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いじわるな出会い (2)




午後も遅くなってから、香蓮は南鄭城に入った。
南鄭の城下は、成都よりはずっと小さかったが、活気にあふれている。
軍令がよく行き届いているのだろう。街並みは明るく清潔で、行き交う人々の表情も穏やかだった。
(孔明さま、やっと着きました!)
丞相府の門を警護している衛士に訪ないを入れ、孔明の執務室に案内されるまでの間に、香蓮の足取りはこれまでになく軽くなっていた。衛士が取り次ぐ声さえ耳に入らないほど、気持ちが高ぶっている。
香蓮が通された部屋には、両側の壁面いっぱいに、おびただしい書簡や図面がうずたかく積まれていた。
一段奥まった場所に、帳に隠れるようにして卓がしつらえられており、人の動く気配がする。
香蓮は、思わずその方向へ駆け出した。
胸の奥がつんとする。じわり、と熱いものがこみ上げてくる。
「孔明先生……!」
そこには、日ごと夜ごと目蓋に思い描いた、懐かしいひとの姿があった。
「香蓮? 本当に香蓮なのか?」
卓から立ち上がりかけていた孔明は、不意の来訪者が香蓮であるのを認めて、驚いたようだった。
「先生、お久しゅうございます」
久しぶりに見る孔明の姿は、少し疲れているようで、香蓮は一瞬言葉をためらったが、すぐにいつもの清雅な表情に戻ったのを見て、ほっと安堵の胸をなでおろした。
「突然で驚いたぞ。知らせてくれれば、迎えをよこしたのに。道中さぞ難儀であったろう」
「先生にお目にかかれるうれしさを思えば、道中の難儀なぞ、少しも苦にはなりません。成都からここまで、空を飛んでいるようでしたわ。待っていてもいっこうにお帰りにならないので、奥さまにお許しをいただいて、私の方から来てしまいました」
香蓮の声は、水のきらめきに似ている。話すたびに、きらきらと明るい光が飛び散るようだ。その光が反射して、孔明の胸にも温かいものが灯ったように思われた。
「相変わらずのお転婆だな。少しは落ち着かぬと、嫁のもらい手がないぞ」
「結構です。わたくしはどこへも嫁になど参りません。いつまでも孔明先生のお側におりますから」
孔明は、いつもの香蓮の軽口と思って破顔したが、香蓮がそのとき感じた小さな胸の痛みが何なのか、それは彼女自身にも分からないことだった。


ひととおりの挨拶を終え、香蓮は桂華から預かってきた文を孔明に手渡した。孔明は、しばらくの間じっと感慨深そうに妻からの手紙を手にしていたが、
「……まだしばらく成都には帰れぬ。あちらは皆、つつがないか?」
そう尋ねる表情は、父親の顔だった。
「奥さまも、瞻坊ちゃまもお元気です。あ、それに喬さま、均さまのご家族もお変わりなく。奥さまからは、くれぐれも先生と喬兄さまの身の回りのことをよろしく頼むと、言い付かって参りました」
「さてさて、困ったものじゃ。桂華のお墨付きとなれば、そなたを早々成都へ帰らせるわけにもいかんな」
「勿論ですわ。先生とご一緒でなければ、私、決して成都へは戻らぬ覚悟で参りましたもの」
あまりにきっぱりとした言い方に、孔明は思わず声を出して笑ってしまった。香蓮もわれながらおかしかったらしく、く、く……と忍び笑いをもらした。
「はは……。あいかわらず愉快な女子じゃ。まあよい。その調子でそなたがここにいてくれれば、私の気も晴れるであろうし」
香蓮の顔が輝いた。あるいは、すぐに成都に立ち返れと孔明に叱られるかもしれない、と内心びくびくしていたのだ。
「本当でございますか? ここにいてもよろしいのですか?」
「帰れと言うてもきかぬであろうが。それに、喬の身の回りの世話をそなたがやってくれるのであれば、私も安心だ」
「よかった――」
香蓮は、ほっと安堵のため息をついた。
そのとき。
「失礼いたします」
凛とした声とともに、ひとりの背の高い若者が扉を開けて入ってきた。
「孔明先生。例の兵糧の輸送のことですが――」
言いかけてから、男は香蓮の存在に気づき、はっと言葉を飲み込んだ。
その顔を見たとたん、香蓮も「あっ!」と声をあげて、その場に立ちすくんでしまった。忘れもしない、つい先刻、泉で水浴びをしていた時に出くわした男だったからだ。
「どうした姜維? 香蓮を知っておるのか?」
孔明の言葉が、香蓮の驚きをより大きなものにした。
(姜維? では、この方が、姜維伯約さま?)
声を失って呆然としている香蓮に向かって、件の男は優雅に拱手の礼をとり、にっこりと笑った。
「いいえ、このように美しい女性には会ったことがございません。まるで洛水の女神のようですね」
(まあっ……)
男の言葉に、泉での出来事が生々しく思い出され、香蓮はひとり赤くなった。

