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◆五丈原余話(1)

君ありてこそ

[1]

蜀の建興十二年(234)涼秋、五丈原。
夜もずいぶん更けた頃、蜀将姜維伯約は、ある決意をもって丞相諸葛亮孔明の幕舎を訪ねた。
「伯約か――」
寝台に横たわり、眼を閉じたまま孔明が言った。
研ぎ澄まされた神経には、気配だけで相手がわかるのだ。

――お痩せになられた。

薄絹の帳を通してさえ、その横顔には病の色が濃い。窪んだ眼窩のあたりに死の影が滲んでいるような気がして、伯約の胸は塞がれた。
帳の前にひざまずき、拱手の礼をとる。
「丞相……」
後の言葉が続かない。
「どうした?浮かぬ声だな」
伯約の微妙な心の揺れを察したのか、孔明は人払いを命じると、かれを帳の内へ招き入れた。

「私に言いたいことがあって、来たのであろう?」
静かな双眸が、じっと伯約を見つめてくる。そのまなざしの温かさにふれ、思わず目頭に熱いものがこみあげてくるのを、伯約は止めることができなかった。
「泣いておるのか」
「申し訳ありません。恥ずかしいところをお見せいたしました。実は――」
まだ、心のどこかで逡巡している。胸の底に名状しがたいさざなみが立った。
「しばらく、陣を離れることのお許しをいただきに参りました」
孔明は、眼前の若者に鋭い視線を向けた。
「何を考えている?」
「司馬懿を、……仲達の命を奪ってくるつもりです」
端正な顔が苦渋に歪み、伯約は、ようやく声を絞り出した。

幕舎の空気が、しんとした。
その言葉だけで、孔明には、伯約の胸中が痛いほどわかったのだ。
ここ幾日か、あるいは、軍を率いて漢中を出たあの日からだったかもしれない。この若者が孔明のために、どれほど心を痛め、迷い悩んだか。そして、この決断をするに至ったか。
だが――。
「そなたは、心得違いをしておるようじゃ」
ようやく口を開いた孔明の眼光は、より厳しいものになっていた。
「しかし、このままでは――丞相のお命を縮めることになります」
「それも天命であろう」
「そんな……納得できませぬ!天も、過ちを犯すやもしれませぬ!」
伯約の双眸から、涙とともに、やり場のない憤りがあふれ落ちた。
「天命が誤りであるというなら、私はその誤りを正しに参ります。たとえ、この身に換えても。武将にあるまじき振舞いと蔑まれましょうとも!」

孔明の最も忠実な部下であり、優秀な後継者である若者は、思いつめた瞳を滂沱の涙で濡らしながら、それでも必死で嗚咽をこらえている。
その肩に、孔明はそっと手を伸ばした。痩せた手が、いたわるように、諭すように、伯約のたくましい肩をなでていく。
「もうよい。そなたの気持ちはよくわかっておる。しかし……」
と、孔明は声音を改めた。

「――我らは王道をすすむ者ぞ」

臥せっていた寝台から半身を起こし、苦しい息の下から絞り出すように孔明は言った。
「そのような卑怯な闇討ちで、たとえ司馬懿を討ったとしても、それは真の勝利とはいえぬ。我らの掲げる正義とは、そのようなものではあるまい?」
己が愛弟子を叱りつつ、虚空を見据える孔明の脳裏には、先帝劉備玄徳との白帝城での最後の別れが浮かんでいた。

あの時、瀕死の劉備が自分に託したものは何だったか。
ひとり劉禅という遺児ではない。蜀漢という一国家の行く末でもない。
それは、ひとつの灯火(ともしび)だったように思う。
劉備軍団の軌跡をたどり見るとき、そこには常に、消えることなくあかあかと燃え続ける灯火があった。
夢、あるいは希望――と呼んでもいいかもしれない。
戦乱の世に、理想の国家を夢見て、戦い抜いた男たちが掲げた灯火。
その灯は、いつの日か中原を照らし、天下万民の幸せを照らす明かりとならねばならぬ。
それを守るために、我等は戦ってきたのではないか。

「伯約よ。私の志は、ひとり孔明のものではない。それは先帝の悲願、あるいは途半ばにして斃れた多くの同志の夢、そして非道な政治に泣く幾百万の民の願いぞ!」
孔明の叱責は、雷(いかづち)となって伯約の胸を貫いた。
大いなる灯火を継ぐ者として、自分は孔明に選ばれたのである。
「そなたは、その願い、その志を継ぐのだ。それを忘れてはならぬ」
「丞相……」
「姜維伯約の命、司馬懿ごとき奸賊の首と引き換えにできるほど安くはないであろう?」
返す言葉もなく、伯約はその場に平伏した。
 

