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「さあ、香蓮。夜も遅いわ。あなたはもうお休みしましょうね」 趙雲のひざに抱かれ、とろんとした目で居眠りしかけていた香蓮に、桂華が優しく声をかけた。 名残惜しそうな父親の腕から娘の体を抱き取ると、桂華は夫に目配せした。 「だんなさまは趙将軍とご一緒に、先ほどの客間へ戻っていただけますか。わたくしはこの子を寝かしつけますわ」 「分かった。では、子龍どの。ここは桂華にまかせて、我らはひとまず退散しましょう」 「承知しました」 部屋を出ようとした趙雲に、香蓮が小さな声で呼びかけた。 「父上――」 呼び方はまだぎごちないが、その言葉には、少女の懸命な思いが込められている。 「夢ではありませんね? 私が眠っても、消えてしまわれたりなさいませんよね?」 無邪気な問いを発する我が子がいとおしくて、趙雲は、踵を返して駆け寄らずにはいられなかった。 「ああ、夢であるものか。やっとこうして、そなたに会えたというのに」 桂華も諸葛亮も、そんな趙雲の姿に思わず苦笑してしまう。 「香蓮、大丈夫ですよ。お父上は消えたりなさいませんから。安心してお休みなさい」 「はい、奥さま」 素直にうなずいて、 「孔明さま、父上、お休みなさい」 ようやく香蓮は、趙雲の袍を握りしめていた小さな手を離したのだった。 後ほど諸葛亮が趙雲に語ったところによると――。 翠蓮は、諸葛亮の知人のもとに預けられてから、女の子を産んだ。直後、曹操の荊州侵攻による混乱の中、母子はからくも死地を脱したものの、行方が分からなくなってしまったのだった。 「翠蓮どのが身二つになられたことは聞いていたのですが、戦の混乱で、預けた先の者と離れ離れになってしまわれたのです。それからも八方手を尽くしてお探ししたのですが、結局分からずじまいで……。すべて私の手落ちです。子龍どの、許されよ」 諸葛亮は趙雲に向かって、改めて深く頭を下げた。 やがて、香蓮と名付けられたその子が四歳になった頃、母と暮らしていた里が戦乱に巻き込まれ、翠蓮は命を落としたらしい。孤児となった香蓮は、偶然、その場を通りかかった孔明の細作頭、陳涛に救われたのだという。 しかし、陳涛も、まさかその幼子が趙雲の娘であると知るはずもなく、それからの年月を香蓮は、陳涛の旅の一座で過ごすことになった。 「それにしても、まさに偶然とはこのこと」 と、諸葛亮は感慨深げに言った。 「今年の春になって、陳涛が再びその地を訪れた際に、翠蓮どの母子の来歴を知っているという者に出会い、ようやく香蓮が将軍のお子であることが分かったのです。驚いた陳涛は、すぐに香蓮を私の下に送り届けて参ったのですが……。さて、どのようにして将軍にお引き合わせしたらよいものか。しばらく我が手元にお預かりして、良き機会を待っていたような次第です」 「そうでしたか」 諸葛亮の口から一部始終を聞かされた趙雲は、今更ながら翠蓮と己との数奇な運命のめぐり合わせに胸を熱くした。彼女がその身に代えて守った小さな命は、今ようやく本来あるべき場所へ、父親の下へとたどり着いたのである。 「こうして父子の対面が叶ったのも、翠蓮の導きかもしれません」 思えば、先日の夢に翠蓮が現れたのも、偶然ではないような気がするのだった。 やがて新しい酒器を盆に載せた桂華が、静かに部屋に入ってきた。 「香蓮は? 眠ったか?」 「ええ、何とか。それはもう、興奮して大変だったのですけれど、やっと寝付きましたわ。父上さまに会えたのが、よほどうれしかったのでしょうね」 それを聞いて、趙雲はほっと安堵のため息をついた。そんな趙雲に、桂華は艶やかな微笑を投げる。 「では、ごゆっくり。子龍さま、もちろん今夜はお泊りになってくださいますわね」 「いえ、私は……」 「明日の朝、目が醒めた時に子龍さまのお姿が見えかったら、どれほど香蓮が悲しむことか」 否も応もない。さすがは諸葛亮の妻というべきか。娘との約束を持ち出されては、趙雲も肯んぜざるを得なかった。 妻が酒を置いて退出するのを見届けてから、諸葛亮が真剣な表情で切り出した。 「趙将軍、いかがなされますか。荊州でのことは、もはや時効でしょう。趙家の跡継ぎもお決めになられたことですし、この上は、晴れて香連をお手元に引き取られてもよろしいのでは?」 趙雲はしばらくの間、じっと身じろぎもせずに考え込んでいたが、ようやく顔を上げたかれは、決然とした眸子で諸葛亮の提案を退けた。 