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いじわるな出会い (1)



『その方』の名前を初めて聞いたのは、順調に進んでいた最初の北伐が、馬謖さまの失策によって撤退を余儀なくされ、蜀漢の都 成都が深い悲しみに沈んでいる頃でした。
私の名前は香蓮。
孤児(みなしご)だった私は、縁あって蜀漢の丞相である諸葛亮孔明さまに養われ、今も成都で孔明さまのご家族と一緒に暮らしています。


「どんなひとなんでしょうね?」
「誰が?」
「――姜維さま」
柔らかな午後の日差しは、もう季節が秋に移ったことを告げている。
糸を紡ぐつれづれに、香蓮は孔明の妻 桂華に話しかけていた。
「さあ……。香蓮は気になるの?」
「奥さまは心配じゃないんですか? 孔明先生がたいそうお気に召された方なんでしょう? 漢中に戻られてからも、ずっとお側に置いておられるそうじゃありませんか」
いつになくむきになって言い募る香蓮に、桂華は穏やかなまなざしを向けて、
「ほほ……。それが女の方だというんなら、気にもなりますけどね」
と微笑した。
「まあ、奥さまったら」
桂華の揶揄に香蓮は、思わず顔を赤らめた。
会ったこともない男のことが、どうしてこれほど気になるのか、香蓮自身にもよく分からない。
姜維伯約は、元々魏に仕えていたが、孔明が天水を攻略した際に蜀に降った武将である。天水の麒麟児と謳われた姜維の才を愛した孔明は、「我、姜維を得たり」と喜んだという。
(あの孔明さまからそれほどの賛辞を寄せられるなんて、いったいどんな優れた方なのかしら?)
孔明は、漢中へ撤退してから一度も成都へは戻らず、将兵たちとともに漢中に留まり、軍備の調達や兵の訓練に忙しい日々を送っている。
北伐の失敗を、誰よりも悔しい思いで受け止めているのは、他でもない孔明自身だったろう。そして、彼の人の眼(まなこ)はすでに、次の機会を見据えている――。
そんな孔明の傍らに、片時も離れずに侍している姜維伯約という男の存在が、香蓮にはどうにも気にかかって仕方がなかったのだ。


「わたくしは、喬の身体の方が心配よ」
糸車を回す手を止めて、桂華がぽつりとつぶやいた。
「容態が落ち着いたら成都に帰すと、だんなさまはおっしゃってたけれど。あの子の顔を見るまでは安心できないわ」
「喬兄さまったら……きっと無理をしたんですね。それほど体が丈夫じゃないのに」
諸葛喬は、孔明の養子である。
孔明と桂華には、長い間子が生まれなかった。そのため、孔明の兄で呉に仕官している諸葛瑾の次男 喬を養子に迎え、跡継ぎとしたのだ。
皮肉なもので、近年になってようやく桂華が身ごもり、実子の譫が生まれた。それでも孔明夫婦は「諸葛家の跡継ぎは長男の喬である」と喬本人にも周囲にも明言していた。微妙な立場になった喬が、余計な気遣いをせぬようにとの配慮であっただろうが、喬自身どのように感じていたかは分からない。
香蓮は、諸葛家で家族同然に遇されてはいたが、もちろん実際に血が繋がっているわけではない。そのことを、香蓮自身誰よりもよく心得ていたし、決して自分の立場を超えるような差し出た振る舞いはすまいと、常日頃から厳しく自戒していた。
(でも、みなさまが本当によくしてくださるので、時々自分の立場を忘れそうになってしまう……)
特に、同じ屋根の下で兄弟同様に暮らしてきた喬は、香蓮にとって本当の兄といってもいいほどに大切な存在だった。孔明の下で、ともに兵法や経綸の学問を学び、武芸の鍛錬に励んだ日々は、何ものにも代えがたい懐かしい思い出になっている。
その喬にとって、今回の北伐が初めての戦だった。
丞相諸葛孔明の息子という立場にある以上、いずれは一軍の将として戦場に立つことは避けられない道である。それでも、いよいよ初陣が決まった時には、物静かで心優しい喬が、果たして戦で敵を倒せるのだろうかと、桂華も香蓮も余計な心配をしたものだ。