◇◇◇

 
孔明の寝所を辞してからも、泡立った心はなかなか静まらない。
いつか伯約は、遠く渭水を見下ろす台地の端に立っていた。
月はない。はるか漆黒の闇の中に点々と見える篝火は、司馬懿仲達に率いられた魏軍の陣営である。
魏は、伯約の祖国だった。

伯約は今でも、あの日の光景をありありと思い起こすことができる。
当時、魏の将だった姜維伯約は、蜀軍の侵攻に備えて冀城を守っていた。ところが、あろうことか太守から謀反の疑いをかけられ、進退窮まってしまったのだ。
乱戦の中で、幼い頃から兄弟のように育ってきたかけがえのない友と、最愛の妻を失った。さらには我が身にも深手を負い、一時は死をも覚悟した伯約だったが、危ういところを蜀の勇将趙雲子龍と孔明の部下陳涛に救われ、蜀の軍門に降ったのである。
敗残の将である伯約を、孔明は賓客として遇した。
自ら伯約の手を取った孔明は、染み透るような温かな笑みを浮かべた。
「――姜維伯約。ついに、私のもとに参ったな」

孔明の言葉のとおり、ここに至るまで、何と多くの道程を必要としたことか。
初めて二人が相対してから、八年になる。
それは、まだ官職もなく、理想のみを求めて諸国を流浪していた若き日のこと。
伯約は、孔明の「天下三分の計」に疑問を抱き、孔明暗殺を心中に期して、成都の軍師府に忍び込んだことがあった。だが、反対に、孔明から己の不明と狭量さを一喝され、逃げるようにその場を後にしたのだ。
見知らぬ暗殺者に対して、真情を真摯に語ってくれた孔明というひとの大きさ。戦乱の世を憂い、平和を希求する思いの熱さ。一途な志と民衆に対する深い慈愛。
初めて諸葛孔明という巨人の真の姿にふれ、伯約の胸は激しく泡立った。
その後、魏に出仕し、中郎将としての地位を得てからも、その夜の鮮烈な記憶が伯約の心から消えたことはない。

立場が違い、思いがすれ違っても、志を同じくする者の道は、いつかどこかで交わるはずだ。
「必ずこの日が来ると信じておった。あれから八年、そなた、ずいぶんと成長したようだ」
孔明は、清々しいまなざしを伯約に注ぎ、満足そうにうなずいた。
「姜維よ。我が志を継ぐ者はそなたしかおらぬ。八年前のあの日から、ずっとそう願い続けてきたのだ。これからは、蜀の将として、私を輔けてくれるな」
「孔明どの!あなたは、それほどまでに私のことを……」
体の芯から、熱いものがじわりと滲み出てくる。
(このお方にお仕えするために、私は生まれてきたのだ――)
確信といっていい。
交わるべくして交わった二つの軌跡。伯約は若者らしい感性で、この日の再会を運命的なものだと信じた。二十七歳のこの日のために、今日まで生きてきたのだと。
かれはまっすぐな瞳を孔明に向けた。
「姜維伯約、今日よりこの命、孔明どのに捧げまする」
かくて伯約は、蜀のひととなったのである。
そして。

――この方のために、私は何ができるのか。

あの日以来、ずっとそれを考えている。

今、孔明は、生涯の悲願ともいうべき北伐の途にありながら、身は重篤な病の床にあった。
渭水をはさんで魏軍と対峙してから、はや三ヶ月。その間、何度か小規模な小競り合いはあったものの、孔明の執拗な挑発にも、司馬懿はじっと動かなかった。
(卑怯だ!仲達は、丞相の命の尽きるのを待っている……)
かれのことだ。配下の細作は、ここ五丈原の蜀軍の陣中にさえも放たれているにちがいない。司馬懿はおそらく、孔明が病に冒されていること、さらにはその余命がもうそれほど長くないことを知っているのだろう。
かれは、辛抱強く待っているのだ。戦わずして魏軍が勝利する日――すなわち、諸葛孔明が死ぬその日を。

「丞相はお許しにならなかったでしょう?」
ふいに背後で声がした。驚いて振り向くと同時に、腰の剣に手が伸びたのは、武人の習いであろう。
いつ来たのか、気配も見せず、伯約のすぐ後ろに影のように立っていたのは、孔明の細作頭を務める陳涛だった。
「陳涛どのか。確かに、あなたに言われたのと同じことを丞相にも言われました」
伯約は、苦い笑みを浮かべた。

