、こんな近くに相手の身体を感じたことはなかったわ――)
最初の恥ずかしさと苦しいほどの胸の高鳴りは、いつの間にか大きな安堵感へと変わっていた。
晩秋の風は冷たかったが、身体の触れ合ったところから互いの温みがしみ込んでくるようで、いつしか香蓮は目を閉じて、その心地よさに身をゆだねた。


「姜維さまは、いつもあの場所で笛を奏していらっしゃるの?」
男の胸にぴったりと頬を寄せたまま、香蓮がささやくように問いかけた。
はは……、と姜維は破顔する。
「笛ばかり吹いているわけではありませんよ。時間が空けば、いつもあの近くで槍の鍛錬をしているのです。稽古の後、あそこで馬に水を飲ませ、私は汗を流してから、笛を吹く」
姜維は懐に忍ばせた笛をさぐると、香蓮に示した。
「この笛は、死んだ妻の形見です。あの曲は、春英がいつも吹いていたものだった……。春英は、冀城では知られた笛の名手で、私も妻に手ほどきを受けたのです」
「まあ、奥さまの……」
何気なく顔を上げた香蓮は、姜維の表情がこわばったことに気づいた。
あまりふれたくない思い出だったのかもしれない。
姜維の長い沈黙に息苦しくなった香蓮は、そっと男の背中に回した手のひらを握りしめた。
「ごめんなさい。辛いことを思い出させてしまって」
「いいえ、あなたが謝ることはありません。悪いのは私の方だ」
「姜維さま?」
姜維の切れ長の眸子に、暗い翳が落ちる。
「私は女々しい男です。妻のことも、母のことも、忘れたつもりでした。過去は捨てたと、自分に言い聞かせてきました。だが、未だにこうして妻のことを忘れられずにいる――」
姜維の胸が、しんとした。
香蓮はそれ以上はしゃべらず、黙って男の身体に重心を預けた。
こうしていると、姜維の心の奥底の悲しみが、肌を通して流れ込んでくるようだ。
(――寂しい人。きっと、私など想像もできないほどの、辛い思いを抱いてこられたんだわ)
昨日までは。
近くにいても、心は遠かった。
今は――。
二人を隔てていた垣根が少しだけ低くなり、姜維の思いに寄り添うことができるような気がするのだった。

◇◇◇

翌早朝。
朝靄にかすむ練武場の中央に、いつものように一人、槍の鍛錬に汗を流す姜維の姿があった。
そして、遠くからじっとその様子を眺めているのは、香蓮だ。
昨日の礼を述べようと待っているのだが、なかなか声をかけるきっかけが掴めない。しかたなく、もうずいぶん長いこと、黙って姜維の鍛錬を見守っていた。
そんなこととは知らない姜維は、一心に槍を振るい続ける。
まるで舞いでも舞っているかのような流麗な動き。だが、その身ごなしには一分の隙もない。
ぴんと張り詰めた静かな気合いが、朝の冷たい空気を通して、見ている香蓮の肌にも痛いほど伝わってくる。
そんな姜維の槍術は、五虎大将の一人 趙雲を彷彿とさせた。
(父上に似てる。槍さばきも、身のこなしも、全身から発する闘気までもが、父上と同じだわ)
趙雲は、香蓮の実の父親である。
訳あって、生まれてからずっと離れて暮らし、今もなお父子の名乗りさえできない二人だった。
それでも、香蓮が趙雲の子だと分かり、彼女が諸葛家に引き取られてからは、趙雲が自ら槍術を仕込んだ。彼女の槍は、父親譲りなのだ。
そんな香蓮から見ても、姜維の槍は、惚れ惚れするほど見事だった。
天水での戦の折、姜維が、蜀軍随一と謳われた趙雲と戦って一歩も引けを取らなかったと聞いた時は、にわかには信じられなかった。だが、こうして実際にその技を目の当たりにすると、さもありなんと納得させられる。


姜維の華麗な演武を見守るうちに、香蓮は手合わせしたくてうずうずしてきた。
趙雲に舌を巻かせたという男に、自分の槍がどこまで通用するか。
また、姜維の槍が、なぜ父のそれとこれほどまでに似ているのか。その答えも知りたい。
思ったときには、すでに声が出ていた。
「姜維さま!」
「―――!」
誰もいないと思っていたところに突然声をかけられ、姜維は驚いて振り向いた。
「香蓮どの。見ていらしたのですか」
姜維は大きく息をつくと、汗止めの鉢巻をはずして額の汗をぬぐった。朝の冷気が、火照った身体に心地よく沁みてくる。
「姜維さまの槍は、趙雲さまにそっくりですね?」
大きな眸子が、じっと姜維の顔を見つめてきた。問いかけの内容が予想もしていなかったものだったため、姜維は答えに詰まった。
「え? ああ、そう。そうかもしれないな。よく見ていらっしゃる」
「どうして? 趙雲さまとお知り合いだったんですか?」
香蓮は、興奮した様子で頬を紅潮させ、たたみ込むように尋ねた。
「いや、将軍と直接稽古をしたり、ご教授いただいたりしたわけではありません。私に槍術を伝授してくださった先生が、趙将軍の師匠でもあった、ということです」
「まあ、そうだったの」
昨日まで他人行儀だった口調が、知らぬ間にくだけ始めていることに、香蓮は自分でも気がつかない。


「私も一度、姜維さまと手合わせしてみたいわ」
続いて出た香蓮の言葉に、姜維は驚いて目を見張った。
「私は趙雲さまから直々に槍を教わったの。ならば、あなたとは同じ流派ということですよね? 趙雲さまと互角に戦ったというあなたと、ぜひ槍を交えてみたいのだけど」
香蓮の真意を測りかねて、黙って立ち尽くしている姜維にかまわず、彼女は、練武場の隅から稽古用の槍を二本持ち出してきた。
「香蓮どの。何を……?」
「女が相手ではお嫌ですか?」
「いや、そういう訳ではありませんが。ただ、あまりに突然のことなので」
姜維が躊躇している間にも、香蓮はさっさと身支度を整えていく。
上着を脱ぎ、飾り帯をほどいてたすき掛けにすると、裳裾の端を手繰り上げて高く結わえた。これで、袖や裾が邪魔になることはない。
手にした槍をニ三度軽くしごくと、彼女は「いざ」とばかりに身構えた。その構えを目にした途端、姜維の顔つきが真剣になった。香蓮の申し出が、決して冗談や酔狂ではないことが分かったのだ。
「本気ですか?」
「もちろん」
姜維も仕方なく、もう一本の槍を手に取る。気は進まないが、このままでは済みそうにないと覚悟を決めたらしい。
練武場の中央へ移動した二人は、あらためて向き合った。
姜維がゆっくりと槍を構える。それに応じるように、香蓮も静かに穂先を相手に向けた。
「姜維さま」
見事な構えを崩さず、香蓮は凛とした声で言った。
「分かっていると思いますけど、私が女だからとか、丞相の養女だからとか、妙な遠慮はしないでくださいね」
「………」
「これでも、趙雲さまから筋がいいと褒められたのよ」
挑むような鋭い視線。
可憐な雰囲気に似合わぬこの気迫は、いったいどこから来るのか。
「分かりました。それでは私も、本気でお相手しましょう」
姜維もまた、静かな闘志をその全身から立ち上らせた。


<芽生え(2)に続く>



いじわるな出会い(1)へ   芽生え(2)へ