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「趙雲、いいかげんに色よい返事をしてくれぬか」 「と申されましても……」 困りきった顔で自分を見つめる劉備を前にして、趙雲は途方にくれた。 主君より直々の急用と聞き、とるものもとりあえず駆けつけてみれば、縁談だという。 ――まったく、これで何度目だ? 劉備が趙雲に薦めた縁談は、一度や二度ではない。 「殿。前にも申し上げましたとおり、それがし、妻帯するつもりはないと――」 趙雲が言いかけたとき、真面目くさった顔で笑いを噛み殺していた諸葛亮が口を開いた。 「趙将軍。今回は、縁談は縁談でも養子縁組の話です」 「はあっ?」 「殿はどうしても、趙将軍の家系が絶えてしまうことを避けたいとお考えなのです。しかし、どのように薦めてもご妻女を娶ってはくださらぬ。それならば……と、趙家の養子として恥ずかしくない若者を選んで引き合わせようと、常々ご腐心なさっておられたのですよ」 「養子、ですか――」 一気に気持ちが萎えてしまった趙雲に向かって、劉備はここぞとばかりに熱弁をふるった。 「父親は益州の豪族で趙温といい、儂が成都に入る折には、何かとこの地の有力者たちへの橋渡しに力を貸してくれたのだ。豪胆な漢であったが、それから間もなく病を得て他界してしまった。母親も先頃身罷ったそうじゃ。残された二人の息子を、何とか取り立ててやりたいと思うていたのだ」 「趙統、趙広と申されるご兄弟です。歳は確か、十六と十二でしたか」 「そなたの養子として、恥ずかしくない者たちだと思う。一度会うてみよ」 「はあ……」 気のない返事を返したものの、これは君命だ。 途方に暮れたまま、趙雲は重い足取りで成都城内の館に帰った。 (確かにまあ、この広い屋敷に妻子がおらぬのは、いささか寂しい気もするが――) 成都に移ってからは、蜀漢の五虎大将として恥ずかしくない邸宅を与えられていた。しかし、共に暮らす家族もおらず、使用人の数もそれほど多くはない。 がらんとして人気のない屋敷の佇まいは、夕暮れ時などはことに侘しいものがあった。 「だんなさま。どうなされました? 難題を背負うておられる顔じゃ」 出迎えたのは、趙雲の身の回りの世話をしている、もう腰の曲がりかけた老婆である。 「するどいな、婆婆は」 「荊州の新野にいるころから、お前さまの面倒をみておるのじゃぞ。わからいでか」 小梅という名の老婆は、歯の抜けた皺だらけの口を開けて笑った。 「困りごとなら、この婆婆が相談に乗ってやるぞ。言うてみい」 「婆婆に話して何とかなるのなら苦労はせぬわ」 苦笑しながら、趙雲は事の次第を話して聞かせた。 「よいお話ではありませぬか。会うだけでも会うてみられたら」 「しかしなあ。そのような面倒臭い話は、どうも苦手だ」 「まったく、だんなさまの我儘にも困ったものじゃ。女子はいらぬとて、殿様がお薦めくださる縁談もみんな断ってしまうわ、跡継ぎも定めぬわ、このままでは趙の家門も絶えてしまうのじゃぞ」 ぶつぶつ言いながら趙雲が脱いだ衣服をたたんでいた小梅が、急に声を落とした。 「それほどに、あのお方が忘れられんのか?」 とたんに、趙雲の顔色が変わる。 「婆婆! その話はするなと言うたであろう!」 「まったく。四十路も越えたというに、だんなさまの頭の中はいつまでたっても黄嘴の豎子じゃな」 手早く衣服を片付け、小梅は、記憶をたどるように遠い目をした。 「翠蓮、というたか。確かに、女子のわしの目から見ても、美しいお方じゃったが」 「もうよい」 「しかしのう、だんなさま。どれほど男の操をたてようと、翠蓮どのとの事はもはや遠い過去のこと。翠蓮どのとて、このまま趙家の血筋が絶えてしまうことを喜ばれはすまいぞ」 「うるさい! もうよい、というのが分からぬか! 用が済んだら、さっさと出てゆけ!」 日頃、滅多なことでは怒らない趙雲が、戦場ではかくやと思われるほどの形相で怒りを露わにした。 他の者ならそれだけで恐れおののいてしまうところだが、小梅は相変わらず苦々しい表情で主人の顔を眺めている。 「まったく。年寄りは敬うものじゃ……」 小梅が出ていくと、急に部屋ががらんと広くなったような気がした。 