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夢を継ぐ者(前編)


[1]

その日、突然私のもとを訪れたそのひとは、印象的な澄んだ眼で私に語りかけた。
「姜維どの。私が出陣した後は、丞相のこと、よろしくお願いいたします」
胸に染み込むような声でそれだけを言い、かれは来た時と同様、静かに幕舎を出て行った。
これまでは、互いに顔を合わしても、会釈をする程度で親しく言葉を交わしたこともない。思いがけない申し出に、返す言葉もすぐには見つからず、私は黙って後ろ姿を見送った。
静かなまなざしの中に、懐かしむような温もりを感じた気がしたのは、私の思い過ごしだったろうか。

馬謖幼常――。
それがかれの名前だ。
蜀漢の丞相諸葛亮孔明にその才を愛され、常に側にあって数々の難局を乗り越えてきた。自他ともに、諸葛丞相の後継者として認められた逸材だという。蜀漢に仕えるようになってからまだ日の浅い私にとって、馬謖幼常の名は、まぶしく、またかすかに苦い存在でもあった。
その馬謖が、諸葛丞相と蜀全軍の期待を一身に負って、街亭の守りに赴くことになった。かれが私のもとを訪れたのは、出陣の前日である。多忙な準備の合間をぬってのことだったにちがいない。

◇◆◇

蜀漢の先帝劉備玄徳の遺志を継いだ諸葛亮孔明が、何年もかけて周到な計画を練り、準備を重ね、ついに魏討伐の軍を起こしたのは、蜀の建興五年のことである。
蜀漢の命運を賭けた北伐は、当初順調に展開した。またたく間に南安、天水、安定の三郡を平定した蜀軍は、翌年には祁山に進出し、長安を窺う構えを見せた。

魏の中郎将姜維伯約は、このとき、太守とともに天水を守っていた。だが、「蜀軍攻め来る」の報に恐れをなした太守は、あろうことか姜維ら部下を残して城から逃げてしまったのである。しかも姜維には、謀反の疑いまでかけられていた。
進退きわまった姜維は、やむなく蜀の軍門に降る。自分と行動を共にした部下の命を助けんがため、あえて縄目の恥辱を受けたかれは、やがて丞相諸葛孔明の前に引き出された。
(即刻打ち首は覚悟の上──)
だが、足元に引き据えられた敗残の将に向かい、意外にも孔明はこう言ったのだ。
「姜維とやら。蜀に降り、私を輔けてはくれぬか」
「何と――?」
「私の夢をそなたに語りたい……。そなたなら、ともに同じ夢を語れるのではないかと、そう思ったのだ」
おだやかな、それでいて強い意志を秘めた双眸が、じっとこの身に注がれている。姜維は、思わず頬が熱くなるのを感じた。
「孔明どの……」
それが、姜維と孔明の出会いだった。



(このお方にお仕えするために、私は生まれてきたのだ──)
確信といっていい。私はその瞬間、若者らしい感性で、この出会いを運命的なものだと信じた。二十七歳のこの日のために、今日まで生きてきたのだと。
主を裏切り、祖国を捨てるに至ったのには、それなりの経緯がある。だが、何を言っても言い訳にしかならないだろう。しかし、私は決して後悔していない。
敗残の将に対して、丞相は自ら縄を解き手を取り、自軍に招いてくださったのだ。自分の後を継いで蜀漢を支えてほしいとまで言ってくださった。
諸葛丞相こそ、この命を捧げるに足るただ一人の人だ。そのためなら、不忠不孝の汚名をも甘んじて受けよう──。

涙をぬぐうことも忘れ、私はまっすぐな瞳をそのひとに向けた。
「姜維伯約、今日よりこの命、孔明どのに捧げまする」
こうして、自分は蜀の人となった。あの日の心の泡立ち、決意の厳粛さを、私はまだ昨日のことのように覚えている。

◇◆◇

街亭は交通の要衝であり、関中深く進入した蜀軍にとって、生命線ともいえる場所だ。ここをもし魏軍に奪われるようなことになれば、補給路を断たれた蜀軍は撤退せざるを得なくなる。
馬謖が街亭守備の大任を命じられたことは、おおかたの予想を裏切っての大抜擢だといっていい。羨望と嫉妬。期待と不安。諸将の視線が、かれの全身に痛いほどにつきささる。
さらに――。
「街亭を守り抜けば、そなたの軍功を第一としよう」
軍議の席で馬謖に向けられた丞相の言葉は、皆を驚かせた。
「これは、そなたに与えられた試練じゃ。将の中には、若さゆえにそなたを軽んずる者がいることは、そなたも知っておろう。だが、儂は馬謖幼常こそ、この諸葛亮の後を継ぐに足る唯一の男と思うておる──」
「丞相……。かたじけのうございます。この馬謖、必ず――必ず、丞相のご期待に添い奉ります!」
馬謖は感涙にむせび、勇躍出陣していった。その後ろ姿が、いつしか自分の幻影に重なる。
あれが、私だったなら。自分が、丞相に選んでもらえたのであれば。
(丞相のためなら、あらゆる困難を排し、命をかけて任務を遂行しよう)
私もきっと、馬謖と同じ顔をしているにちがいない。
ふと、胸がしめつけられるような気がした。これは、悋気(りんき)だろうか――。