――嘘つき!

叫びたいのをじっと我慢して、香蓮は、非難をこめた目で姜維と呼ばれた男の顔を見つめたが、男は聖人君子のように取り澄ました態度を崩さず、その表情には、少しの動揺も見られなかった。
「失礼いたしました。来客中とは知らず、申し訳ありません。出直してまいります」
広げかけた地図をたたみ直し、退出しようとする姜維を、孔明が呼び止めた。
「いや。かまわぬ。そなたにも紹介しておこう。これは、私の養女で香蓮という者だ。しばらくここで私や喬の世話をしてくれることになった。世間知らずのお転婆ゆえ、何かと迷惑をかけるやもしれぬが……。よろしく頼むぞ」
孔明の言葉に姜維は、怜悧な印象のまなざしに幾分いたずらっぽい笑みを含ませて、うなずいた。
「そうですか。こんな美しい方が近くにいてくださるとは、うれしい限りです」


◇◇◇


(――もう、何よ、あいつはっ!)
孔明の執務室から退出した香蓮は、用意された居室に引き取ってからも、腹立たしい気持ちがおさまらなかった。
冷静に考えれば、香蓮のことをかばってくれたのだと分かる。事の次第を明かして、孔明に余計な心配をかけるべきではないと、姜維は判断したのだろう。
(それにしたって……!)
小馬鹿にしたような視線が頭から離れない。
「こんな美しい方が」と言いながら、その実心の中では、「こんなじゃじゃ馬娘が」と思っていたに違いないのだ。
「ああ、ほんのちょっとでも興味を持って、損しちゃったわ。あんな奴、喬兄さまの爪の垢でも煎じて飲めばいいのよ!」
香蓮のいらいらした気分は、しかし、諸葛喬を見舞ったとたんに、どこかへ弾け飛んでしまった。
喬の容態が、想像していたよりもずっと思わしくなかったからだ。
「喬兄さま――」
「え? ……あ、香蓮?」
寝台に臥せっていた喬は、入ってきたのが成都にいるはずの香蓮だと知り、驚いて目を見張った。
「私は、夢を見ているのかな」
「いいえ、夢じゃありませんわ。奥さまに無理を言って、兄さまや孔明さまのお世話をさせていただくために、こちらへ来たんです」
香蓮は、なるべくいつもどおりの調子で話そうと努力したが、気持ちとは裏腹に、視線はいつの間にか、頬骨が尖るほどにやつれた喬の顔をくいいるように見つめてしまう。
「明日からは、私が腕によりをかけて滋養のあるものをお出ししますから。それを食べれば、病なんてきっとすぐに良くなります」
「ああ、そうだね。ありがとう、香蓮」
明るく笑った諸葛喬だったが、それでも拭いきれない病の影に、香蓮は黙って唇を噛みしめるほかなかった。彼女は、わざと話題を変えた。
「そうだ。兄さまは姜維という方をご存じですか?」
「姜維伯約?」
「ええ。孔明さまがたいそうお気に召された俊才だというから、どんなすばらしい方かと思っていたけど、いけすかない奴だったわ」
思い出すとまた怒りがこみ上げてくる。香蓮の眉根が険しくなった。
「そんなことを言うもんじゃない。かれは立派な男だよ。私は一緒ではなかったが、わが軍が漢中へ引き上げる際も、趙雲将軍とともに殿軍を願い出て、それは見事な働きだったそうだ」
「そりゃあ武将としては優れているのかもしれないけど、私が言いたいのは人間としてです。もう、サイテーの馬鹿男!」
ぷっ、とこらえきれずに諸葛喬は吹き出してしまった。
幼い頃から兄妹のように育ってきたが、気の強いところは昔のままだ。よく香蓮にやり込められて、泣きそうになった悔しさが、今は懐かしい感慨を伴って思い出された。
「姜維どのも、香蓮にいじめられるのかなあ」
「まあっ! それはどういう意味ですか!」
諸葛喬は、人差し指で香蓮の頬を軽くつついた。二人は顔を見合わせ、そして声を立てて笑った。


