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夢を継ぐ者(後編)


[2]

蜀軍が漢中へ撤退してから半月ばかりたったある日。夜も更けた頃、人目をはばかるように姜維の館の門をほとほとと叩く男の影があった。
「あなたは――!」
「姜維どの、笑ってくれ。私は死ぬために、ここに戻ってきたのだ」
乞食のような身なりで、すっかり面変わりしていたが、それはまさしく馬謖幼常そのひとだった。
「生きて……おられたのですね」
「死ぬ前に、どうしてもお主と話がしたかった」
「馬謖どの――」
姜維は穏やかな眼で微笑した。
「それがどのような話であれ、私を相手に選んでくださったことをうれしく思います」

姜維は、急いで馬謖を邸内に招き入れると、家人に命じて湯をわかし、何よりもまず、逃避行に疲れきった馬謖の身体を癒させた。馬謖を抱えるようにして湯殿に入ったかれは自ら垢と埃に汚れた体躯を洗い清めた。
「姜維どの、何を――?」
「遠慮はいりません。ご自分の家だと思ってください」
痩せた身体のあちこちに、生々しい傷痕が残っている。主も客も、何も問わず、何も答えず……。そのひとつひとつをなぞるように拭いながら、いつしか姜維は声を殺して泣いていた。
「――お主は、泣いてくれるのか?この愚かな男のために」
「私は悔しくてなりません。なぜあなたが、あのような誤りを犯したのか。丞相の志を、またその思いを、誰よりもよく承知しているはずのあなたが……」
「俺にも分からぬ。気がついたら、すべて終わっていたのだ」
あの戦場からどうやって逃げることができたのか。それすら馬謖は、さだかには覚えていない。自分を逃がすために、何人の部下が犠牲になったのだろう?
混乱した意識の中で、ただひとつ、はっきりと分かっていることがあった。
何としても生きて漢中に、孔明のもとに帰ること。そして、己の死をもって敗戦の責を償わねばならぬということ。それだけだった。



「今宵は、お主と語り明かしたい」
馬謖は、立っていることもできないほどに疲労困憊していたが、決して眠るとは言わなかった。かつて、しばしば丞相と夜を徹して議論したという昔日のままに、その夜のかれは饒舌だった。
兄馬良のこと、家族のこと、先帝の思い出、丞相と過ごした日々。そして、今はもう砕け散ってしまった遠い夢――。

「私はうぬぼれていたのだな。丞相の描く夢を、私もともに見ることができると思っていた。先帝から託された大いなる志を現実のものとする、私もその一助になれるかと。だがそれは、とんでもない思い上がりだった。……私は兄にはなれぬ」
「馬良どのですか?」
「どれほど努力しても、私は兄には及ばない。どんな難しい役目でも、兄は軽々とこなしたものだ。丞相の期待にいつも見事に応えてみせた。私もそうなりたかった。いつかなれると思っていた……。だが、私は兄とは違う。違うのだ!」
馬謖の眼に涙がにじんだ。後悔と、慙愧と、怒り、悲しみ――。抑えきれない感情が次々にあふれ出て、やつれた頬を濡らしていく。
「兄上の替わりとしてではなく、馬謖幼常としての自分を丞相に見てもらいたいと、私はいつもそう願ってきたような気がする――」
馬謖が兄に対してどのような感情を抱いていたか、他人である私にわかるはずもない。だが、かれはおそらくずっと、魂の奥底に隠すようにして抱え続けてきたのだろう。言葉にできない葛藤、憧憬と嫉妬、挫折や痛みといったものを。

「お主を初めて見たとき、私は兄が戻ってきたのかと思ったぞ」
「どういうことです?」
「お主のその眼、兄上にそっくりだった」
蜀軍の司令部で初めて会ったとき、馬謖は一瞬絶句し、いぶかしげに私の顔を見つめていた。あのときは、なぜかれがそんな表情をしたのかわからなかったが。
「お主の眼を見て、私は納得したよ。なぜ丞相が、我が後継者を得たと言われたのか。やっと丞相は見つけられたのだ。兄に替わって、同じ夢、同じ志を語れる人物を。姜維伯約という男をな」
「馬謖どの……」
「これからは、お主が丞相を支えてくれればいい。それで、私は心置きなく死ぬことができる」
兄に替わって、と馬謖は言った。なぜ、自分に替わって、と言わないのか?兄馬良とは、そして私という存在は、かれにとってそれほど大きなものだったのか?
その時初めて、私は馬謖の中の深い闇を見たような気がした。
「もしや、あなたが街亭で策を誤ったのは、私のせいではありませんか?」
「………」


あのとき。
確かに俺は、自分でもわからなかった。
なぜ、丞相の指示通り街道に陣を張らなかったのか?
なぜ、一気に敵を殲滅しようなどと大それたことを考えたのか?