馬謖を送り出して以来、丞相は落ち着かない様子だった。
「伯約──。儂の決断は正しかったと思うか?幼常は大丈夫だろうか」
「馬謖参軍のことならご心配にはおよびますまい。必ず街亭を守りきられましょう」
出陣の前夜、私の幕舎を訪れた馬謖の双眸には、一点の曇りもなかった。丞相の選択に誤りはない、この人こそ誰よりも適任だと、あのとき私は確信したのだ。
──街亭は砦もなく、攻めるに易く守るに難い場所じゃ。そなたは街道を守ってじっと動かず、ここを死守することだけを考えよ。
丞相の指示に何度もうなずいていた馬謖の顔が、今も目蓋に残っている。自負と誇りにあふれた、あの眼。そう、あれは私自身の眼でもあるのだから。

「どれほど完璧な策を立てたとしても、すべてがその通りに運ぶとは限らぬ。まして相手は、魏随一の策士司馬懿仲達ぞ。その時、幼常はどう切り抜けるであろう?」
「………」
「言葉が足りなかったかもしれぬ。すぐに伝令を――。いや、あの者に限ってそのようなことは……。ああ、誤らねばよいが」
まるで幼子を気遣う老親のようだ。
丞相の祈るような思いが否応なしに伝わり、私の心はまたちりちりと痛んだ。

◇◆◇

やがて――。
恐れは現実のものとなった。
魏に先んじて街亭に着いた馬謖は、何を思ったか孔明の指示に背き、街道脇の高地に陣を張った。そして、魏軍に包囲されて水を断たれ、ほとんど戦闘らしい戦いもできぬまま全滅したのである。
街亭からの悲報が届いたとき、孔明はひとり幕舎の中にいたが、取り次いだ者がいぶかるほどに冷静だった。
大事を聞いて続々駆けつけた武将たちの前でも、とくに慌てる様もなく、粛々と漢中撤退の指示を出し続けた。
だが、感情を押し殺した怜悧な顔の下で、孔明の心は、今にも張り裂けんばかりに嘆き、血を流していたのだ。

(幼常よ――)
(そなたほどの者でも、軍令を誤ることがあるというのか)
(――なぜ、儂の命に従わなかったのだ?)

どれほどの後悔、どれほどの悲嘆を重ねても、こぼれた水はもとには戻らない。
気が遠くなるほどの準備を積み重ねて、ようやくここまできた孔明の悲願は、馬謖の信じがたい失策によって霧のように瓦解してしまった。街亭に向かった軍は散り散りになり、指揮官である馬謖の生死さえわからぬ有り様だった。


――なぜだ?

(あなたはあのとき、丞相の言葉にあれほど真剣にうなずいていたではないか。命がけで任務を全うすると誓ったではないか)
全軍があわただしく撤退の準備に追われる中、丞相とふたり、黙々と軍関係の書簡を燃やしながら、私は腹立たしくてならなかった。馬謖の失態は、丞相に対する裏切りではないか。

黙って炎を見つめていた丞相が、急に私の方を振り向いた。
「私は今、どんな顔をしている?」
「は――?」
いつもと変わらぬ冷徹な軍師の顔だ。
唐突な問いに戸惑いながらも、私がそう答えると、丞相は深いため息をつき、寂しげな微笑を浮かべた。
「以前は、幼常によく同じことを聞いたものだ。先帝に諫言したとき、戦に行き詰まったとき、先帝が亡くなられたときも……。それに対する幼常の答えは、いつも決まって同じだった。――哀しくとも、悩みが深くとも、丞相は常に、常のままでいらせられませ、と。その言葉に支えられて、ここまできた」

「今はもう、泣きたくても涙が出ぬのだ」
炎が揺れ、丞相の顔に刻まれた陰影も静かに揺らめく。その明暗の中で、丞相の双眸は、澄んだ泉のように静謐だった。
(このお方は、泣きたいときに泣くこともできないのか――)
私の中に、突然、自分でもどうしようもない激情がせき上げてきた。
「丞相!私なら……、丞相に好きなだけお泣きくださいと答えまする!」
きっと、少年のような顔をしていたのだろう。
丞相は、温かいまなざしで私を見つめ、やわらかく笑った。
「伯約は、優しいのだな」
「………」
「その気持ちだけを受け取っておこう。わかっておるのだ。私が泣いていては、皆が困るであろう。それに、泣く暇があるのなら、次の手を考えねばならぬ」