「でもね、香蓮。考えてみてごらん」
諸葛喬は、寝台の上に半身を起こすと、傍らの香蓮に語りかけた。
「姜維どのは、ここ漢中で、心を許せる相手が一人もいないのだよ」
「え?」
「義父上のお気に入りとはいえ、つい先日までは魏の武将だった男だ。さらに、どんな事情があったにせよ、降伏して我が方に寝返ったのだからね。蜀軍の将兵たちからはよく思われていない。胸襟を開いて話せる友人も、まだいないだろう」
「―――」
見知らぬ人たち。
とげとげしい言葉と、敵意を含んだ視線。
裏切り者に対する蔑みと、いわれなき嫉妬。
そんな中に、あの男はその身を置いているのだ。
香蓮はようやく、漢中における姜維の立場が理解できたような気がした。
「それに、姜維どのは蜀に降る際、兄弟のように大切にしていた友人と、奥方を亡くされたのだそうだ」
「まあ……!」

――ああ、そうなのだ。
だから、あの方の吹く笛の音は、あんなにも悲しい音色をしていたのか。

泉で別れた後、姜維の笛を耳にしたときに感じた、身を引き裂かれるような悲しみ。それは、かれの心の痛みそのものではないか。
顔は微笑んでいても、その目は決して笑ってはいない。姜維の暗いまなざしを思い出して、香蓮はあらためてかれの孤独と心の傷の深さを思いやった。
「おそらくかれをここに繋ぎ止めているのは、義父上との絆だけだと思う」
「孔明さまとの絆、ですか?」
「うん。直接聞いたわけではないんだが、どうやらお二人は以前からの顔見知りだったらしい。何しろ義父上は、降伏してきた姜維どのの顔を見るなり、自らその手を取って、自分のすべてを伝えたいとまで言われたのだからね。初対面ではないはずだ」
過去に、孔明と姜維との間にどんな経緯があったのか。それは、喬にも香蓮にも分からないことだった。
「私がこんな身体でなければ、かれともっと、いろいろな話をしてみたいのだけれど。魏の話も聞きたいし、兵法軍略についても教えてほしいことがいっぱいある」
諸葛喬は、湧き上がってくる好奇心に眸子を輝かせた。
「ああ、早く元気になって、お前とまた槍の鍛錬をしたいものだ」
「すぐに良くなられます。そうしたら、姜維さまもいっしょに、いっぱいおしゃべりしましょうね」

(本当に。早くそんな日がくればいいのに――)

香蓮の脳裏には、元気になった喬と、姜維、そして香蓮の三人が、仲よく武術の鍛錬に汗を流し、兵法の論議に花を咲かせている場面が浮かんでいる。
屈託なく笑う姜維の笑顔が見てみたい、と思う。
ほんの少しだけ、香蓮の中で、姜維の存在が大きくなった。


<いじわるな出会い  了>



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