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芽生え (2)




「やあっ!」
静まり返った早朝の練武場に、裂帛の気合が響いた。
先に仕掛けたのは香蓮だ。
目にも留まらぬ速さで突く。払う。
飛び退ったかと思うと、また踏み込み、さらに突く。
香蓮の槍は、力強さではやや劣るものの、速さと瞬発力では並の男に引けを取らない。
鋭い技が次々に繰り出されて、さすがの姜維も防戦一方かと見えた。
だが――。
実際には、香蓮の攻撃はすべて見切られていた。姜維は、香蓮の打ち込みを一合も返してはいない。疾風のように襲ってくる彼女の槍を紙一重でかわしつつ、慎重に後退するのみである。
「姜維さまっ!」
香蓮が鋭く叫ぶ。
「遠慮はなさらないで、と言ったはずです」
彼女は、いつまでたっても姜維が反撃してこないことに、そして、そんな闘いを相手に許せるほど、自分の実力が遠く及ばないことに、苛立ちを覚えていた。
「遠慮などしておりませんよ」
姜維は、息も乱さず、冷静に言い放った。
「あなたの腕を見極めていたまで」
「ならばっ!」
怒りにまなじりを上げて繰り出した槍は、しかし、またしてもかわされてしまった。渾身の一撃はむなしく空を切り、相手の肩先をかすめたにすぎない。

――私が女だから、最初から力を抜いて、適当にあしらうつもりなのか?

かあっと頭に血が上る。
「かわしてばかりでは、勝てませんよ!」
だが、香蓮が熱くなればなるほど、姜維の表情は冴え冴えと静謐になっていく。
「天水の麒麟児の本気を、いつになったら見せてくださるんですか? 趙雲さまが相手でなければ、やる気が出ないとでも?」
「………」
一向に反応しない相手を前に、口惜しさがこみ上げる。
「これ以上私に、惨めな思いをさせないで!」
香蓮の悲痛な叫びが練武場に響き、そして――。
ふいに、空気が変わった。


それまで氷のように冷たく無反応だった姜維の表情に、変化が現れた。
物憂そうな視線が、一転、険しくなる。
「どうも、おしゃべりがすぎるようですね、香蓮どの。あなたがそこまで言われるのなら――」
ふわりと、姜維の全身から青白い気が揺らめいたように見えた。
「お見せしましょう。……これが姜伯約の槍!」
言うなり、姜維の身体が沈み、視界から消えた。
次の瞬間。
何が起こったのか、一瞬、香蓮には理解できなかった。
冷たい殺気が頬を掠めたような気がする。
あっ、と思った時には、彼女の槍は遥か遠くへと弾き飛ばされていた。
(しまった――!)
恐ろしい重さの一撃を受けて、衝撃で手がしびれる。
反射的に飛び退ろうとしたが、それより速く、姜維の槍が香蓮の胸元を捉えていた。
かわす暇も、防ぐ術もなく、彼女はその場に突き倒された。
さらに、姜維は香蓮の抵抗を封じるべく、倒れた彼女にのしかかり、その自由を奪った。男の槍で両肩を押さえられ、身動きどころか息もできない。
(く、苦しい……)
悔しいが、完敗だ。実戦なら、間違いなく止めを刺されていただろう。


目を開くと、驚くほど近くに姜維の顔があった。
いつもと同じ、冴え冴えと暗い翳をまとった眸子が、じっと香蓮を見つめている。
「本当にあなたというひとは……無茶ばかりする。あまり丞相に心配をかけるものではありませんよ」
「………」
「負ける戦はしないことです、香蓮どの」
そう言うと、かれはさっと立ち上がり、茫然と言葉を失っている香蓮に手を差し伸べた。
香蓮は、一瞬その手にすがりかけ、そしてあわてて払いのけた。
「痛っ――」
槍を跳ね飛ばされた時の衝撃で、まだ手が疼いている。
「大丈夫ですか? あちらで傷の手当てをしましょう」
「平気です。怪我なんてしていないもの。ただ、手が少ししびれただけ」
男の手を借りずに立ち上がった香蓮は、意外にもさばさばとした表情をしていた。
「だめだわ。とてもかなわない。さすがは天水の麒麟児、完敗ね」
「香蓮どのこそお見事でした。女の方で、という言い方をするとまた叱られるかもしれませんが、あなたほど鋭い槍を遣われる方は初めてです」
どこかぎこちない姜維の賛辞に、香蓮はくすりと笑った。

――お世辞に決まってる。だって、私の槍はかすりもしなかったのだもの。

これほど鮮やかに叩きのめされたことは、未だかつてなかった。圧倒的な相手の強さに対して、正直、手も足も出なかったのだ。
それでも、妙に心は晴れ晴れとしている。
「最後の一撃だけは、本気で打ち込んでくださったわね?」
「あなたの闘志に敬意を表したかったのです」
姜維は、この男にはめずらしく、翳のない微笑を見せた。
「ありがとう、姜維さま。最後まで適当にあしらわれていたら、耐えられなかったもの。あの一撃は、私を認めてくださった証だと思っていいのね?」