ふいに息苦しさを覚えて、手近の小窓を開けた趙雲は、ほっと深いため息をついた。 開け放した窓から涼やかな風が吹き込み、季節がようやく秋に移ったことを告げている。 ――翠蓮。 懐かしい名を、胸の内でつぶやいてみる。 それは、二度と再び口にすまいと、心に決めた名であった。 趙雲は、生涯妻を娶るつもりはなかった。 若いころは、戦から戦へ転々とする日々であったし、いつ戦場に屍をさらすやもしれぬわが身を思えば、そんな気にはなれなかったのである。 ただ一度、翠蓮という名の女人との許されざる恋だけが、今も趙雲の心を疼かせる想い出であるといえた。 それは、劉備がまだ荊州の劉表のもとにあって、新野城の代官を務めていた頃のこと。 趙雲は、ひとりの女人と激しい恋におちる。が、それは許されざる恋であった。なぜなら趙雲が愛した翠蓮という女性は、劉表の家臣楊某の妻だったからだ。 妻といっても側女にすぎず、主からひどい扱いを受けていた。そんな翠蓮の身の上に同情した趙雲の気持ちが、いつしか愛情へと変わっていったのも自然な成り行きだったといえる。 だが、事はそのままでは済まなかった。妻の不倫に気付いた楊が、怒りにまかせて二人を殺そうとし、反対に趙雲に斬り殺されてしまったのだ。 劉表の庇護を受けている劉備にとって、部下である趙雲の不始末は命取りにもなりかねなかった。それでなくても、劉表の家臣の中には、劉備が荊州を乗っ取ろうとしているとして警戒する者、その人望の大なるがゆえに不安を抱く者も多くいたのである。 血気ゆえの過ちか――。 我にかえった趙雲は、自己の失態の大きさに愕然となった。 責任を負って自害しようとしたかれを押し止どめたのは、ほかならぬ主君劉備玄徳だった。劉備の奔走によって、この事件は表沙汰にならずにおさまり、趙雲もまた武士の面目を保ち得たのだった。 それ以来、かれは、愛する女人の面影を胸に思い描くことすら罪悪であると固く自分に戒めて、二度と翠蓮に逢うことはなかった。 (俺は、そなたを哀しませることしかできなかった……) もう、想い出の中でしか逢うことのできない女の、寂しげな笑顔を思い浮かべる度に、趙雲の胸は激しく痛んだ。 ひとを愛したのは、おそらく、あれが最初の最後ではあるまいか。 窓の外では、ようやく暗さを増した空に、ひとつふたつと星がまたたき始めた。 立秋も近い。趙雲の館でも、家僕たちが、ささやかながら七夕の宴の準備を整えている。 趙雲は、幼い頃に母から聞いた七夕の伝説を思い出していた。 愛し合う男女が、天帝によって遠く隔てられ、一年に一度、七夕の夜だけ逢うことを許されるという悲しい恋の物語。 (一年に一度でも……そなたに逢うことが叶うのなら――) 牽牛と織女の二人が、うらやましくさえ思えるのだった。 その夜、寝苦しさに転々としていた趙雲は、にわかに部屋の中に涼風が吹き渡るのを感じて目を開いた。 寝台の横に立って、自分を見下ろしているぼんやりとした影。 影はしだいにはっきりとした輪郭になり、趙雲のよく知っているものの姿になった。 懐かしい笑顔。 ――翠蓮? 「これは、夢か?」 思わず口をついた問いに、翠蓮は穏やかに微笑してうなずいた。 「夢でもよい。そなたは、私に逢いにきてくれたのだ。私はそなたに何もしてやれなかったのに」 (子龍さま、わたくしのことを、今でもそれほどまでに想ってくださっているのですね。うれしゅうございます) 彼女はしゃべってはいない。それなのに、趙雲の耳には、懐かしい声が確かに聞こえる。 (でも、いつまでも、ご自分をお責めにならないでください。わたくしは、あなたさまに会えた、それだけで幸せでした。どうぞ、これからはご自身のこと、趙家のことを第一にお考えくださいまし) 「殿の話を受けよと?」 (そのお子様たちにお会いなされませ。わたくしからもお願いいたします。きっと、よいご縁になりましょう――) 翠蓮は、それこそ蓮の花が開くように微笑むと、次の瞬間、淡い光の中に溶け込むように趙雲の視界から消えてしまった。 |
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