【ご注意】 こちらは、五丈原余話(1) 君ありてこそ の続編になっております。 先に、上記の話をお読みくださることをお奨めいたします。 |
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五丈原に、秋は深い。 関中平野を見はるかす台地の上に築かれた蜀軍の本陣は、だが、司馬懿仲達率いる魏軍との戦の最中とは思えぬほどに静まり返っている。 「………」 日ごと青さに深みを増していく空を見上げて、若者は小さなため息をついた。 手桶の中の水をこぼさぬよう、細心の注意を払いながら、ひときわ大きな幕舎へと運ぶ。そこは、蜀漢の丞相、諸葛亮孔明の幕舎だった。 物々しい警固の兵が立ち並ぶ幕舎の中、幾重にも張られた帳の奥に、孔明はひとり、病躯を横たえている。その痩せた背中に、若者は一瞬ためらい、それから努めて明るく声をかけた。 「孔明先生、水を換えてまいりました。お身体をお拭きいたしましょう」 「香蓮か。いつもすまぬ」 眠っているかと見えた孔明は、ゆっくりと半身を起こすと、くだんの若者に温かいまなざしを向けた。少年のように華奢な体つきの若者は、紅顔をほころばせ、くすりと笑う。 「先生。わたくしは今は香蓮ではございませぬ。小姓の趙子元にございます」 「おお、そうであったな」 かいがいしく孔明の看病をする小姓は、姜維伯約の妻、香蓮が男装した姿だった。 ――そなたに、私の子を産んでほしい。私とそなたの血を、この世に残したいのだ。 夫の熱いささやきが、今も耳朶に沁みついている。 思いがけない成り行きから、伯約とひとときの逢瀬を持つことができたあの夜。 初めて、身も心も夫とひとつになれた。濃密な愛撫に酔いしれながら、自分もまた、心の底から伯約の子を産みたいと思った。 あの後、伯約は陳涛に、妻の身の安全とともに、孔明に残された最後の時を共に過ごさせてやってほしいと頼んでくれたのだという。それは、これまでずっと変わらず、かれが妻に注いできた優しさの集大成だったかもしれない。 その優しさに、今こそ応えたい。夫の想いを、大切に受け止めたい。 今、伯約は、孔明の志を継ぎ、その夢をかなえることに全てを懸けている。そんな夫のために自分ができることは、少しでも孔明の命が永らえるように心血を注ぐことだ。 最初、陳涛に伴われて香蓮が姿を見せた時は、さすがに孔明も困惑した。しかし、それが伯約の意志でもあることを知って、彼女が側に仕えることを許したのだった。 その日、十日ぶりに北西の前線から戻った伯約は、取るものも取りあえず孔明の幕舎に向かった。 相変わらず病状は一進一退のようだ。戦況を手短に報告し、退出しようとした伯約は、孔明に呼び止められた。 それから孔明は、伯約と香蓮の二人を自分の枕頭に招き入れた。 「香蓮」 いつになく明るい孔明の声に、もしかしたら病が快方に向かっているのではと、かすかな期待を寄せた香蓮だったが、 「私が死んだ後は、すべての重責が伯約の肩にかかるだろう。その時こそ、そなたがしっかりと支えてやらねばならぬぞ」 続く孔明の言葉は、そんな甘い望みを抱くことすら許さぬ厳粛なものだった。 「このような結末を予想していなかったわけではないが……、まだもう少し時はあると思うていた。だが、天は残酷だな」 「丞相……」 「姜維伯約。そなたに言っておかねばならぬことがある」 伯約を見つめる孔明の視線が熱を帯びた。 孔明は、もうずいぶん以前から、己の命がそれほど永くはないことを覚悟していたのだろう。ここ数年の強引とも思えるような出兵も、自分が生きているうちに何とかしておきたいという悲壮な決意の表れだったといえる。 しかし。 (司馬懿はついに動かず、私に残された時間はもうない――) 今、陣中で孔明が没すれば、敵はその機を逃さず一気に攻め寄せてくるにちがいない。司馬懿がじっと待っているのは、まさに「その時」なのだから。 自分の死を相手に悟らせず、いかに最小限の被害で全軍を漢中に引き上げさせるか。 ここ数日は、そのことだけに思考を集中させてきたといっていい。あらゆる事態を想定して、考えられるだけの手を打ってきた。 「万一の時にそれぞれがなすべき事は、すべてこの袋の中にしたためてある。皆がこの指示通りにすれば、しばらくは司馬懿の目を欺くことができよう。疑い深い奴のこと、確信がなければ深追いはすまい。せめて一日か二日、時が稼げれば、私がおらずとも無事に退却できるはず」 そこまで言ってから、孔明は深いため息をついた。 眼前の伯約は、師の言葉を一言も聞き漏らすまいと、必死の面持ちで聞き入っている。愛弟子の悲壮な顔を見つめながら、孔明は名状しがたい苦痛に襲われた。 胸が苦しい。