◇◇◇

それから。
姜維と香蓮は、名実ともに、孔明の下で切磋琢磨するライバルとなった。
ともに暮らし、ともに励む日々の中で、姜維が驚いたのは、彼女の学問、ことに史書や兵書に関する知識の深さが、自分に勝るとも劣らないことだった。武術の腕は、すでに実証済みだ。
(どういうひとなのだろう?)
姜維は、いつしかこの美しく快活な女傑に、ライバルとして以上の興味を覚えるようになっていた。
あるとき、かれは思いきって尋ねた。
「孔明先生は、あなたは趙将軍にゆかりの方だとしか教えてくださらなかったのですが。私はもっと、あなたのことを知りたいのです」
「そうですか。孔明さまは私のことをそのように……」
突然の問いかけに戸惑いつつも、香蓮は姜維の言葉を真摯に受け止めた。
長い沈黙の後、彼女は思いさだめたように口を開いた。
「このことは、姜維さまおひとりの胸におさめて、けして外には漏らさぬと誓っていただけますか?」
こう念を押してから、彼女は静かにその身の上を語り始めた。
「趙子龍さまは、実は、私の本当の父上なのです」
「えっ?」
「でも、人前では決して父とも子とも呼んではならない、それが私の運命と思って今日までまいりました――」


香蓮の語るわけはこうだった。
劉備玄徳がまだ荊州の劉表のもとにあって、新野城の代官を務めていた頃のこと。
劉備の部下だった趙雲子龍は、ひとりの女人と激しい恋におちる。が、それは許されざる恋であった。なぜなら、趙雲が愛した翠蓮という女性は、劉表の家臣楊某の妻だったからだ。
やがて、二人のただならぬ関係に気付いた楊が、怒りにまかせて趙雲を殺そうとして、反対に斬り殺されてしまうという事件が起きる。
劉表の庇護を受けている劉備にとって、部下である趙雲のこの不始末は、命取りにもなりかねなかった。それでなくても、劉表の家臣の中には、劉備が荊州を乗っ取ろうとしているとして警戒する者、その人望の大なるがゆえに不安を抱く者も、多くいたのである。
我にかえった趙雲は、自己の失態の大きさに愕然とし、すぐさま責任を負って自害しようとしたのだが、そんなかれを押し止どめたのは、ほかならぬ主君劉備だった。劉備の奔走によって、この事件は表沙汰にならずにおさまり、趙雲もまた武士の面目を保ち得たのだった。
それ以来、かれは、愛する女人の面影を胸に思い描くことすら罪悪であると堅く自分に戒めて、二度とその女性に逢うことはなかった。
だが、そのときすでに、翠蓮の中には趙雲の子が宿っていたのである。
「それが香蓮どの、か」
「……はい」
自分は罪の子である、と香蓮は言う。自分が生きていることは、それだけで趙雲子龍の武人としての誇りを傷つけてしまうことになるのだ、と。
「趙雲さまのことを知ったのは、ずいぶん後になってからです。母は、私には何も言わなかったから。父上に迷惑をかけたくないと思っていたのでしょうね。でも、私はどうしても父上に会いたかったの。たとえ我が子と呼んでもらえなくてもいい。一目お目にかかりたいと」
「将軍はそのことをご存じなのですか?」
もちろん趙雲は、翠蓮が自分の子を身ごもっていることなど知るよしもなかった。
その後すぐ、荊州は曹操の侵攻によって戦乱の巷となり、未曾有の混乱に陥ってしまったからだ。あるいは趙雲が、翠蓮の消息をたずねたくとも、もはや手掛かりさえつかめなかっただろう。
「母は、私が四歳のときに死にました。私はそれから旅芸人の一座に拾われて、あちこち旅して回りながら……。でも、いつもまだ見ぬ父上のことを、いつかお会いする日のことを、そればかり考えていたわ」
「その旅芸人の一座とは、陳涛どののことですか」
「姜維さま、お師匠さまをご存じなの?」
「ええ。私にとっても、陳涛どのは大切な知人ですよ」
香蓮が拾われた旅芸人一座の座長 陳涛は、実は荊州時代からの諸葛孔明の友人であり、孔明の諜報活動一切を取り仕切っている荊州耳目の頭領だった。
どういう仔細か、姜維とも面識があるらしい。


