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◆五丈原余話(1)

君ありてこそ

[2]

漆黒の闇の中、小さな灯りがまたたいている。
妻が身を隠しているという農家の灯りの温かな色を目にしたとき、伯約は狂おしいほどの愛しさがこみ上げてくるのを感じた。
「それがしはここに控えておりますゆえ、早う顔を見せておあげなされ」
先に馬を降りた陳涛は、伯約と自分の騎馬二頭を傍らの木に繋ぐと、まだとまどっている伯約を促した。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
「時間は十分にございます。奥方とゆっくり話されるとよいでしょう」
陳涛は、周囲を見張るような格好で傾いた門の陰に端座すると、それきり微動だにしなかった。

表門から家の入り口に着くまでの間に、伯約は、いつしか駆け足になっていた。軋んだ扉を開けるのさえ、もどかしくてならない。心臓の鼓動が痛いほどだ。
灯りのともっている奥の部屋に、息せき切って飛び込んだ。
「香蓮――!」
粗末な板敷きの上に、形ばかりの夜具が伸べられている。その傍らに、半年ぶりに見る懐かしい妻の姿があった。
「あなた……」
「陳涛どのに仔細を聞いて驚いたぞ。そなた、司馬懿を暗殺しに参ったそうな」
「差し出たまねをいたしまして、申し訳ございません」
今にも消え入りそうな声でいい、香蓮は頭を垂れた。

孔明に対する狂おしいまでの感情は、彼女自身にもよく分からない。こと孔明のことになると、後先も考えず、まるで周りが見えなくなってしまう。
今回も。
激情に衝き動かされるまま、決死の覚悟で潜入した魏軍の陣地だった。しかし、司馬懿の幕舎に近づくことさえできず、陳涛の部下に連れ戻されてしまった。
そのまま漢中へ送還されるだろうと覚悟していたが、彼女が連れて行かれたのは、五丈原から程近い村のはずれにある一軒の朽ちかけた農家だった。
「頭領には仔細をお伝えいたしました。程なく、姜将軍を伴ってこちらに参られるはずです。何かとご不自由でしょうが、ご辛抱ください」

良人がここへ来る――。

我に返った香蓮は、ふいに現実を突きつけられて青ざめた。
(どんな顔をして出迎えればいいのか?)
夫への後ろめたさがないといえば嘘になる。
孔明に対する妻の破天荒なわがままを、いつも伯約は、そっくり包み込んで受け入れてくれた。だが、今回のことは、我ながらあまりにも無茶が過ぎたと思う。しかも一番深い所で、夫を裏切っているのだ。それでも伯約は、自分を許してくれるだろうか。
家の中は荒れ果てて、もうずいぶん長いこと人は住んでいないようだった。それでも、夜具と最低限の日用品、食糧などは整えられている。陳涛の部下たちが隠れ家として使っているのだろう。
しんと静まり返った部屋で、じっと息をひそめて夫を待つ間の、なんという心細さ。冷静になればなるほど、己の行いの軽率さが悔やまれる。
絶望と焦燥に押しつぶされそうになる中で、今さらのように夫の優しさが身にしみた。初めて香蓮は、心の底から伯約そのひとを恋うて泣いたのだった。

再会の喜びを素直に表せないまま、こわばった表情でうなだれている香蓮を、伯約は、泣きたいような怒りたいような複雑な表情で見下ろしていた。
妻の中には、今も鮮やかに孔明が息づいている。それは分かっていたことだ。
だが、この胸苦しさは何だろう。初めて覚える、これが嫉妬というものか。
それでも伯約は、精一杯の笑顔をつくると、妻の肩を両手でそっと包んでやった。自分の手の中で、小刻みに震える細い肩がいとおしかった。
「まったく、そなたは無茶苦茶だな。万一首尾よくいったとして、司馬懿の陣からとても生きては帰れまい。そうなった時、後に残された者の気持ちを考えなかったのか?丞相や私がどれだけ悲しむか――」
「お許しくださいませ!」
床に両手をついた香蓮の美しい双眸から、堰を切ったように涙が溢れた。そんな妻の姿を見守りながら、伯約の全身にも熱い想いが湧き上がってくる。

