I LOVE 三国志


梅花一輪、凛然として。

今年もまた、この日がめぐってきました。
旧暦1月18日は、蜀漢最後の大将軍 姜維伯約が、漢室再興、蜀漢復興の夢破れ、志半ばにして乱戦の中に斃れた日です。(今の暦に直すと、3月3日頃になるとか……)
姜維の最期については、今もなおさまざまな憶測が取り沙汰されていますが、果たして彼の真意はどうだったのでしょうか。
その前年263年の冬。魏の大軍を相手に一歩も引かず、剣閣で奮戦していた姜維。成都への生命線である要害剣閣を、何とか死守せんと必死に戦っていた彼のもとに、別ルートから攻め込んだトウガイによって成都はすでに陥落し、劉禅が降伏したという知らせが届きます。
あと少しで魏軍を撤退させるころまで追い詰めていたのに、守るべき城と主君が、先に敵の手に落ちてしまうとは。劉禅から「武装解除せよ」との命令を受け、やむなく鐘会に投降した姜維の心中はいかばかりだったか、察するに余りあります。
さて、ここからがちょっとしたミステリーなのですが、魏の将軍鐘会は、降伏してきた姜維を見所のある人物と認めて、深く信任するようになるのですね。一説には、鐘会の野心を見抜いた姜維がわざと取り入り、かれに蜀を取って独立するよう勧めたともいわれています。
まずは、鐘会の手でトウガイを捕らえさせ、魏軍を分断する(かねてから鐘会とトウガイの間はうまくいっておらず、姜維はそのことを敏感に察知したようです)。その後、鐘会に反乱を起こさせて魏の将兵を殺害し、返す刀で鐘会を倒して、蜀を復興させようとしたのだ、と。
まさに、起死回生の大博打。このクーデターが成功していれば、三国の行方は、また違ったものになっていたかもしれません。
しかし、結局この計略は失敗に終わり、姜維も鐘会も、ともに乱戦の中で非業の死を遂げるのです。


蜀滅亡という混乱の最中、姜維が打った最後の賭け。
万一、鐘会の反乱が成功していたとして、その後、姜維が鐘会を倒して劉禅を復位させ、蜀漢を復興させることができたかどうか、成功の確率はほとんどなかったでしょう。
それでも、と姜維の無念に思いを馳せながら、私の胸は高鳴ります。
それでもあなたは、最後の最後まであきらめなかったのですね。
以前、ネッ友の翠蓮さんが、姜維の生き様を梅の花にたとえておられたことがありましたが、私も同感です。
すなわち、
「後腐れ無く、ぱっと美しく散り行く桜と違い、梅は花が朽ち果てるまで、枝にしがみついている。
その散り際は決して潔いとは言えないかもしれません。
けれど、たとえ無様に見えてしまったとしても、ぎりぎりの最後まで自らの生き様に執着することも、またひたむきな人生と言えるのではないかと思います。
そして、凛として咲き誇っていた時の薫り高さを、人は決して忘れない。
そんな梅の様と姜維の面影を、ふと重ねてみたくなるのは、私だけでしょうか」と。(→ 翠蓮さんの姜維評については、<こちら>をご覧ください)
彼の最期は、まさに、花が朽ち果ててなお、枝にしがみついている梅の花のようだったことでしょう。
決して美しくはない。世間の人からは、散り際を知らないとか無様だとか、さまざまな非難を浴びせられたかもしれません。
でも、彼はどうしてもあきらめることができなかったのです。劉備が築き、諸葛亮が守り抜き、自分が受け継いだこの国の未来を。見果てぬ夢の行く末を。
亡き師諸葛亮から託されたものを投げ出し、そこから逃げることなど、彼には考えられないことでした。
姜維が乱戦の中に斃れたとき、季節はようやくめぐり来た春。
成都では、紅梅白梅が高貴な香りを漂わせていたでしょうか。あるいは、満開からすでに盛りを過ぎた花たちが、枯れかけてなお枝にしがみついていたのでしょうか。
命尽きるその瞬間まで、姜維は前に向かって進んだはず。一歩でも、二歩でも、この足の動く限りは、と。そしてついに、前のめりに倒れたであろう、彼――。


思えば、何とひたむきな、まっすぐすぎるほど愚直で不器用な、あなたの生涯でしょう。
諸葛亮と出会い、見出されたあの日から、ひたすら戦い続けたあなた。
富貴を求めず、栄達も望まず、贅沢もせず、ただただ諸葛亮から託された夢の実現を目指して駆け抜けた男の生き様。そこには一片の私心もありません。
けれど、あなたの理念は理解されず、ついには国中から非難を浴びることになってしまいます。それでも、一言の言い訳をすることもなく、最期まで己の信念を貫き通したあなた。
後世の評価など、もとよりあなたには何の意味もないことなのでしょうね。

姜維伯約。
高峰の断崖に一本、凛然と咲く白梅のように、誇り高きあなたの姿を、私は決して忘れません。



I LOVE 三国志 目次へ

姜維鎮魂祭 目次へ