姜維立志伝 |
第一章 関中の風 |
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関中の風は熱い。そして、乾いている。 見渡す限り黄土の大地。その遥かな黄砂の波の上を、西域からの風が渡ってくる。 ここでは、風が歌を唄うのだ。 風が、泣いている――。 胸苦しさに目覚めた若者は、泣いているのが風ではなく、夢の中の自分だったことに気づいた。 (―――?) 悲しい夢を見ていた訳ではない。 起き上がった拍子に、目尻に溜まった涙が頬にこぼれた。慌てて手の甲で目蓋をぬぐったしぐさには、まだどこか少年の面影が残っている。 若者は、ひとつ大きな伸びをして、天を仰いだ。初秋の空の怖いほどに澄んだ青さが、目覚めたばかりの眼に突き刺さるようだ。 ◇◆◇ 擁州天水郡冀県。 中原を支配する漢民族と、北方、西方の異民族が、互いの勢力拡大を図ってせめぎ合ってきたこの辺りは、古来、両者の摩擦が絶えない。 ましてこの時、西暦二一七年。中国大陸は戦乱の只中にある。 後漢帝国は、すでに断末魔の叫びをあげていた。中央の混乱を背景に、数多の群雄が各地に割拠して覇を競い、戦火は燎原の野火のように、瞬く間に中国全土を覆い尽くしていった。 そんな混沌の中から、ようやく抜きん出た三人の英雄がいる。 後漢最後の皇帝となる献帝を擁して、中原に覇を唱えた「魏」の曹操孟徳。江南の地に、三代にわたって強固な地盤を築いた「呉」の孫権仲謀。そして、漢王室再興を旗印に、軍師諸葛亮孔明の献策をいれて「蜀」の地に拠った劉備玄徳。 天下統一をめざして、三つの勢力は互いに争い、時に裏切り、時に手を結びながら、権謀術数の限りを尽くした。世にいう三国時代である。 そういう時世であったから、魏領の西端に位置し、漢中を挟んで蜀と境を接する関中の地は、しばしば謀略と戦闘の舞台とならざるを得なかった。 ◇◆◇ ここは冀城から少し離れた小高い丘の中腹である。山肌にへばりつくようにして、荒れ果てた一宇の堂が建ち、その裏側はいくつもの巨大な岩盤が露出した崖になっている。 くだんの若者は、その巨石の上に仰臥して、高い空の、さらに上を流れる絹糸のような雲を見ていた。 眼下には、松の疎林越しに、茫漠とした関中平野の広がりが見渡せる。 (先年、成都に入って益州を得た劉備は、いずれ必ず魏攻略に乗り出してくるだろう。まず北の漢中を取って足場を固める。そしてこの関中に軍を進め、一気に長安を落す) 若者は、遥か南の地にいる、会ったこともない男のことを考えている。三年前、突如として成都の劉璋を降伏させて益州をその手に収め、今また、この魏の国をも脅かしている劉備玄徳という巨人のことを。 (さらに東は呉と結び、義弟関羽が守る荊州から洛陽を衝かせれば……) ――曹操は、支えきれぬ。 空を見据える双眸が熱を帯びた。 「俺が劉備の軍師諸葛亮なら、そうするところだが――」 独りごちてから、ふっと孤独な笑みを片頬に刷くと、若者は再び眼を閉じた。 心に屈託があるのだろう。端正な横顔は、心なしか憂いの翳を帯びて、その面差しを年齢よりも大人びたものにしていた。 結わずに束ねただけの漆黒の髪が風に揺れて、日焼けした肌に陰影を刻む。しなやかに引き締まった体躯は、日頃の鍛錬を偲ばせるに十分だ。 身に着けた衣服は決して粗末なものではなかったが、所々に繕いの跡があり、良家の子息とも見えない。ただ、秀麗な面貌ににじむ凛とした気品が、その血の気高さを物語っているようだった。 名を、姜維伯約という。 姜家は、天水郡に古くから続いた豪族の家柄で、代々漢室に仕えてきた。