──わかっていたことだ。

たとえ命旦夕に迫ろうとも、相手を暗殺して勝利を収めるような卑怯な手段を、孔明は決して選ぶまい。
それでも、何かをせずにはいられなかった。じっとしていると、思考が悪い方ばかりに向いてしまう。皮膚がちりちりするような焦燥感は、しばらく消えそうもない。
黙り込んでしまった伯約に、陳涛が遠慮がちに声をかけた。
「伯約さま。よろしければ、それがしについて来てくださいませぬか。お引き合わせしたい方がおられるのです」
「このような時に、いったい誰です?」
「奥方が、麓の農家でお待ちになっておられます」
「香蓮が……!」
息が止まった。
漢中の留守宅を預かっているはずの妻が、ここ五丈原に来ているなどとは、にわかには信じ難い話だ。
「一体どういうことだ?陳涛どの」
感情を殺そうとしても、声が震えてしまうのが、自分でもわかる。
陳涛は、白いものが混じり始めた髭を撫でると、意味ありげに微笑した。
「とにかく、一緒にお越しくだされ。あまり時間がありませぬ。詳しい話は、道々いたしますゆえ」

蜀軍の陣を抜け、麓へ続く急な坂を駆け下り、二人は夜の闇の中を疾駆した。
「実は、香蓮どのは、ひとり魏の陣営に忍び入り、司馬懿を暗殺しようと覚悟を決めておられたのです」
「何と……!」
妻が身を潜めているという隠れ家に向かう道すがら、陳涛から事の次第を聞かされた伯約は驚倒した。
「たまたま我らが手の者が見つけ、事なきを得たのでござる」
陳涛は多くを語らなかったが、かなり緊迫した状況だったことが、その表情から見て取れた。
「陳涛どの。かたじけない」
「何の。香蓮どのは、それがしにとっても娘のようなものでござれば。少々じゃじゃ馬で困りますが、此度のことでは当人も相当後悔しておりますゆえ、あまり叱らないでやってくだされ。何より大事に至らず、ようございました」

――それにしても。

と、陳涛は胸の内で苦笑した。
似たもの夫婦というのだろうか。二人の思いの行き着く先が同じだったことに、陳涛は少なからず驚きと感動を覚えている。
 

◇◇◇

 
伯約は、蜀に降った後、丞相諸葛孔明の仲立ちで妻を娶った。
魏を捨てる際に犠牲となった亡き妻への想いは、断ち切りがたい悲しみとして、深く心に刻まれている。だがそれも、聡明で美しく勝気な娘、香蓮と出会うことによって、しだいに癒されていった。
香蓮は、孤児(みなしご)である。荊州の戦火に家を焼かれ、母を失い、戦場をさまよい歩いていたところを、陳涛に拾われたという。それからの数年間、香蓮は、陳涛の表の顔である旅芸人の一座で暮らした。
その後、身寄りのない彼女を引き取り、我が子同然に育ててくれたのが、陳涛の主であり友人でもある孔明だった。
多感な時をともに暮らし、父とも師とも慕うそのひとに、香蓮が家族以上の感情を抱いていたことを、伯約は知っている。だが、かれは、決して妻のそんな想いを不快に感じたことはない。
(我が身とて、孔明先生によって再生された命ではないか)
妻が孔明に寄せるひたむきな思慕。それはまた、伯約自身の情熱でもあったのだ。

――これからは、そなたと二人、命を懸けて丞相にお仕えしよう。

婚礼の夜、伯約と香蓮はこの言葉を今生の誓いとして、幸福な契りを結んだのである。

やがて。
五度目の北伐が始まった。蜀のすべてを賭けた最後の遠征である。
孔明や伯約はむろんのこと、主だった武将はすべて魏に向けて出陣し、香蓮はひとり漢中に取り残された。
不安ばかりが募るある日、出入りの商人から、孔明が五丈原で病に臥せっているという噂を聞いた。

――丞相さまのご病気は重いらしい。

――度々、血を吐かれたそうな……。

そんな風聞を耳にするたび、彼女の胸は張り裂けそうになる。
孔明の病については、陣中堅く秘されているはずだ。それが、漢中の街中でまで噂がささやかれているというのは、病状はよほど悪いのかもしれない。
こうして遠くに身を置いていると、思い起こされるのは、かつて寝食をともにした孔明のことばかりだった。
むろん、夫の安否も気にはかかる。けれど、それより何より、病床にあるという孔明の身が案じられてならない。
あれこれと思い憂えているうちに、香蓮は居ても立ってもいられなくなった。
「旦那さまからのお申し付けで、しばらく留守にします。行き先などは一切明かせませぬが、心配せぬように。それから、この事くれぐれも外には内密に」
家人にそう言い置いて、ある夜、その姿は忽然と漢中から消えた。

伯約からの密命――もちろん嘘である。
(孔明さまをお守りしたい!苦しんでおられるあの方を、お救いしたい!)
髪を束ね、男装して、馬上の人となった香蓮の胸中には、ただ、その一念だけが炎と燃えていた。
自分に何ができるのか、そんなことは後から考えればいい。
(たとえ、この命にかえても……!)
身を焦がすような想いを抱きしめながら、香蓮は一路、北に向かって馬を駆った。


<後編に続く>


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