(今日こそ、この手で、妻の中にある丞相の影を消してしまいたい)
かれは、自分でも驚くほどの強い力で香蓮の身体を抱きしめた。
「あ……!」
夫の激しさに、香蓮が思わずもらした声は、すぐに伯約の唇にふさがれて消えた。
「いけません、外に、陳涛どのに聞こえては――」
「かまわぬ」
「ああ……」
夫の愛撫に香蓮は身悶えた。その強引さに半ばあきれ、半ば陶然となりながら。
「お願い……灯りを」
それだけを言うのが、やっとだった。妻の懇願に、伯約は燭台の火を吹き消した。
夜の闇の深さが二人の上に降りて、そっとその影を帳の内に包む。星明りだけの静寂の中で、夫も妻も息をとめている。
いつしか、ここが敵地であることも、門の外に陳涛が控えていることも、彼女の頭から消えていた。

やがて、着衣をすべて床に散らした香蓮の白い裸形が、そこに横たわった。秘所に顔を埋めた伯約の舌が敏感な部分をまさぐるたび、香蓮の朱唇からせつなげな喘ぎがもれる。
夫婦としての年月を重ねながら、交わりの際にこれほど野性的な夫を見るのは、初めてのことだ。
「そなたに、私の子を産んでほしい――」
激しい抱擁のさなか、耳元でささやかれた言葉に、香蓮は首筋まで熱くなった。
「産んでほしいのだ。私の血をこの世に残したい」
「伯約さま!」
体の奥深いところで、何かがはじけたような気がした。そこから、不思議なほどの安らぎが満ちてくる。
……わたくしは、この方の妻なのだ)
今はその幸せを、そして、こうして無事に再会できた喜びだけを、かみしめていよう。
鋼のような男の胸に顔を埋めて、香蓮は目を閉じた。

そのことが終わった後で、戦袍の帯を締めながら、伯約はくすりと笑った。
「そなたの命、司馬懿ごときの首と引き換えにできるほど安くはないぞ」
「え?」
身繕いの手をとめて、夫の顔をまじまじと見つめる香蓮に、伯約は照れたような笑みを返した。
「これは、つい先刻、私が丞相に言われた言葉だ。実は、私もそなたと同じことをしようとして、丞相にきつく叱られたのだ」
「まあ、あなたさまも?」
世の中には、同じようなことを考える人間がいるものなのだ。夫との距離が急に縮まったような気がして、香蓮は思わず含み笑いをもらした。
「陳涛どのからそなたのことを聞かされたときは、驚くより笑ってしまったが。今、そなたの顔を見ていたら、丞相の言葉を思い出したのだ。そして、その気持ちが少しも大袈裟なものではないことも、身にしみてわかった」
「あなた――」
「もうよい。何も言うな。そなたが無事に戻ってきてくれた、それだけで十分だ」
香蓮はこっくりとうなずき、童女のように澄んだ笑顔を見せた。
「丞相さまの――、孔明さまのご病気は、重いのですか?」
夫の髪を整えていた香蓮が、おずおずと尋ねた。
「今日まで持ちこたえておられるのが不思議なほどだ。あの方は、もはや気力だけで生きておられるのかもしれぬ」
「おいたわしいこと……」
病床にありながら、計り知れない心労と重圧に苛まれているであろうそのひとの苦境が思われて、香蓮は唇を噛んだ。

風が出始めたらしい。屋根の上で、木々のざわめきが大きくなった。
突然、香蓮の体は、有無を言わさぬ強い力で抱きすくめられた。
「香蓮。私は耐えられるだろうか」
「伯約さま?」
「私にとって、丞相がこの世のすべてだ。近い将来、そのお方を失うかもしれぬという恐怖に、私は今にも己を失ってしまいそうだ」
青ざめた頬に、不安の色が満ちている。
孔明の死。
今まで幾度となく胸の内で繰り返しながら、口に出すのは初めてのことだった。言葉にすれば、現実になってしまいそうで恐かった。
「私は、先帝を知らぬ。今の陛下にはお声をかけていただいたこともない。私にとって、蜀漢とはすなわち諸葛丞相そのお方に他ならぬ。魏を捨てて蜀に降ったあの時から、私が生きているのは、孔明先生のためにこの身を捧げ尽すためだと思い定めてきた」
蜀に降って以来、伯約の志は常に孔明とともにあった。
同じ夢を語り、同じ未来に希望を託し、同じ苦難に耐えてきた。さらには、己の生きる意味までもその人に重ねてきた。
孔明が死ねば、それらすべてを永遠に失うことになる。

