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星に願いを




[2]


次の日の朝、逡巡しながらも、昨夜の翠蓮の言葉に背中を押されるようにして、趙雲は軍師府に諸葛亮を訪ねた。
「では、ようやくその気になっていただけたのですね」
「いや、まあ……」
はっきり口に出して言われると、後ろめたい思いもある。断りきれずにしぶしぶ承知した、というのが正直なところだった。
そんな趙雲の胸中を知ってか知らずか、諸葛亮はことさらににこやかな表情を見せた。
「これはめでたい。何よりも、殿がお喜びになられましょう」
かれはさっそく妻の桂華を呼ぶと、趙雲と趙家の息子たちとの対面の手配をするように申し付けた。
「承知いたしました。すぐに準備をいたしますわ。ちょうど明後日は七夕。内輪の者だけで、星を愛でる宴という趣向はいかがでございますか」
「それはよい。では、すぐに趙家に使いを」
「ひとをお引き合わせするのに、これほどよい日はございませんわね」
部屋を出て行きかけた桂華の後を追いかけて、趙雲は声をかけた。
「奥方。かような私事でお世話をかけて申し訳ありませぬ」
「いえいえ、わたくしは元々こうしたことが好きなのです。どうぞお気遣いはご無用に」
婉然とした笑みを浮かべると、
「本当にいい子たちですのよ。趙将軍にもお気に召していただけるとよろしいのですけれど」
いそいそと奥の部屋へと下がっていった。


桂華が出てゆくと、後に残されたのは諸葛亮と趙雲の二人きり。
どことなく居心地の悪さを感じつつも、「帰る」とは言い出せずにいる趙雲に、諸葛亮がぽそりと呟いた。
「子龍どのは、未だに荊州での出来事を忘れておられないのですね」
「……軍師どの!」
思いもしなかった言葉に、驚いて顔を上げた趙雲の視線は、冷たく冴えた諸葛亮のまなざしに絡め取られた。
「お隠しあるな。あの時、翠蓮どのとあなたの仲を引き裂いたのは、この私だ。さぞ恨んでおられましょう」
「恨むなどと……。とんでもない!」
趙雲は、心の底から否定した。
あの騒動の後、翠蓮の身は諸葛亮が引き取ってどこかに預けたらしい。しかし、それからすぐに曹操軍が攻め込んできたため、荊州は戦乱の巷となり、未曾有の混乱に陥ってしまう。
翠蓮の消息も、それきり途絶えてしまったのである。
「荊州でのあの失態。玄徳さま家臣としてあってはならぬ過ちを犯した私です。あの時失うはずだったこの命が今もあるのは、ひとえに殿と軍師どのがお骨折りくださったればこそ。翠蓮のことは、私が自ら断ち切ったのです。軍師どのに感謝こそすれ、恨みに思ったことなど微塵もありません」
「そうおっしゃると思っていました」
趙雲の真摯な態度を見て、諸葛亮は満足げに微笑した。
「将軍の言葉をかけらも疑うわけではありませんが、ならばこそ余計に、あなたがいつまでも独り身でおられることが気にかかるのです。おそらく殿も、私と同じお気持ちでしょう」
――ましてや、と諸葛亮は言った。
「趙家の家門を絶やすわけにはまいりません。子々孫々末代まで、趙将軍の家系は、この蜀漢の重鎮であっていただかねばならぬ」
凛然とした諸葛亮の声に、趙雲は身を硬くしてその場に平伏した。
「むろん、趙統、趙広の兄弟が、あなたの跡を継ぐに足る器かどうかは、明後日ご自分の目でじっくりとお確かめくださればよい。お気に召さねば、この話はなかったことにするまでですから」


  


明後日七月七日は、星愛づる宵。
曇りがちの日が多い成都だが、その夜は雲ひとつない晴天になった。
牽牛と織女は、今頃かささぎの橋を渡って、年に一度の逢瀬を楽しんでいることだろう。
そして、軍師府に接した諸葛亮の屋敷では、にぎやかな七夕の宴が催されていた。
華やかな歌舞音曲。
卓上に積まれた美酒佳肴の数々。
星を愛でる宴はまさにたけなわだったが、ひとり趙雲だけは、いささか落ち着かない気分で杯を傾けていた。
というのも、桂華が「内輪の者だけで」と言ったとおり、宴席に居並ぶ人たちはみな諸葛家に繋がる人ばかりで、趙雲ひとり場違いな感が否めないのだ。図らずも彼が主賓のような形になってしまい、皆が次々に挨拶に来てくれるのだが、かえって居心地が悪かった。
やがて、少々座が乱れてきた頃合を見計らうように、諸葛亮は趙雲を誘い出した。そっと広間を離れ、奥の客室に通された趙雲は、そこで初めて趙統、趙広の二人の兄弟と対面した。
「初めてお目にかかります。趙統と申します。こちらは弟の広です。趙将軍、ふつつか者ではございますが、なにとぞよろしくお願い申し上げます」
緊張に頬をこわばらせながら、挨拶の口上を述べる兄。その傍らで、あどけない笑顔を浮かべる弟。
諸葛亮の横では、妻の桂華がはらはらしながらそんな二人を見守っている。