――勝ちたかった、丞相のために。
はたして、それだけか?
見事な勝利をおさめて、丞相の賛辞を得たかったのではないのか。
やはり私の後継者はお前しかいないと、そう言ってもらいたかったのだ。

怯えていたのか、俺は――?
丞相の関心が、姜維伯約という若い武将に移ることを。
新参者のかれに、兄と同じ眼をしたあの男に、負けるわけにはいかなかった。
だから……?


「――いや。お主のせいなどではない。それに、たとえお主の存在が私の心に何らかの影響を与えていたとしても、それは、私自身の問題だ」
馬謖は、口元に自嘲めいた笑みを浮かべると、遠い眼をした。何のよどみもない、哀しいくらい静かなまなざしだった。
「だからこそ、私自身の手で、その始末をつけねばならん」
馬謖の笑顔は透き通るようだった。
かれの気持ちは分かっている。
「あなたは、死ぬためにここに戻ってこられたのですね」
「それが、丞相のために、今の私にできる唯一のことだと思っている」
国家の命運を賭けた戦に失敗したのだ。宮廷はもとより家臣から民衆に至るまで、負担が大きかっただけに、敗戦による落胆もまた計り知れない。今ここで、誰かがすべての責を負わなければ、いずれその不満は諸葛丞相に向けられるだろう。

――だから、あなたがその贄(にえ)になるというのか!

「何を言っても、言い訳にしかならぬ。私はもう、誰にも何も語るつもりはない。ただ、お主にだけは聞いておいてほしかったのだ。私のわがままだと笑ってくれていい」
馬謖の言葉を耳にしたとき、私の中ではじけるものがあった。
――何を言っても……。
(それは、あの日の私の思いだ。諸葛孔明という運命のひとに出会い、魏を捨てて蜀に降ると決意したあのときの)
ああ、そうなのだ、と私は素直に納得した。
(あなたは、一言の申し開きをすることなく、逝かれるのですね。運命がどのように過酷なものであろうと、黙ってそれを受け入れられるのですね。……それでは、もう、私にできることは何もない――)

◇◆◇

斬――。
蜀漢の文武百官が見守る中、馬謖の刑は執行された。
多くの家臣が助命を嘆願したが、丞相は頑として首を縦に振らなかった。それが、馬謖に手向けられる精一杯の餞(はなむけ)であることを、誰よりも承知していたのだろう。
(刑場では、あれほど毅然としておられたのに……)
自室に戻ってきた丞相の憔悴しきった顔を見たとき、私はかすかな戦慄を覚えた。
「丞相――」
「伯約か。私は今、どんな顔をしておる?」
声が震え、血の気の失せた顔は幽鬼のように蒼白だった。このまま昏倒してしまわれるのではないかと、不安になるほどに。こんな表情の丞相は見たことがない。だが、私の口をついて出たのは、かつて馬謖が丞相に言ったのと同じ言葉だった。
「丞相は、常に……、常のごとく、おわさねば……なりません」
「そうか。そうだな。そなたの言うとおり――」
突然、堰を切ったように、滂沱の涙が丞相の目蓋を溢れ出た。
「私が、幼常を、殺したのだ!」
肺腑をえぐられるような叫びだった。
「助けようと思えば、助けられた……のに。すべての責を幼常ひとりに押し付けて、私はぬくぬくとこうして生きておる」
「いいえ、丞相。馬謖どのは己で死ぬことを選ばれたのです。それだけが、丞相のために、今の自分にできる唯一のことだと申されていました。その気持ちを分かっておられたからこそのご処断でありましょう。ならば、お泣きになってはなりません。後ろを振り向かれるべきではありません。馬謖どのは、命尽きる最期の瞬間まで、丞相のことを案じておられたのです!」
「幼常……」
「私の先ほどの言葉は、馬謖どのの言葉だとお思いください。馬謖どのは、血を吐くような思いで、私に己の夢を託されました。そしてその夢は、私の中に、今も馬謖どのとともに生きております」
「馬謖の夢、か……。幼常は、そなたにそれを語ったのか?」
「はい。漢中へ戻られた夜に我が家をお訪ねになり、一晩語り明かしました」
「そうであったか」
丞相は私を誘い、庭へと続く回廊に出た。
立ち木の奥、山の端をぼんやりと染めて、遅い月が昇っている。
あの夜、死を覚悟した馬謖が、どんな思いで私の館を訪れたのか、その心中は察するに余りある。かれは、私にすべてを託したのだ。おそらくは、一番負けたくないと思っていたその相手に。
私が馬謖から託されたもの。私は包み隠さず丞相に伝えた。かれが最後まで夢見た、ただ一つの願いを。


