いにしえ夢語り浅葱色の庭言の葉しずく



平助くんと私の六十日間


[7]

その夜、私と平助くんは、ひとつのベッドの中で、初めての幸福な時間を過ごした。
「俺で、いいのか?」
「ん………」
真剣なまなざしで尋ねる平助くんに、私は黙って小さくうなずく。恥ずかしくて、まともに彼の顔を見られそうもない。
「大丈夫。怖くないから」
耳元で囁かれた言葉を、頭の中で何度も繰り返し、私は平助くんの腕に身を委ねた。彼の指と唇が、一枚一枚はがすようにして、私の全身から羞恥と恐れを拭い去っていく。
それからのことは、あまりよく覚えていない。
平助くんの愛撫はとても優しくて、そのくせ情熱的で、私は彼の激しさに何度も声をあげそうになった。
――ただ、うれしくて。とても幸せで。
このひとときだけは、彼が過去の世界からやってきた人だという事実を忘れることができた。

濃密な抱擁が終わった後も、平助くんは、ずっと私をその腕の中に包んでいてくれた。
(人って、幸せすぎると、涙が出ちゃうんだ――)
そんなことさえ、知らなかった。
目尻を伝った涙が、ほろりと彼の腕に落ちた。私の涙に気づいた平助くんが、心配そうに顔をのぞき込む。
「花梨。ごめん。痛かった?」
「……ううん。違うの」
そうじゃなくて、と私はあわててかぶりを振る。
「うれしくて――」
その気持ちをきちんと言葉で伝えたかったのに、また新たな涙があふれてきてしまう。言葉の代わりに、私は平助くんの背中に回した腕にぎゅっと力を込めた。
「花梨はあったけえな」
狭いベッドの中で平助くんが体の向きを変えると、長い髪がさらさらと肩をすべり落ちた。素肌の触れ合ったところが、ゆるやかに熱を帯びていく。
「花梨に泣かれると、俺も胸がこう、きゅっと痛くなるんだ。だから花梨には、いつも笑っててほしい」
そう言いながら、平助くんは照れくさそうな笑みを浮かべる。
なんてきれいな眸で笑うんだろう、この人は。
さらに、今まで気づかなかったけれど、平助くんの体にはたくさんの刀傷の痕がついている。
背中、肩、腕、太股、胸……。
そのひとつひとつが、京での苛烈な戦いの記憶なのだ。
私は、平助くんの胸に残された傷痕のひとつに、そっと唇を押し当てた。
(温かいのは、平助くんだよ。平助くんの優しさだよ)
そして私たちは、ようやく浅い眠りに落ちた。

幸せなまどろみから目覚めた時には、すでに窓の外が白み始めていた。
私が身を起こすと、隣に寝ていた平助くんも目を開いた。
まだ夢の中にいるような表情の彼に向って、私はそっと問いかける。
「ねえ、平助くん、元の世界で好きな女の人はいた?」
「え? なに?」
質問の意味が理解できなかったのか、しばらくぼんやりと考えていた平助くんだったが、やがてベッドから起き上がると、大真面目な顔で言った。
「俺、一応24(数え年)なんだぜ」
「うん」と私。
「立派な大人だろ?」
「うん」
「あっちにはさ、遊郭とかもあって」
「うん」
「だから、その、お前が初めての女ってわけじゃねえけど」
「うん」
「………」
何を言っても、私がにこにこしているものだから、とうとう平助くんは言葉に詰まって沈黙してしまった。
「そうじゃなくて。本当に大切にしたいと思うひとはいた?」
あの時代、平助くんの年齢なら、十分すぎるほど一人前の大人だということは分かっている。だから、私が彼にとっての最初の女性ではなかったとしても、全然ショックじゃない。それよりも私が知りたいのは、彼が過去の世界で本気で愛したひとがいたかどうかだった。
――決して嫉妬ではなく。
もし、そういうひとがいたのなら、突然会えなくなって、平助くんはきっと寂しい思いをしている。相手の女性だって、訳が分からずに悲しんでいるに違いない。
そこまで考えて、私は胸の芯がちりちりと痛むのに気づいた。
(あ。これって、やっぱり嫉妬なんだ。私って、なんて嫌な女なんだろう)
あんなこと聞かなければよかった、と後悔したが、もう遅い。不躾な私の問いに、平助くんは、遠くを見つめながら、ぽつりぽつりと答えてくれた。
「いいなぁと思う女はいたさ。土方さんほどじゃないけど、これでも俺、結構もてたんだぜ。京へ来てからは、島原や祇園へもよく通ったし。恥ずかしい話だけど、人を斬ると、心が高ぶって無性に女を抱きたくなるんだ。馴染みの女も何人かいたしさ。だけど……」
突然まっすぐな視線を向けられて、私の心臓はどきんと音を立てた。
「そういうのは、花梨が言ってることとは違うだろ?」
「………」
「俺が、この手で守ってやりたい、命をかけても、って思ったのは――」
私を見つめる緑色がかった眸子が、ふいに優しい色を帯びる。
「お前が初めてだ」