病の痛みではなく、もっと奥深いところで、心が血を流している。 (私はついに果たしえなかった。玄徳さまに託された遺志を、このまま置いてゆかねばならぬとは――) 己が死期さえも、粛々と受け止めてきた孔明である。 だが――。 自分亡き後、すべてを託さねばならぬ相手のことを思えば、その心は一層暗澹たるものにならざるを得なかった。 ――伯約よ。 そなたに託すのは、甘い夢などではない。 私でさえ押し潰されそうになるほどの苛酷な現実、先の見えぬ未来なのだ。 それでも、私はそなたに託さねばならぬ。 気が遠くなるほど重く困難な荷を、そなたに背負わせねばならぬ。 それが、この先どれほどそなたを苦しめるか、十分すぎるほど分かっているのに。 許せ。ほかの道が、私には見えぬのだ。 きっと、そなたは何の躊躇もなく、引き受けてくれるだろう。 私のために、その命、人生のすべてをなげうって、笑って応えてくれるのだろう。 これを希望と呼べるのなら、そなたこそが、私の唯一の希望だ――。 絶望の淵の中で、本当に一条の光明が差したかに思えて、孔明は思わず目蓋を熱くした。 「先生! お苦しいのですか?」 食い入るように孔明の顔を見守っていた香蓮が、思わず差し伸べようとした手を押さえて、孔明は弱々しくかぶりを振った。 「いや、大事ない。心配はいらぬ」 そして、世間話でもするかのように淡々と、これからの事を伯約に語った。 「私が死ねば、後のことは蒋エンに任せようと思っている」 「蒋エンどのなら、我らも安心でございます」 「その後は、費イに」 「はい」 「そして伯約。そなたには……」 孔明はそこで一旦言葉を切り、澄んだまなざしをじっと伯約に注いだ。 「夢を託したい」 肚の底に染みとおる、厳粛な声。 「玄徳さまより受け継いだ大いなる夢を、この国の未来を、そなたに託したいのだ。決して易き道ではない。それでも、受け取ってくれるか」 「丞相!」 「私に選ばれたことを、きっとそなたは恨むであろうな。それほどに残酷な運命を、預けようとしておるのだ」 「恨むなどと……。私は――」 思いもかけぬ師の言葉に、伯約は絶句した。 「それでも私は、託さねばならぬ。玄徳さまの夢、我らの大志を、歴史の間に埋もれさせぬためにも」 やつれた顔の中で、熱い意志の焔を映した双眸だけが、炯々とした光を放っている。その光が、伯約の胸を射抜いていく。 「先生の思いは、決して消えませぬ。どのように困難な道であろうと、私は決して恐れませぬ。この命ある限り、丞相から託された大いなる夢を、きっと守り通してみせまする」 その場に平伏し、声にならない嗚咽を必死にこらえる伯約の姿に、孔明もまた静かな感動を覚えていた。 (これでよい。これで、私も心安らかに逝くことができる。たとえ命尽き、肉体は滅びても、我が夢はこの者の中に受け継がれる――) 二人のやり取りの間、呆然とその場に立ち尽くしていた香蓮に向かって、孔明は優しい声をかけた。 「香蓮。今日はもう下がってよい。久しぶりに、伯約と水入らずで過ごすがよかろう」 「香蓮。無理をしていないか」 自分の幕舎に戻って戦袍を脱ぎ、ようやく落ち着いた伯約は、久しぶりに見る妻の顔を心配そうに覗き込んだ。 「ただでさえ、慣れぬ陣営での暮らしなのだ。まして男のなりをして――」 「大丈夫です。私は……大丈夫」 十日ぶりに見る夫の変わらぬ笑顔に、香蓮はほっと安堵のため息をもらした。夫は、戦場での疲れも出さず、なお自分を気遣ってくれている。その優しさに、胸がつまる。 この本陣に来てから、何度か夫と顔を合わせる機会はあったが、普段は挨拶さえ交わさない。あくまでも、孔明の小姓としての立場を保っていたからだ。 ようやく伯約と二人きりになれた。もちろん、甘い感傷にひたれるような状況でないことは、十分承知している。それでも、高鳴る胸のときめきを自分では押さえられない。 「無理をしていらっしゃるのは伯約さまの方ではありませんか。それこそ毎日、身を削るようにして前線に立っておられるのでしょう?」 「その苦労も、こうしてそなたの顔を見れば霧消する」 伯約は、そっと香蓮を抱き寄せた。たちまち、たくましい腕に包み込まれる。 「今日だけ、そなたを女に戻したい。小姓の趙子元ではなく、私の妻 香蓮に」 「伯約さま――」 (愛しいあなた。今は、香蓮に戻っていいのですね。その優しさに甘えていいのですね……) 自分の胸の鼓動が聞こえるようだ。疼くような甘い痛みが、身体の中心から全身に広がっていくのを感じ、香蓮は目を閉じた。 山際に傾いた日差しが、幕舎の帳にぼんやりとした陰影を落としている。 秋の陽が沈んでしまうと、すぐに辺りは夕闇に包まれ始めた。 