「丞相を失ったら、私はどうすればいい?」
声が震えていた。
いつもまっすぐに前を見つめ、自信に満ち溢れていた夫の顔が、今は、道に迷った子どものように頼りなげに見える。
伯約の背中にまわした腕に、香蓮は思わず力を込めずにはいられなかった。それが、夫のために今できる唯一のことだった。
「わたくしにとっては、あなたがすべてです。だから、あなたが孔明先生の死を恐れる気持ちは手に取るように分かります。わたくしもまた、あなたを失いたくないから」
嘘ではない。心の底から、このひとを愛しいと思う。
孔明への想いは、今なら断ち切れる。
香蓮は、波立っていた心が、伯約という帰結点に向かって静かに澄み渡っていくのを感じていた。

――すべては、君ありてこそ。

澄みきった胸の底から、再び痺れるような恋情がうねり始める。

「今夜わかりました。わたくしの命は、今もこれからも、あなたさまとともにあるのだということが」
「香蓮……」
「伯約さまのお命は、あなたお一人のものではありません。少なくとも、わたくしのためにも大切な命なのだということを忘れないでくださいませ。わたくしも、あなたさまの子を産みとうございます」
妻は、澄んだ瞳でまっすぐに夫に語りかけた。知らず知らずのうちに、熱いうねりは涙となってあふれ、白い頬を濡らした。
「孔明先生が亡くなられても、先生の理想は消えませんわ。あなたがそれをお継ぎになるのですもの。ですからあなたは、どんなことがあっても生き延びなければ……」
香蓮は、泣きながら微笑していた。いや、微笑もうと努力していた。
それでもこらえきれずに嗚咽がもれる。
そのおとがいに手を添えると、伯約はもう一度、いとおしむように唇を重ねた。
「今夜そなたに会えてよかった。これで最後まで蜀の姜維として戦える。何があっても、決して希望を見失わぬと約束しよう」

やがて、戦袍の上に鎧を着け終わった伯約は、いつもの凛とした参謀の顔に戻っていた。
「ご出立でございますか」
「名残は尽きぬが、夜明けまでに前線の陣地に戻らねばならぬ」
香蓮が差し出した剣を、黙って腰に佩く。
隠れ家の床にひざまずいて拱手の礼をとりながら、香蓮は、夫を戦場に送り出す妻の悲しみを、今更のようにかみしめていた。
「あなた、どうぞご無事で。ご武運をお祈りしております」
「そなたも、な。よいか、二度と命を粗末にしてはならぬぞ」
――はい」
小さくうなずいた拍子に、涙がぽろぽろと袖にこぼれた。
「ほかの将軍や兵たちには申し訳ないが……。皆、妻や家族を国許に残してきておるというのに、私ひとりだけが、こうしてそなたとひとときの逢瀬を持つことができた。これも、そなたの無鉄砲のおかげだな」
振り向いた良人の笑顔のあざやかさを、香蓮は一生忘れないだろう。
「香蓮、そなたと暮らせて幸せだった。今、無事な顔を見ることができて、もう思い残すこともない」
涙にかすんだ視界の中で、伯約がゆっくりと背を向ける。
「さらばだ――香蓮」
戸を開けて外に出た伯約は、一度も後ろを振り返らなかった。
五丈原の陣地に戻れば、後は司馬懿との決戦が残されているだけである。
中天に懸かる銀河が降るようだ。夜気の冷たさが、火照った頬に心地よかった。

門の陰には、先刻と寸分違わぬ姿勢で端座している陳涛の影があった。
「話はお済みになられましたか?」
「お心遣いかたじけのうござる」
陳涛はだまって頷いた。星明りの中で、髭面が微笑んでいる。
「陳涛どの、お世話をおかけしますが、香蓮のこと、くれぐれもよろしくお願い申します」
伯約は深々と頭を下げた。
「おまかせくだされ。それがしの命にかえてきっとお守りいたします。しかし姜将軍、あなたさまこそ、お命大切になさらねばなりませぬぞ」
「もう、いじめないでください。妻の顔を見て、改めて己の軽はずみに気が付きました」
はにかんだ横顔に、妻への愛しさがにじむ。
が、それも一瞬。夫の素顔を断ち切った伯約は、峻厳なまなざしを陳涛に向けた。
「この命、二度と再び軽くは扱いますまい。丞相の意志を継ぎ、蜀漢の理想を成就するためにも。それが丞相のお気持ちに応える唯一の道なのですから」