私はこれまで、平助くんのことを他人にしゃべったことはない。
彼の周りに余計な雑音を立てたくなかったし、第一、本当のことを話しても、誰も信じてくれないだろう。
ただ一人だけ、同じゼミの友人である工藤麻実に打ち明けたことがあった。冬休みが明けて、まだ間もない頃だ。
麻実は、オカルト研究会という妖しげなサークルを主宰していて、他の級友たちからは変人扱いされていたが、不思議と私とは馬が合う。彼女なら、突然こういう話をしても驚かないだろうし、何より口が堅くて信頼できる。
大学近くの喫茶店で、これまでのいきさつを話すと、案の定、麻実は目を輝かせた。
「へええっ。そんなことがほんまにあるやなんて、びっくりやわ」
「信じてくれるん?」
「信じるも何も、花梨がそう言うんやったら、そうなんやろ」
ウエーブのかかった栗色の長い髪にデコラティブなリボン、ゴスロリ風の黒いワンピースが色白の肌によく似合う。ちょっと近寄りがたい雰囲気を漂わせた麻実は、縁なしメガネの奥の眸子を細め、かすかに微笑した。
「こんな話、自分でも信じられなかったんだよ」
「でも、今は信じてる。やろ? その平助くんが、ほんまに幕末からタイムスリップしてきた人や、ていうこと」
「――うん」
「じゃあ、きっとそうなんよ。花梨、自分の心にもっと自信持ってやらんと」
私は、麻実に相談してよかった、と思った。ひとりで抱えるには重すぎる秘密だった。こうして誰かに聞いてもらえるだけで、少し心が軽くなったように感じる。
麻実の言葉は、カウンセリングの先生みたいに、不安と緊張でガチガチになった私の心を、緩やかに解きほぐしてくれるのだった。

「はあぁ。それにしても、何で、こんなことになっちゃったんだろ」
口に含んだホットココアの甘味を舌の上で転がしながら、私はため息をついた。
「うーん。本人に会ったことないからはっきりとは分からへんけど……。たぶん、その平助くんと花梨の波長が、何かのきっかけでシンクロしたんやね」
麻実の視線が自然と鋭くなる。
「平助くんは、油小路へ行く途中でものすごく迷うてたんやろ? 元の仲間と斬り合わないかんということに対して。行かなあかん、けど行きたくない、その迷いの気持ちが、花梨の思念に呼び寄せられたんとちゃうかなあ。現実逃避っちゅう形で」
確かに、あの時自分は迷っていた、と平助くんは言っていた。
だけど、そんなことで、人間が時間を飛び越えたりするものなのだろうか。
私の控えめな抗議に対して、麻実はやれやれといった顔でレモンティーを口に運ぶと、
「何でもすべてが理論で説明つくわけやないし。せやからオカルトっていうのは面白いんよ」
と、子どもをあやす母親のような笑みを浮かべた。
そんな麻実の笑顔に勇気付けられ、私は思い切って、一番聞きたかったことを口にした。
「もしそうだとして、平助くんが元の世界に戻ろうと思ったら、どうしたらいい?」
「せやなあ。何が何でも俺は、あの場所に行かなあかんねん、そういうめっちゃ強い意志があったら、戻れんのとちゃう? まあ、何かきっかけみたいなもんは、いるかもしれへんけど」
そこまで言ってから、麻美は両手を顔の前で組み、軽く目を閉じた。
「それと、あと花梨もな」
「え? 私?」
言われた意味がわからない。
麻実は目を開けると、人の心の深淵まで見透かすようなまなざしを私に向けた。
「そう。肝心のあんたが、いつまでも平助くんをこの世界に繋ぎ止めとこうと思てたら、彼にいくら強い意志があってもあかんのやないかなあ。花梨も一緒に、その平助くんって子を元の世界に戻してあげたいって、心の底から願わんとあかんのとちゃう?」

麻実と私の間に、深い沈黙が横たわった。
重苦しい空気を破ったのは麻実だった。
「なあ、改めて聞くけど、あんたは正直、どない思てんのん? 平助くんを、彼の世界に還してやりたいって、本気で思うてる?」
「そりゃあ、もちろん……思ってる、よ」
なんだか言葉がうまく繋がらない。眼鏡の奥の麻実の眸子が、ふっと柔らかくなる。
「相変わらず嘘つくの下手やねえ、花梨は」
麻美に見つめられて、私は視線を落とした。
「分かってるの。このままじゃだめなんだろうなって。だって、彼は、140年前に油小路で死んだ人なんだもの。その事実は変えられないでしょ?」
「確かに、死んだはずの人が現代にタイムスリップして生きてる、ってことになったら、過去に存在してたはずの藤堂平助くんはどないなってしまうんやろね? もしかしたら、幽体離脱みたいに、今花梨と一緒にいてる平助くんは実は幻みたいなもんで、現実の彼は、やっぱりその夜に死んでしもてるんやろか。それとも、藤堂平助っていう存在自体が過去の世界から消えてしもてるとか。せやけど、ほんまに、そんなこと許されると思う?」
「歴史は……変えられないよね」
つまりは、そういうことなのだ。
私自身、この奇跡はきっと期限付きのもので、いつか平助くんは元の世界に戻ってしまうのだろうと、薄々気づいてはいる。ただ、そのことをはっきりと認めたくないだけなのだ。
――覚悟が、足りない。
そんな私の甘さを、麻実はきっと見抜いているのだろう。
私は、ぎゅっと唇を噛みしめた。
「花梨には酷かもしれんけど、ほんまに平助くんのことを思うんやったら、彼を、彼のいるべき世界に還してやらなあかんと、うちは思うわ」


あの日、麻実に言われたこと。
あの時は、できると思っていた。やらなきゃいけないんだ、と思った。
平助くんを、平助くんのいるべき世界に還すこと。
だけど、それって――。
平助くんが死んでしまうということなんだ。
元の世界に戻ったら、あの夜、彼は油小路で殺されてしまう。夢で見たみたいに。
本当に、それでいいの?
こんなに平助くんのことが好きなのに。彼の隣にいるだけで幸せなのに。
もう二度と彼に会えなくなっても、いいの?
私。私は……。
どうすればいいんだろう――。


<8 に続く>

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