姜維立志伝 |
第一章 関中の風 |
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盗賊たちは堂の前まで来て、馬を降りた。全部で五騎、いずれも屈強な面構えの荒くれどもだ。どうやらここを、今夜のねぐらに定めたようだった。 拉致されてきたのは、まだ下げ髪の少女だ。気を失っているのか、無造作に地面に放り投げられても、ぴくりとも動かない。 「しかし、こいつは上玉だったな」 下卑た顔つきのひとりが、舌なめずりをしながら獲物の品定めをしている。 「まだほんのガキじゃねえか――?」 もうひとりが、白蝋のような娘の顔に無遠慮な視線を投げつけながら言った。 「なんの、磨けば光るってえやつだ。こう見えても、俺様は女には詳しいんだぜ」 「そんなことよりこれだ、これ」 頬に刀傷のある頭目とおぼしい巨漢が、大事そうに懐から取り出したのは、錦の袋に包まれた一管の竜笛だった。男たちの視線がその手元に集まる。笛は、繊細な螺鈿を施された上に、帝の象徴である竜の金細工で飾られていた。 「見事な細工だぜ」 「こんな小娘には似合わねえ代物だが……」 「どっちにしても、この笛はめったにねえ掘り出し物よ。昨夜の村はしけた稼ぎだったが、こっちは行き掛けの駄賃にしちゃあ上等だ」 すぐ側に人が潜んでいるとも知らず、口々に勝手なことを言い合い、やがて酒盛りになった。 「兄貴、これからどうするんで?」 「県令の手入れが厳しくて、もうこの辺りじゃ仕事にならねえ」 刀傷の男はしばらくじっと考えていたが、仲間の顔を見回すと、重々しい口を開いた。 「……潮時だな。この女と笛を手土産に、漢中へでも移るとするか」 車座になった男たちの口から、喚声ともため息ともつかぬ声があがる。 「そいつはいい考えだ。漢中はつい先頃、張魯を破った曹操の領地になっちまったが、まだまだ完全に治まっている訳じゃねえ」 「俺たち盗人にとっちゃ別天地よ」 「そうと決まれば、早いにこしたことはねえが……。おっと、その前に――」 痩せぎすの男が、意味ありげな笑みを浮かべた。男たちの視線が、今度はいっせいに馬の足元に転がされている少女に注がれる。 年の頃はまだ十二、三といったところだろう。幼さの中に、どこか侵しがたい貴婦人の気高さを秘めた、清楚な色香があった。肌の白さ、肉(しし)置きの薄さが痛々しい。 「なるほど、よく見りゃあ、こいつは拾い物だったかもしれんな」 美女が正体を無くしてよこたわっている図というのは、たとえまだ蕾の固い処女だとしても、男心をそそらずにはおかない。 「それじゃあ早速、味見させてもらおうかい」 刀傷の男は、にんまりしながら立ち上がった。娘の身体を担ぎ上げ、荒れ堂の中に入っていく。 「兄貴が一番手なのは、まあ仕方がねえとして、……後はくじだな」 (けだものどもめっ!) 盗賊たちのやりとりを聞いていた伯約の全身は、言いようのない怒りに震えた。 見送った男たちは、何事もなかったかのように再び酒盛りを始め、暫時の後――。傾いた堂の暗がりの中から、悲鳴が湧いた。 ◇◆◇ 我が身にのしかかる男の重さに、ようやく気づいた少女があげた悲鳴は、しかし、すぐに相手の口でふさがれてしまった。理不尽な狼藉にあらがおうにも、後ろ手に縛られていて身動きすらできない。 (いやっ……) 酒臭い息が顔にかかり、剛毛だらけのいやらしい手が体中を這い回る。裾が割られる恥ずかしさに、涙がにじんだ。どうすることもできない絶望感の中で、抵抗を諦めたその時である。 ふいに、男の体が反り返った。今まで娘の肌をもてあそんでいた手が空を掴んだかと思うと、喉元から異様なうめき声をあげて、男はその場に突っ伏してしまった。 (―――?) 何が起きたか分からぬまま、少女は息をすることさえ忘れている。 堂の中は暗い。外から差し込む薄明かりが逆光となって、盗賊の骸の向こうに見知らぬ若者の影を浮かび上がらせていた。 (この人が……?あたしを救ってくださったのか?) 誰であれ、新たな闖入者であることには違いない。少女は乱れた裾をにじり合わせるようにして、後ろへいざった。 「大丈夫か?」 こんな場面にはそぐわぬ、涼やかな声だ。若者は盗賊の頭目が絶命しているのを確かめると、娘の手を戒めている縄をほどき、白い歯を見せた。 「ここで待っていろ。すぐに終わる」 次の瞬間、その体躯は野獣のような素早さで外に躍り出ていた。