――喬さまには戦は似合いません。几帳面で、まっすぐで、お優しい喬さま。どうぞご無事でご帰還なさいますよう……。

喬が成都を発って以来、毎日毎日、香蓮は天に祈った。
「そなたは真面目すぎて融通がきかぬ」とは孔明から喬への苦言であったが、それは息子に対することさらに厳しい愛の鞭だったにちがいない。喬のその人柄の良さを誰よりも愛したのは、ほかならぬ義父孔明だったのだから。
従軍した喬を、孔明は最前線で敵と戦わせるのではなく、兵糧の輸送などの後方支援にあたらせた。それを聞いて、桂華も香蓮も少しは安心したのだが、漢中に撤退してから、急に体調を崩した喬は、今も病床に伏したままだった。


「奥さま――」
と、さんざん思いをめぐらせた末に、香蓮は口を開いた。
「わたくしを、漢中に行かせてください」
「香蓮?」
「差し出た振る舞いだということは重々分かっています。でも、どうしても、行きたいんです。孔明先生や喬兄さまのことも心配だし……」
「姜維さまのことも気にかかる、かしら?」
「いえ、そんな」
香蓮は思わず身を硬くしてうつむいた。
気にならないといえば嘘になる。会ってみたいという思いもある。けれど今は、何よりも孔明と喬のことで頭が一杯だった。立場を忘れ、桂華を差し置いて出過ぎたことを言ってしまった自分に、香蓮は激しく後悔した。
言葉をなくした彼女に、桂華は優しい笑顔を向けて、
「ここから漢中までの道中を考えたら、私などは気が遠くなってしまうけれど、あなたならきっと大丈夫ね」
にっこりと微笑んだ。
「だんなさまと喬のこと、よろしく頼みましたよ」
「――はい、奥さま」
そう答えるのが精一杯だった。堰を切ったように涙があふれてきて、自分でも訳がわからない。くしゃくしゃになった香蓮の顔を、桂華は両の手のひらで包み込むようにして涙を拭ってくれた。
本当なら、妻である桂華が孔明や喬の側に行くべきなのだろう。桂華自身、どれほど二人の身を案じていたことか。彼女が毎夜、夫や息子の無事を祈って水垢離をしていることを、香蓮は知っている。

――それを、私のわがままを黙って聞いてくださるなんて。

(ありがとうございます――)
香蓮は心の中で、幾度も感謝の言葉を繰り返した。


◇◇◇


成都から漢中へは、大巴山脈の険しい峰々を越えなければならない。道程が厳しいのはもちろんのこと、盗賊などが横行する危険な旅でもあるため、いくら香蓮が男勝りのお転婆娘でも、ひとりでは桂華の許しが出るはずもなかった。
しばらくして、運よく漢中への増援部隊に同行させてもらうことで、ようやく香蓮は、漢中へ向かうことができた。
孔明のいる南鄭へ入る頃には、季節はもう秋の盛りを迎えていた。
(ようやく孔明さまにお会いできるのだわ――)
もう一息で南鄭城へ着く、という所まで来て、香蓮は同行していた部隊と別れた。
「城下まで無事に送り届けなければ。万一のことかあっては、丞相に申し訳がたちません」という部隊長の言葉を振り切って、ひとり別の道を進んだ。
彼女は、水浴びのできそうな場所を探していたのだ。ここまで来れば、という安堵感もある。なによりも、旅塵に汚れた姿のまま孔明の前に立ちたくない、と思った。
しばらく山道をたどっていくと、切り立った山肌から落下する滝が、深い淵を穿っている場所に出た。あたりには、人家はもちろん樵や猟師の小屋すらない。時折、鳥のさえずりが聞こえるだけだ。
淵は、ようやく色づき始めた木々に覆われ、ひっそりと蒼く澄んだ水を湛えている。
香蓮は、思わず水際に駆け寄ると、冷たい清水で乾いたのどを潤し、汗と埃にまみれた顔をざぶざぶと洗った。
「ああ、生き返る……」
もう一度、辺りを見回してみる。人の気配がしないのを確かめると、香蓮は、おもむろに着ている物を脱ぎ捨て、生まれたままの姿で水の中へと入っていった。
谷川の水は思ったよりも冷たい。数日ぶりに水浴びをする心地よさに夢中になっていた香蓮だったが、さすがにしばらく経つと、身体が冷えて感覚がなくなってきた。そろそろあがろうかと考えていた矢先、ふいに馬のいななきが聞こえた。
馬はすぐ近くの木陰にいるらしい。馬蹄の音が近づいてくる。香蓮は、身を隠す場所もなく、水の中で立ちすくんだ。