抱擁の後の心地よい疲れに、うっとりと身をまかせていた香蓮は、天地を包むような虫の声に身を起こした。静かな寝息を立てている伯約の腕をそっとほどくと、寝台から滑り降りて、燭台に灯をともす。 温かい光が室内を満たし、伯約の寝顔を優しく照らし出した。 (きれいな顔――) 女の自分が見ても惚れ惚れする。眉から鼻梁へと伸びる整った線。豊かな頬。繊細な顎。長い睫毛に縁どられた切れ長の眸子。情熱的な唇……。 ふいに訳もなく、香蓮は深い悲しみに襲われた。 この愛しい人を失ってしまうのではないか、という不安。自分を包んでくれているすべてが、消えてしまうかもしれないという恐怖。 香蓮は我を忘れて、男の胸にしがみついた。 「―――?」 伯約が、驚いて目を覚ます。 「香蓮? どうしたの?」 「伯約さま。こわい……」 ただ泣きじゃくる香蓮の身体を、伯約はしっかりと抱きしめた。 「もう大丈夫。私が側にいるから。さあ、泣き止んで」 「……って言って」 「え?」 「決して死んだりしないって。どこへも行かないって。私をひとりにしないって」 出会った頃の、お転婆な口調に戻ってしまっている香蓮を、ひざに抱え上げると、伯約はいとおしそうにその髪をなでた。 「香蓮。心配しないで。私は死んだりしないよ」 「本当?」 「こんなに愛しいひとを残して、ひとりで死んだりしないから」 いつの間にか、伯約の口調も昔に戻っている。 孔明の下で、ともに研鑽を重ねた日々。もう一度、あの頃に戻れたなら――。 だが、それはかなわぬ願いだ。 (もう、過去へは戻れない。昔を懐かしんでいる時ではない。今は、己の目の前の道を、指し示されたとおり、まっすぐに進むだけだ) 伯約は、香蓮の白いうなじに口づけを落とすと、しなやかなその身体をもう一度きつく抱きしめた。 夜が明けきる前に、伯約は出立の準備をすませた。 前線に戻った後は、また敵との対峙が続く。先の見えない戦況である以上、次はいつ会えるかもわからない。 幕舎の外まで見送りに出た香蓮は、こらえきれずに、夫の手を握り締めた。 「できるならわたくしも、この手に剣を取り、あなたとともに戦場に立ちとうございます。待っているだけの身は、辛くて……」 「そなたなら、さぞ目覚しい活躍をするだろうな。敵も味方も驚くことだろう」 伯約は、楽しそうに笑った。あまりに鮮やかに返されて、香蓮も苦笑せざるをえない。張りつめていた気持ちが、ふっと緩む。 「これからは、伯約さまが丞相の重荷を背負ってゆかれるのですね。私が少しでも、それを軽くすることができるのなら……」 「その言葉だけで十分だ。そなたが側にいてくれるだけで、私は戦える。前に進むことができる。だから――」 薄明の中で、突然、息が詰まるほど強く抱きしめられた。 熱い息が耳元をくすぐる。 「どんなことがあっても、私より先に死んではならぬ」 「あなた……」 ふいに首筋に落ちたしずくの冷たさに、香蓮の肌が怯えた。 驚いて顔を上げたが、伯約は泣いてはいない。 「―――?」 不思議そうに見つめるその顔を、両手で包みこむようにして、伯約はそっと香蓮の朱唇に唇を重ねた。 「私は、笑って発つから。香蓮も、笑顔で見送ってほしい」 「……はい」 夫の言葉にうなずいた香蓮は、芙蓉の花が開くように微笑んだ。 愛しさが、波のように寄せてくる。 この笑顔を守るために、戦うのだ。 ――私には、まだ守るべきものがある。 この命に代えて、守り抜きたいものがある。 それは、丞相から託された夢、この国の未来。 そして、香蓮、そなたという花。 たとえ、わが命尽きるとも――。 |
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2006/9/22 |
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やっと、できましたー! 「五丈原余話(1) 君ありてこそ」 の続編というか、後日譚です。 この掌編は、15001を踏んでくださった たまよさんに捧げます。姜維と香蓮のカップルで、というリクエストをいただきましたので、そのまま「君ありてこそ」の続編という形で書いてみました。 初めていただいたキリリクなので、ちょっぴり緊張しております。お待たせしたわりには、どうということのない話ですみません。いつもながらの甘々カップルの日常ですが、たまよさん、こんなものでよろしかったでしょうか……? リクエストいただき、ありがとうございました。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。 |
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