伯約の父姜冏も、郡の功曹という重職に就いていたが、伯約が九歳の時、西方異民族との戦いで戦死した。 後に残された母は、女手ひとつで息子を育てた。家長を失った暮らしは、決して裕福とはいえない。それでも、人並み以上の学問を学ばせ、武芸を励ましてきた。母は、ひとり息子の成長だけを見つめてきたのだ。 いま、その息子は十六歳である――。 午睡の夢から覚めた後、伯約は、胸の奥底から、何かしら抑えられぬ熱いものがふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。 母の望むとおり、学問を修めてこの地の官吏となり、亡き父の事績を継ぐ。父の死後没落してしまった姜家を再興し、母を守り、平和な家庭を成し……。それはそれで、ひとつの生き方だろう。 だが――。 乱世である。目先の平穏など、いつ嵐のような戦乱に吹き飛ばされるやもしれぬ。 それよりも、この動乱の世に男子として生を受け、もっとほかにやるべきことがあるはずではないか。 (劉備という男は、前漢景帝の子中山靖王劉勝の後胤だなどと称してはいるが、その実、タク県の田舎でわらじやむしろを作って生計を立てていた土民の出だという) 劉備玄徳の奇跡ともいうべき半生を思う時、伯約はいつも、胸が高鳴るのを覚えずにはいられなかった。 義勇軍として兵を挙げて二十数年、武運のなさか、戦っても戦っても拠るべき城も領土も持つことができなかった。そんな流浪の将軍劉備が、荊州の伏龍と称された天才、諸葛亮孔明を得てからというもの、呉と結んで赤壁に曹操の大軍を破り、ついには荊州と益州を有して一方の雄となったのである。 劉備の物語は、「万人の敵」と評された関羽、張飛、趙雲らの武名、さらに名軍師諸葛亮の名とともに、この頃すでに巷では伝説となり始めていた。 (乱世に生を受けた男なら、誰もが抱く夢だ) 泡立った心を抱えたまま、若者は、巨石の上にぽつねんと腰を下ろしている。 ◇◆◇ 再び、耳の横を乾いた風が吹き過ぎていった。松の梢がざわめく。 その時、伯約は、遠くこちらに向かって駆けてくる数騎の馬影を認めた。影は飛ぶように近づいてくる。 (おや?) いぶかしげに眼を細めたのは、先頭を行く馬上の巨漢が、何か大きなものを脇に抱えているのに気づいたからである。 それは、鮮やかな大輪の花のようにも見える。風に翻る、色とりどりの薄絹の帯。 絹か?――いや、人だ! (盗賊どもめ、女をさらってきたな) 直感したのは、この辺りを根城にしていた野盗の一味が、先頃県令に討伐されたという噂を耳にしたばかりだったからだ。それでもまだ何人かの残党が、追手を逃れて潜んでいるらしい。 伯約は素早く身を起こすと、そっと巌づたいに崖を降りた。その間にも、獲物を下げた野盗とおぼしき一団が、丘を一気に駆け上がってくる。 (できれば面倒ごとは避けたいが……) ちらりと、母の顔が浮かんだ。 だが、ここから麓に下りる道は一本しかない。隠れてすごすご逃げ出すというのも、性に合わぬ。何より、さらわれてきた女が哀れに思われた。 「やるか!」 伯約は、腰の佩剣を握りしめた。無銘だが、父の形見の業物だ。 武術の鍛錬は毎日している。腕には自信があった。恐ろしいほど楽観的に、あれくらいの人数なら何とかなるだろうとふんだ。実際には、これまで人を斬ったことなど一度もないのに、である。 荒れ堂の陰に身を潜め、じっと時を待つ。覚悟を決めてしまえば、総身の粟立つような緊張感がむしろ心地よかった。 姜維伯約、やはり肝の太さが、人とは違っているらしい。 |
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