「いや――。やはりそれはできませぬ」 「しかし、子龍どの」 何か言いたげな諸葛亮の言葉をさえぎって、趙雲は粛々と己の胸中を語った。 「香蓮にはかわいそうですが、やはり私は、今でもあの時の己の過ちを許すことができません。香蓮は言うならば『罪の子』です。もちろんあの子自身には何の罪科(とが)もありません。しかし、私は私自身への戒めとして、香蓮と父子の名乗りをすることは許されぬと思うのです」 一旦こうと思い定めれば、梃子でもこの男の決意は動くまい。それが趙雲なりの、けじめのつけ方なのであろう。 諸葛亮は嘆息しつつも、かれの意見を認めざるを得なかった。 「そうですか。将軍がそれほどのご決心であるというのなら、もはや何も申しますまい。いや、あるいは、そう仰るかもしれぬと思わぬこともなかったが……」 「せっかくのお心遣いを、申し訳ござらぬ」 いやいや、と孔明は手を振った。 「子龍どののお気持ちは、この孔明、誰よりもよく分かっているつもりです。では、香蓮は、私の養女としてお預かりすることにいたしましょう」 「まことですか?」 諸葛亮の申し出は、趙雲にとって願ってもないことだ。ようやくめぐり合えた我が子を、このまま手放すのはいかにも辛い。 「表立って父子の名乗りができぬとはいえ、香蓮は正真正銘子龍どののお子。私の手元に置いておけば、いつでも遠慮なく会っていただくこともできましょう」 「かたじけない。軍師どの、香蓮のこと、なにとぞよろしくお願い申し上げます」 趙雲は心からの感謝を込めて、怜悧なまなざしの軍師に頭を下げた。 翌朝、趙雲は、改めて香蓮と対面した。 「父子の名乗りもしてやれぬが、決してそなたやそなたの母をなおざりに思うているのではないのだ。それだけは、分かってほしい」 過去の経緯。今も変わらぬ翠蓮への愛、娘への思い。そして、苦渋の決断――。 わずか十歳になったばかりの香蓮に、趙雲の真情が伝わったかどうか、それは分からない。 それでもかれは、ひざに乗せた我が子の手を握りしめて潸々と落涙し、滂沱の涙の内から、幼い娘にこう言い聞かせた。 「香蓮。これよりそなたは、昼夜をわかたず軍師どののお側近く仕えて、きっと軍師どのをお守りせよ。私は、かたじけなくも一軍の将としての重責を担っている身ゆえ、常に親しく軍師どのに近侍するというわけにもゆかぬ。されば、そなたが父に代わって、必ずこの任を果すのだ。よいな」 果たして、父の言葉の意味を理解できたのだろうか。香蓮は、あどけない笑顔でこっくりとうなずく。 「軍師どのは、我ら父子にとってはまさに大恩人。このこと、きっと忘れるではないぞ」 「はい」 父も哭き、子も泣いた。傍らにあった諸葛夫妻もまた、二人の運命の厳しさに哀惜の涙を禁じ得なかった。だが、その日のことは、どこまでも四人だけの密かごととして、それぞれの胸の内深く収められたのである。 その日は一日、父子水入らずで過ごし、夕刻になって趙雲は、ようやく軍師府を後にした。 「将軍」 騎馬を待つ間、内門まで送って出た諸葛亮が趙雲に問いかけた。 「七夕の夜に、何を願われた?」 「え?」 「香蓮はもう十日も前から、手習いの短冊に『父上に会えますように』と書いておりましたよ」 「私は……」 夕焼けの空を見上げた趙雲の胸に、鮮やかによみがえる愛しい面影。 ――夢でもよい。もう一度、翠蓮に会いたいと……。 彼のひとはすでに死んだと聞かされてもなお、もしかしたら、という一縷の望みにすがりたくなる。昨夜、翠蓮のことを思って一睡もできなかった己の女々しさが、我ながら腹立たしかった。 「いや、何も」 趙雲は、わざと感情を押し殺した声で答えた。 「そう言う軍師どのは? 何を願われたのです?」 「私ですか。私はもちろん――」 諸葛亮は、手にした羽扇をゆっくりとあおいだ。 「殿の武運長久。蜀漢による天下統一。……というのは表向きで」 「は?」 稀代の軍師は、悪戯っぽく片目をつぶってみせた。 「早く桂華との間に子が欲しいと」 「それは、また……」 一瞬の沈黙の後、二人は、顔を見合わせて哄笑した。 茜色が次第に深い藍色へと変わっていく西の空には、宵の明星が明るく輝いている。 諸葛亮のこの願いは、その後十年近く経ってから叶えられることになるのだが、むろんこの時はまだ、誰にも分からぬことだった。 |
了 2007/9/18 |
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