やがて、馬の轡を引いたひとりの男の姿が、木々の間から現れた。年は二十代後半か。日に焼けた肌は逞しく引き締まり、ゆるく束ねた漆黒の髪が、気品のある顔立ちに印象的な陰影を添えている。南鄭城に駐屯している蜀軍の将士だろうか。
男はまっすぐ香蓮のいる岸辺に向かってくる。馬に水を飲ませようとしているらしかった。
目鼻立ちまではっきりと見える距離まで来て、ついに男の目が、淵の中に佇んでいる香蓮の姿をとらえた。
「―――?」
思いもかけぬ場所で、思いもしなかったものを見出して、男はあっけにとられた。
しばらくの間、信じられないというように目を見開いていたが、最初の驚きが収まると、ようやく口を開いた。
「そなた、もしや洛水の天女か?」
「………」
「いや、そんな訳はないな」
自嘲めいた微笑を口元に刷くと、男は冴えた双眸でじっと香蓮を見据えた。
一糸まとわぬ姿で男の目にさらされた香蓮は、羞恥に身を硬くしながらも、不思議なことに、少しも恐怖を感じなかった。
不意の闖入者が、盗賊の類ではなく、きちんとした身なりの若者だったこともある。さらには、自分を見つめる男の視線が、淫猥な欲望に濡れておらず、むしろ怜悧な叡智の光を宿していたからかもしれない。
「女、いつまでもそんなところに浸かっていると、風邪をひくぞ」
「あなたがそこに立っていては、水からあがりたくともあがれません」
少しからかいを含んだような男の口調に、香蓮は真っ向から抗議した。
「はは。確かにそうだな。そなたが天女でないなら、空を飛んで逃げることもできぬわけだし。悪かった。私はあちらの岸で馬に水を飲ませているゆえ、早くあがってくるがいい」
言葉通り、男は少し離れた岩陰に馬を移動させた。
そこからなら、香蓮の姿は見えないはずだ。急いで身体を拭き、身支度を整えていると、男が戻ってきた。身構える香蓮に向かって、
「そなた、この辺りの者ではないな。旅の者か?」
親しげに尋ねたかと思うと、次は、彼女がひとりでこんな寂しい場所にいたことを、きつく叱るのだった。
「私がもし、山賊の類だったら何とする? どんな事情があるかは知らぬが、物好きもほどほどにせねば、怪我ではすまぬぞ」
厳しい声音の中に、何ともいえない温かみがある。
香蓮は、ようやく男に対する警戒心を解いた。同時に、緊張が緩んだのか、どっと疲れが押し寄せてきた。
「先を急ぎますので、これで失礼します」
「南鄭に向かうなら、そちらの道を行くがいい。少し下れば街道に出る。そこから城下までは目と鼻の先だ」
「ありがとうございます」
送っていってやろうか、という男の申し出を断り、香蓮はその場を後にした。


男と別れ、山道を歩いていると、ふいに笛の音が流れてきた。それは、先刻までいた淵の辺りから聞こえてくるようだった。
(あの人が吹いているのかしら?)
音楽は、奏者の心根を映すという。
山の空気を震わせて嫋々と響く笛の音は、これまで香蓮が聞いたこともないほど、悲しく、寂しい音色だった。
(不思議な人――)
お互い名前も聞かず別れたが、どこか暗い眸をしたその男のことが、なぜかいつまでも心に残って消えなかった。


<いじわるな出会い(2)に続く>



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