(よい子たちだ――)
兄弟が、自分の跡継ぎとしてふさわしいかどうか、そんなことはたいして重要ではない、と趙雲には思われた。
身寄りのない者同士が、肩を寄せ合うようにして生きていく。そんな家族の形もあるのだろう。
生涯妻も子も持たぬと誓った自分だが、養子縁組を結ぶことでこの兄弟の後ろ盾になってやれるのなら、それもまたよいかもしれぬ、と今なら思える。
生真面目そうな趙統の顔を見やりながら、いつしか趙雲は、自分がかつてないほど穏やかな気持ちに包まれていることに気づいた。
(翠蓮、これでよいのだな?)
胸の内で問いかけると、夢で見た翠蓮の面影が、静かにうなずいたようだ。
「軍師どの。この話、趙雲確かに承知いたしました」
「では、この二人を養子として、趙家にお迎えくださいますか」
「喜んで――」
「ああ、よかった!」
心の底から安堵の声をもらして、趙統、趙広の二人を抱きしめたのは、桂華だった。彼女は、孤児たちの去就が定まったことを、我が事のように喜んでいる。
諸葛亮との間に子どもが生まれなかった桂華は、亮の甥にあたる喬を養子として育てていた。趙統たちのことを、他人事とは思えなかったのであろう。
「子龍さまとこの子たちをお引き合わせした甲斐がありましたわね」
桂華は子どもたちを別室に下がらせると、あらためて酒肴の用意を整えた。


  


「それでは、正式な縁組の儀式は、後日あらためて、殿ご臨席の上で執り行うことにいたしましょう」
孔明はめずらしく上機嫌で、趙雲に酒を勧めた。趙雲も、しみじみとよい心地になって杯を重ねる。こんなに晴れやかな気持ちで酒を飲むのは、久しぶりのことだ。
程よく酔いがまわった頃、
――ところで。
と、孔明が声音をあらためた。
「実はもう一人、将軍にお引き合わせしたい方がおられるのです」
「もう一人?」
「はい。星愛づる今宵に、ふさわしい人物かと」
「………?」
いぶかる趙雲を手招くと、諸葛亮はそっと奥の部屋へかれをいざなった。
扉を開けると、寝台の上に少女が座っているのが見えた。桂華とあやとりをして遊んでいた少女は、扉の外に立っている見知らぬ男の姿に、怪訝な表情を浮かべた。
「さあ、子龍どの。どうぞ中へ」
諸葛亮にうながされて部屋の中に入ったものの、趙雲には合点がいかない。この少女が、諸葛亮が自分に「引き合わせたい人物」なのか?
もう一度、その顔をしげしげと眺めた趙雲の胸に、電流が走った。
形のきれいな眉。人の心を映すかのような深い色の眸子。ふっくらと紅い唇――。
「軍師どの、これは? この子は、まさか……」


予想もしていなかった展開に、趙雲ともあろう者が激しく狼狽した。自分でも恥ずかしいくらい声が上ずってしまう。
「翠蓮の……?」
趙雲が生涯でただ一度愛した女性。眼前の少女は、紛れもなく、翠蓮の面影をその可憐な面にとどめているのだった。
(翠蓮の子? では、では、我が娘なのか?)
夢を見ているような心地で、呆然と立ち尽くしている趙雲の肩に、諸葛亮がそっと手を置いた。
「お気づきになられましたか。この子は名を香蓮と申します。お察しの通り、間違いなく趙雲どのと翠蓮どののお子です」
「私の子……」
「はい。荊州での事件の後、私が知り合いに翠蓮どのをお預けした時、すでに身ごもっておられたのですね。それからの経緯(いきさつ)については、私の知る限りのことを、後ほど詳しくお話申し上げましょう。とにかくまずはご対面を」
諸葛亮と桂華にうながされて、香蓮と呼ばれた少女は、恐る恐る趙雲の前に立った。
「さあ、香蓮。この方があなたの父上さまですよ」
「ちちうえ……?」
汚れのないつぶらな眸子が、趙雲を振り仰ぐ。あどけない笑顔に、愛しいひとの面影が重なる。
この子が一人ここにいるということは、母である翠蓮は、すでにこの世にはいないのであろう。
「そなたが……。そうか、香蓮というのか。よい名じゃ」
目頭が熱くなり、趙雲は思わず、小さな体を抱きしめていた。
香蓮の柔らかな体は、翠蓮と同じ匂いがする。
懐かしさ、愛しさに、言葉よりもまず感情が胸にあふれた。それとともに、遠い日の苦い過ちや主君の大恩などが思い起こされて、趙雲の涙はいつ止まるともしれなかった。


<3 に続く>


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