いにしえ夢語り蜀錦の庭言の葉つづり




散りても後に匂ふが香




夜気にまぎれて、どこからともなく花の香りがただよってくる。
夏侯覇仲権は騎馬を停め、おぼろに霞む夜空を見上げた。
春はまだ浅い。
上着を通してしみ込んでくる寒さに身が引き締まる。
甘やかな香りに誘われるように紛れ込んだ路地の奥には、一本の白梅が見事な花を咲かせていた。


「私は、この梅の花のようでありたいと思っている」
かつて夏侯覇にそう語ったのは、姜維伯約という男だ。
自分と同じように、一度は魏に仕えながら、故あって蜀に降った武将である。
蜀漢の丞相諸葛亮は、彼の才を深く愛し、己が後継者たるべく育てたという。姜維もまた師の期待によく応え、常に諸葛亮を支えて戦った。
だが、偉大な指導者であった諸葛亮が死んだ後、蜀漢の宮廷における姜維の立場は微妙なものになっていた。
その日も、北伐の重要性を説いて早晩の出陣を主張した姜維だったが、廷臣たちの激しい抵抗に合い、断念せざるを得なかった。
宮殿からの帰途。後ろに従っていた夏侯覇に、姜維は無念の胸中を吐露した。
「もう幾たびになるだろうか。忸怩たる思いに身を震わせながら、こうして家路につくのは」
手綱を握る拳が怒りに震えている。
「これまでも、折にふれては魏への出師を上奏してきた。しかし私の進言は、その都度あやつらの反対にさえぎられてきたのだ。もはやこの国は、建国の理念すら忘れてしまったのかもしれぬ」
深いため息とともに、姜維は灰色にくすんだ空を振り仰いだ。
「姜将軍。気落ちなされますな。いずれまた、風向きが変わることもありましょう」
我ながら苦し紛れな慰めだと思う。諸葛亮亡き後の逆風の厳しさを、誰よりも強く感じているのは姜維その人なのだから。
固い表情の夏侯覇に向かって、姜維は自嘲に似た笑みを投げた。
「それにしても、蜀漢の宮廷で、魏を討たんといきまいておるのが、その魏から降った私とお主の二人とはな。おかしなものよ」
事実その通りであったから、夏侯覇はただ黙って馬を進めるしかない。
沈黙の中、肌をひりひりと焦がすような痛みが胸をしめつける。
(自分以外の誰が、この方の抱える孤独を理解し得るだろう……)
蜀という異郷にあって、同じ境遇にある者だからこそ分かる寂しさであった。
やがて一群れの梅林の傍を通り過ぎようとしたとき、ふいに姜維は馬を停めた。
まだ花の盛りにはほど遠い。
一輪二輪と開き始めた蕾が、寒さの中で身を震わせるように咲いている。
仲権どの、と姜維は字で呼んだ。
「私は、この梅の花のようでありたいと思っている」
「それは……」
「梅の木は、枝を切られ、手折られるほどに強くなるという。冬の寒さに耐えて凛と咲き、散った後にも香りを残す――。そのような生き様でありたいと、私は願っているのだ」
その言葉のごとく、姜維伯約という人物は梅の花のようだ――と、夏侯覇は思った。
自分より幾つか年若いその男は、あらゆる艱難辛苦を乗り越えて今や蜀漢の衛将軍の地位にある。しかし、いかに地位を上りつめても、彼の志は、亡き師諸葛亮の遺志を継ぐという、どこまでもただその一事だった。
おそらく姜維は、己が斃れるその場面すらすでに脳裏に思い描いているのではないか。散った後にも、――とは。
「伯約どの。それがしは、あの日あなたにこの命を預けると誓いました」
理不尽な理由で祖国を追われ、敗残の末に逃れてきた蜀の地。
そこで出会った姜維は、投降者である自分を無条件で受け入れ、旧知の友に接するごとくもてなしてくれた。衷心からのいたわりと慈愛にあふれた彼のまなざしを、今もはっきりと覚えている。
彼に出会わなければ、自分はおそらく深い絶望の中で生ける屍となっていたことだろう。
さればこそ。
この男の花を、見事に咲かせてやりたい。散った後などではなく、咲き誇る花の盛りに、馥郁と香る様を見届けたい。
夏侯覇は、青年のような初々しさの残る姜維の顔を、ひたと見つめた。
「あの日より、あなたの夢はそれがしの夢であり、あなたの大志はそれがしの志でもあるのです。夏侯仲権、この命ある限り、どこまでも伯約どのについてまいりましょう」
「仲権……」
姜維は息をのみ、静かに目蓋を閉じた。胸にあふれる思いがあったのだろう。
しばらくして、彼は少年のような笑顔で夏侯覇に言った。
「君が傍にいてくれて、よかった」


あれから幾度の春を見送っただろうか。
今年もまた、梅の花の季節がめぐってきた。
その間、何度か姜維に従って北伐に従軍した夏侯覇だったが、未だ夢は果たされぬままだった。
――いつか、いつか必ず咲かせてみせる。この花のように。
夕闇迫る中、ひときわあざやかに咲く白梅の白さが目にしみた。
その後も、常に姜維の傍らにあって奮戦した夏侯覇は、ついに八度目の北伐で、敗走する姜維をかばって討死したといわれている。



2016/5/5

姜維のイメージと言えば、やはり梅(白梅)ですね。
これについては、以前にも<エッセー>で語ったことがあるのですが、今回のSSでは「散った後にも香りを残す」というセンテンスにこだわってみました。
実はこれ、芹沢鴨の辞世『雪霜に 色よく花の魁けて 散りても後に匂ふ梅が香』から取ったもので、菅野文さんのマンガ「凍鉄の花」から着想させていただきました。
そんな梅の花言葉は、「高潔」「忍耐」「忠義」。白梅だと「気品」になるのだそうです。
 
 

 



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