◇◆◇

撤退――。
将士も兵たちも一言も発せず、重苦しい空気の中、私たちは漢中へ引き上げた。蜀の桟道と呼ばれる険しい道だ。私にとっては、初めて辿る蜀への道だった。
唯一生き残った五虎大将のひとり趙雲将軍とともに、私は志願して殿軍(しんがり)を務めた。それが、丞相のために、今自分ができる唯一のことだと思えたのだ。
追撃してくる魏軍を相手に、幾たびか死線をくぐりながら、しかし私はこの戦を楽しんでいた。皆に軍神とたたえられる趙雲将軍を間近に、ともに戦うことができたのだから。
将軍はもうすでに五十半ばを超えていたが、戦場ではまったく老いを感じさせない見事な戦いぶりで、常に敵味方の双方を圧倒した。

「趙将軍――」
秦嶺山脈を越え、ようやく一息ついた夜営でのひととき、隣に座った趙雲将軍に、私はおずおずと声をかけた。
「将軍は、馬謖参軍をよくご存じでしたか?」
「それほど親しかったわけではないが……」
厳しい武人の顔を崩さず、将軍は遠くの稜線へと視線を投げた。
「奇をてらうところがあったやもしれぬな。時にはじけるような才を見せたが、裏付けとなるものが少ないように思われた。しかしそれも、白眉とたたえられた兄馬良どのを越えたい一心だったかもしれぬ」

馬謖には五人の兄弟がおり、皆字(あざな)に常の文字がついていた。五人とも秀才の誉れ高かったが、中でも馬良の才が一頭地を抜いていたという。丞相とは荊州以来の刎頚の友であり、その信任も厚かったというが、その馬良はもうこの世にはいない。先帝が呉に出兵し、大敗を喫した夷陵の戦いに、かれもまた帰らぬ人となっていたのだ。
馬謖は、どうあがいても自分が兄に遠く及ばないことを知っていたのだろう。それゆえに、奇をてらい、弁舌を巧みにして、自分を大きく見せようとしたのかもしれない。
「馬謖は馬謖で、何とかして丞相の役に立ちたいと願っていたのだろう」
「しかし、私は許せません!今回のことは……」
焚き火の炎に照らされた趙雲の横顔に、暗い翳がさした。
「姜維どの。ご辺は、人に期待されることのつらさを知っておるか?」


期待されることの、つらさ――?
私には、趙雲将軍の言葉の意味がわからなかった。
期待され、信頼を寄せられることは、誇らしく喜ばしいことではないのか。
今まで、ずっとそう思って戦ってきた。
少しでも、人から期待され、信頼を寄せられる男になりたい、と。

では、私がもし馬謖だったら?
何としても丞相の期待に応えたいと思う。応えなければ、と焦ったかもしれない。
万一その期待を裏切ってしまったとしたら、どれほどわが身を呪い苛むことだろう。
それが、将軍の言う「つらさ」なのか……?


「丞相は、馬良どのの才は高くかっておられたが、気持ちとしては、むしろ兄上よりも馬謖の方を愛しておられたようだ。馬謖とて、むろんそのことはわかっていたはず。それゆえ、期待に応えたいという思いは、人一倍強かったのではあるまいか」
そこまで言ってから、将軍は空を仰いだ。風もなく、静かな夜だった。中天にかかる銀河が降るようだ。
おそらく趙雲将軍も、これまでずっとその重圧に耐えてきたにちがいない。先帝の、あるいは諸葛丞相の、さらにはすべての蜀軍将兵の期待と信頼を一身に受けてきたかれには、馬謖の心が手にとるようにわかったのだろう。
「今、誰よりもつらく惨めな思いをしているのは、きっと馬謖だと思う。生きておればの話だが」
いつの間にか、火が小さくなり、消えかけている。私はあわてて薪を継ぎ足した。
「これからは、ご辺がそのつらさに耐えねばならぬ番だ」
「………」
「馬謖に替わって、これからはお主が丞相を支えてさしあげてくれ」
将軍の分厚く大きな手が、私の肩をぽんと叩いた。その手の温もりが、胸の奥深いところまで沁み込んでいく――。
「はい。姜維伯約、この命にかえて必ず――!」
将軍の顔を真正面から見据えた私は、自分でも驚くほどの声で答えていた。

<後編に続く>

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