香蓮は、それからの数年間を陳涛の下で過ごした。
やがて彼女が十歳になった頃、偶然、その素性が趙雲と翠蓮の間に生まれた娘であることが分かったのである。
不思議なめぐり合わせに驚いた陳涛は、すぐさま香蓮を連れて成都の孔明を訪ねた。孔明も大いに驚き、折りを見て趙雲にことの次第を明かすと同時に、密かに父子対面の機会を設けたのだった。
夢にまで見た父子の対面を果たした日。初めて目にした趙雲の容姿、その一挙手一投足を、香蓮は今も鮮やかに覚えている。
父は、香蓮の顔をひと目見るなり、絶句した。そして、幼い我が子の手を握りしめて、潸々と落涙した。
その存在すら知らなかった娘。十年前、胸の奥底に、固く封印した女性の忘れ形見……。眼前に現れた少女は、紛れもなく愛しい翠蓮の面影をその可憐な面にとどめていた。
驚きと、懐かしさ、愛しさに、言葉よりもまず感情が胸にあふれ、それとともに遠い日の苦い過ちや主君の大恩などが思い起こされて、趙雲の涙はいつ止まるとも知れなかった。
だが、香蓮を娘として正式に認められてはどうか、という孔明の提案に対しては、ついに趙雲は、頑として首を縦に振らなかった。
「荊州でのことは、もはや時効でありましょう。この上は、晴れて香連をお手元に引き取られてもよろしいのでは?」
「いや、それはできませぬ。香蓮にはかわいそうだが、やはり私は、今でもあの時の己の過ちを許すことができないのです。香蓮は、言うならば『罪の子』。むろんこの子自身には何の罪科(とが)もないが……。しかし、私は己自身への戒めとして、香蓮と父子の名乗りをすることは許されぬと思うのです」
一旦こうと思い定めれば、梃子でもこの男の決意は動くまい。それが趙雲なりの、けじめのつけ方なのであろう。
孔明は嘆息しつつも、かれの意志を認めざるを得なかった。
「せっかくのお心遣いを、申し訳ござらぬ」
「いや、子龍どののお気持ちは、この孔明、誰よりもよく分かっています。それでは、香蓮は、私の養女としてお預かりいたしましょう。表立って父子の名乗りができずとも、香蓮は正真正銘子龍どののお子。私の手元に置いておけば、いつでも遠慮なく会っていただくこともできましょうから」
「かたじけない。軍師どの、香蓮のこと、なにとぞよろしくお願い申し上げます」
趙雲は心からの感謝を込めて、孔明に頭を下げたことだった。
「父子の名乗りもしてやれぬが、けしてそなたやそなたの母をなおざりに思うているのではないのだ。それだけは、わかってほしい」
父も哭き、子も泣いた。傍らにあった孔明とその妻桂華もまた、二人の運命の厳しさに哀惜の涙を禁じ得なかった。
だが、その日のことは、どこまでも四人だけの密かごととして、それぞれの胸の内深くおさめられた。
こうして、香蓮は、孔明の養女として諸葛家に引き取られることになったのである。


(蜀にその人ありと知られた、常山の趙子龍どののご息女であったとは……)
趙雲の血をひく娘であるならば、彼女の人並みはずれた智勇も、なるほどと納得された。
姜維は、初めて聞く香蓮の数奇な運命に驚くとともに、彼女の踏み越えてきた道の遠さ、険しさに胸を痛めた。
だが、今それを語る香蓮の瞳には、みじんの暗さもない。
香蓮は、明るく澄んだ眸子で、無邪気に微笑していた。
「姜維さま。今度は、私が尋ねていい?」
「もちろんかまいませんが。あ、その前に、香蓮どの。これからは、伯約と呼んでください。その方が堅苦しくなくて落ち着きます」
「わかりました。では、姜……いえ、伯約さま。孔明さまは、あなたが帰順なされたとき、わが後継者を得たとたいそうお喜びになられたそうですね?」
孔明のことを語るとき、香蓮の頬はうっすらと紅に染まる。姜維は、まぶしそうに目をそらした。
「丞相にそう思っていただいただけで、私は生まれてきた甲斐があるというものです。あとはこの身をなげうっても、その大恩に応え、ご期待にそえるよう力を尽くすのみです」
「うらやましいわ……」
香蓮は立ち上がると、つと顔をそむけた。
「私はもう何年も、孔明さまと一緒に暮らしてきました。学問も見てくださる、みなしごの私を、実の娘のように慈しんでくださる。でも――」
香蓮の声音は、どこか寂しげに聞こえる。
「それだけなのです、結局。あの方にとって私は、それ以上の存在にはなれない」
「あなたは、丞相を……」
愛しているのか、と言おうとして、姜維は言葉を飲み込んだ。孔明には桂華という妻女がいるのだ。
かれはそっと香蓮の細い肩に手を置くと、温かいまなざしを注いだ。
「そんなことはない。あなたがここに来られたとき、丞相は、それはうれしそうな顔をしておられました。私がお側にお仕えしてからもうずいぶん経ちますが、丞相のあんなお顔を見たのは初めてのことです。香蓮どのが思っていることとは少し違うかもしれぬが……。丞相にとって、あなたがとても大切なひとだということだけは、確かなことではありませんか?」
一瞬、冷徹を装う姜維を覆った殻が剥がれ落ち、やさしい素顔がのぞいた。真摯ないたわりの感情が、香蓮の心にさざなみのように広がってゆく。
「――ありがとう」
香蓮は、精一杯の笑顔を返した。
今、胸の奥に芽生えた小さなときめきは何だろう、と自問しながら。


<芽生え  了>



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