大剣を引っ下げたしなやかな長身が地に降り立つ。 ようやく堂内の異変に気づいた盗賊たちが、ばらばらっと走り寄ってきた。 「てめえ、何者だ?」 「兄貴をどうしやがった?」 憎悪に満ちた眼が若者を取り囲んだ。むき出しの殺意を四方からあびながら、伯約の気は鏡のように静謐である。 「うぬらは、先日、県令に討伐された野盗の生き残りだな?」 「ならば、どうする?」 「この姜維伯約が、成敗してくれる!」 「へっ。嘴の黄色いガキが聞いたふうなことをぬかしやがる」 「かまわねえ。やっちまえっ!」 罵声とともに真正面から突っ込んできた男は、次の瞬間、脳天から臍(へそ)まで斬り下げられて地面に転がった。あまりの剣の斬れ味に、伯約自身が驚いたほどだ。 場馴れしているはずの盗賊たちが、次々に血煙を上げながら地に伏していく。伯約の剣は、それ自体生き物のように宙を舞い、一人ひとり確実に相手を斃していった。 最後のひとりが、眉間を割られて動かなくなった時、ふと背中に痛いほどの視線を感じて、伯約は後ろを振り返った。 堂の破れ戸の隙間で、白い顔が凍りついている。 「………」 刺すような、まなざし。それが、血まみれの剣を持った自分に注がれているのだと気づいて、伯約はようやく猛り立つ気持ちを静めた。 「ああ、もう大丈夫――。安心なさい」 だが、剣を納めても、まだ胸が高鳴っている。実際に人を斬ったのは今日が初めてなのだ。正直、無我夢中というところだった。 ――妙な気分だ。 人とは、これほど簡単に死ぬものなのか。 ◇◆◇ 「歩けるか?」 娘が身繕いをすませるのを待って、伯約は声をかけた。 「はい……」 透けるように白い顔が、こちらを振り仰いだ。大きく見開かれた眸子(ひとみ)が、食い入るように伯約を見つめている。 (これは――) 伯約は、我知らずうろたえた。あらためて間近で見る少女の思いがけない美しさに、胸の芯がつんと弾かれたような気がする。 やわらかな黒髪が頬にかかり、肌の肌理(きめ)を一層透明なものにしている。形のきれいな眉の下の、長い睫毛に縁取られた眸子は、どこか儚げな色彩(いろ)をしていた。 「そうだ、これはそなたのものだろう?」 照れ隠しに、あわてて錦の袋に包まれた笛を差し出す。盗賊たちの荷駄の中から捜し出してきたのだ。 娘は受け取った袋の中身をあらため、無事だと分かると、思わず胸に抱きしめた。 「その笛は大切なものなのか」 「父の形見です。これを奪われまいとして手向かったために、無理やり……。でも、よかった」 初めてその眸子の奥に、危難を救ってくれた若者に対する好意があふれた。 「さて、どこまで送ってゆけばよい?冀城の城下か?」 「はい。――あ、いえ、お城の近くまでで結構でございます」 「そうか。では、この馬を借りるとしよう。どうせどこかで盗んできたのだろうし」 伯約は盗賊たちが乗ってきた馬のうち、おとなしそうな一頭の鹿毛を選んでその背に娘を乗せ、自分は前に廻って手綱を取った。 乾いた風が、馬のたてがみをそよがせ、少女の裳裾を翻していく。はた目には、遠出を楽しむ若い恋人同士としか見えない、のどかな昼下がりである。 「あの――」 押し黙って丘を下っていく伯約の背中に、馬上の娘が遠慮がちに声をかけた。 「危ないところを助けていただいて、ありがとうございました」 「礼にはおよばぬ」 「いいえ、本当に。取り乱して、肝心なことを申し上げるのが遅くなってしまい、申し訳ございません。……あなたさまがおられなかったら、今頃どうなっていたかと考えるだけで、恐ろしゅうございます」 言いながら、陵辱される恐怖と羞恥がよみがえったのだろう。娘は本当に肩を震わせ、唇をかんだ。 「わたくし、春英と申します。三日ほど前から冀城のご城下をお借りしている、旅芸人の一座の者です。よろしければ、あなたさまのお名前をお聞かせくださいまし」 「名乗るほどの者ではない」 「いいえ!お助けいただいた恩人のお名前も聞かなかったとあれば、わたくしがお師匠さまに叱られます」 その口調には有無を言わせぬ強さがある。芯のしっかりした娘なのだろう。 「俺は――姜維、字は伯約というものだ」 「姜維……伯約さま……」 一字一字かみしめるように繰り返した後で、春英は芙蓉の花が開くように微笑んだ。 |
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