一度だけ、丞相が私に話してくださったことがある。夷陵の敗戦で兄馬良が死に、先帝が崩御なされたすぐ後のことだ。

「馬謖幼常。そなたは、人の夢を笑えるか?」
「は?」
「この孔明がそなたよりまだ若かった頃、私に人の夢の美しさを教えてくれた方がおられた」
「劉備……玄徳さまですね?」
「この世に、今のこの乱世に、これほど純粋な思いを持ち続けている方がいるということに、私は驚き、そして心打たれた。地位も権力も持たぬ男が、天下を憂え、民草を思う。国家の平安とすべてのひとの幸福を願い、己が手でそれを成し遂げんとする。たとえ、どれほど身の程知らずな夢であったとしても、それを信じる者がいる以上、誰にもそれを笑うことなどできぬ。――玄徳さまの語る夢は、瑠璃のように儚く、そして美しかった。その頃何かに飢(かつ)え、何かを求めていた私の心は、その美しい夢に秘められた熱い志に、激しく魅了された」
丞相の語る夢――。それこそが、私にとっては瑠璃の夢だった。私は憑かれたように丞相の話に引き込まれていった。
「それ以来、私もともに、その夢を追い続けて来たのだ。だが、私に夢を語り、進むべき道を指し示してくださった方は、もう……」
丞相の声は悲痛だったが、その眼は濡れていなかった。常のごとき顔で、私の心の奥底に語りかけてきた。
「玄徳さま亡き今、その夢を継ぐ者は私しかおらぬ。どれほど険しい道であろうとも、私は進まねばならぬのだ。そして、そなたにも、同じ夢を継いでもらえたら、と思っている」

(たとえ、どれほど身の程知らずな夢であったとしても――)
――では、私も信じてよいのですね。この美しい瑠璃の夢を。丞相に選ばれたのだということを。
そのときの歓喜、震えるような喜びを、私は終生忘れないだろう……。


「瑠璃の夢か――。ひとは夢を見なければ生きてはゆけぬのかもしれぬ。先帝も私も、見果てぬ夢を追い続けてきた。できることなら幼常にも、私と同じ夢を見、私を助けてほしかった……」
丞相の声は悲痛だったが、その表情はもはや取り乱してはいなかった。
「だが今となっては、詮無きこと。私にできることは、あの者が命を懸けて守ってくれたものをしっかりと受け止め、前に進むことだけだ」
常のごとく冷徹な眼で、はるか彼方の空を見据える丞相の高潔な姿に、私は思わずその場に拝跪した。
この方は、蜀漢にあって、常に独りそびえる巨人だった。ことに先帝が崩御されてからは、内治外交のすべてをその双肩に担ってこられたのだ。その重責、その孤独を、誰が理解しえただろう?
――丞相の重荷の万分の一でも、私に担うことができれば。その孤独をほんの少しでも癒してさしあげることができるのならば。我が身など何で惜しかろう?
「丞相。どうか私に、丞相の夢を継がせてください!」
私は憑かれたように叫んでいた。
「私が蜀に降ったあの日、丞相は、自分の夢を私に語りたいとおっしゃいました。この姜維、どこまで丞相のお力になれるか分かりませぬが、何としても丞相をお助けし、その夢をかなえる手助けをしたいのです。それが、馬謖どののただ一つの願いでもありましたから」
初めて――。本当に馬謖の心がわかった。かれに託されたものの大きさ、重さに、胸が震えた。後から後から、涙があふれて止まらなかった。


  私もまた、瑠璃の夢を見ているのだろうか。
  先帝が残した見果てぬ夢。丞相が託された大いなる夢。
  その夢を、私が継ぐのだ。
  馬謖が最後まで夢見た願い。その願いを、私は引き受けたのだ。
  どれほど身の程知らずな夢であろうと――。
  誰にもそれを笑うことなどできぬはず。

  私もまた、夢に殉じよう。
  かつてこの国の多くの男たちがそうしてきたように。
  最後の最後まで、決してあきらめぬ!
  たとえ我が命尽きるとも、信ずる心は誰にも砕かせぬ!
  私は、夢を継ぐ者なのだから。


長い時間、私は丞相とふたり、黙って夜空を見上げていた。静寂の中、満天の星が降り注ぐようにまたたいている。数刻前、天に昇ったあのひとの魂も、どこかで輝いているのだろうか。
馬謖――。あなたの思いが、天地にしみわたっていくようだ。


―――完
2004/11/5(リライト)

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