 

◇◇◇

 

馬蹄の響きが遠ざかってゆく。
香蓮は、伯約との逢瀬の余韻に身をひたしながら、夫のしぐさや言葉の一つ一つを忘れまいと、胸の奥に刻みつけていた。
「香蓮。入ってもよいかな」
「お師匠さま!」
扉の陰から顔を出したのは、陳涛だった。
「そなたの無鉄砲さは知っているつもりだったが、それにしても驚かされるわい」
「ご心配をおかけいたしました」
「まあ、何事もなく本当によかった」
孔明に預けてからも、陳涛は香蓮のことを実の娘のように気にかけていた。伯約との婚儀を一番喜んでくれたのも陳涛だった。
「その顔を見ると、どうやら心置きなく伯約どのを送り出すことができたようじゃな。無理やりお連れした甲斐があったということか」
「はい。ようやく真の夫婦になれたような気がします」
言ってから、香蓮の頬に朱が差したのを認めて、陳涛は声をあげて笑った。
「さて、参ろうか。そなたの顔を見れば、孔明さまもお元気になられるだろう」
え?というように陳涛を見上げた香蓮の顔が、輝いた。
「ではここに、関中にいてもよろしいのですか?」
「妻が丞相の側にいてくれれば自分も安心だと、伯約どのからことづかっている。まあ、将軍の奥方を表立って本陣に連れてゆく訳にもゆかぬゆえ、少々細工は必要だが」
別れ際、伯約は陳涛に、妻の身の安全とともに、孔明に残された最後の時を共に過ごさせてやってほしいと頼んだのである。それは、これまでずっと変わらず、かれが妻に注いできた優しさだった。

二人は黙ったまま、連れ立って外へ出た。
夜明けには間があるのか、空はまだ薄暗い。その闇暗の中に、五丈原の影がひときわ黒々と屹立している。
その頂を見つめていた陳涛が、いつになく厳しい口調で言った。
「香蓮。伯約どのの気持ちを大切に受け止めねば、罰があたるぞ」
もちろん香蓮にも、夫の胸の内は痛いほどわかっている。
その思いに、今こそ応えたい。妻として、精一杯夫を支えたい。
今、伯約は、孔明の志を継ぎ、その夢をかなえることに全てを懸けている。そんな夫のために自分ができることは、少しでも孔明の命が永らえるように心血を注ぐことではないだろうか。
「お師匠さま。わたくしに孔明先生のお世話をさせてください。姜伯約の妻という立場ではなく、ただの児小姓としてなら、お側にいても差しつかえないはずです」
「伯約どののために、というのなら――」
と、陳涛は微笑した。
「はい。全身全霊を捧げて、孔明先生の看病をいたします。そのことが、今まで黙ってわたくしを見守ってくれた夫への、せめてもの恩返しになると存じますので」
「まあ、よかろう。伯約どのは戦場で、そなたは本陣の奥で、手段は違えどすべては丞相のため。それぞれが己のやるべきことを果たすだけのこと。むろん儂は儂で、やらねばならぬことがある」
馬は一頭。陳涛が前に回って手綱を引き、香蓮は徒歩で後に続く。二人は黙ったまま、五丈原の土を踏みしめるように、ゆっくりと歩いた。
山際が明るくなってきた。薄明の中、しだいにくっきりと浮かび上がってくる関中の大地が、例えようもなく愛しいものに思われて、香蓮は足を止めた。

――この世のすべては、君ありてこそ。

自分にとって本当に大切なものを見出し得たとき、昨日まで見慣れて色褪せた景色にすぎなかったものが、これほどに輝いて見えるのだろうか。
(わたくしにとっての「君」は伯約さまだった。昨夜ようやく見つけた。けれど伯約さまにとっては、孔明さまがこの世のすべてなのでしょう。では、孔明さまにとっては?孔明さまは何のために、あそこまでなさるのか?己が命を削ってまで――)
孔明が背負っているものの大きさは、香蓮には分からない。それは、人や国などという言葉では言い表せないものなのかもしれない。
ただ、訳もなく悲しかった。
茫漠と広がる黄土の大地。遠くきらめく渭水の流れ。徐々に青さを増していく暁の空。
それらが美しく、輝いていればいるほど、世界のすべてが悲しみにあふれているように思われた。

見はるかす秋空には、雲一つない。
五丈原は、今日もよく晴れそうだ。


2004/10/1


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