いにしえ夢語り浅葱色の庭言の葉しずく



翠雨の頃




届かない
どんなにこの手を伸ばしても
あなたの心はつかまらない

あなたは
鳥のように自由に
果てしない大空を翔けてゆくから

追いつけないよ――


だから

私は ただじっと息をつめて
あなたを見つめている

私の知らぬ間に
あなたが空の蒼に染まってしまわぬように
私の前から消えてしまわぬように

せめてその姿を胸に焼き付けようと
黙って見つめるだけ
どこまでも
追い続けるだけ



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「総司、何してる?」
「早く来いよ」
自分を呼ぶ声に、沖田総司は白昼夢のようなもの思いから覚めた。
「あ? ……ああ、ごめん」
目の前に広がるのは、田植えを終えたばかりの一面の稲の苗。瑞々しい緑が目にまぶしい。
その青田の中の一本道を、連れ立って歩いているのは、江戸にある天然理心流の道場 試衛館の居候たちだ。
原田左之助、永倉新八、藤堂平助。そして、少し遅れて沖田総司。
皆それぞれに剣の使い手ではあるが、総司以外は、天然理心流の門下生ではない。道場主である近藤勇の人柄か、いつの間にやら試衛館に出入りするようになり、そのまま居ついてしまった男たちだった。
総司は、近藤の師範代として、三日ほど前から、ここ武州日野にある佐藤彦五郎の道場へ出稽古に出向いている。他の三人は、といえば、何ということもない江戸での毎日に暇を持て余し、総司にくっついて来ているのだった。


「なあ、ほんとに土方さんに間違いないのか?」
藤堂が、前を行く永倉の背中をつつく。
「間違いねえさ。ありゃあ絶対にトシさんだった」
男たちが何を騒いでいるのかといえば、先刻永倉が、多摩川の河原へ向かう道で土方歳三の姿を見かけたというのだ。
土方歳三。試衛館の門弟で、沖田総司とは同門にあたる。もっとも、土方の方が総司より九歳年長だが、試衛館に入門したのは総司の方が早い。
武州石田村の豪農の末っ子に生まれた歳三は、姉ののぶが佐藤彦五郎に嫁いでいた関係もあって、若い頃から佐藤家に出入りしており、近藤勇(当時は宮川勝太といった)とはその頃から親交があった。
その土方が、若い女性と二人連れだったという永倉の話を聞いて、原田も藤堂も俄然色めきたった。
「あの土方さんが女連れだなんて、めずらしいこともあるもんだ」
妙に感心している藤堂に向かって、永倉が豪快に笑う。
「平助は知らねえだろうが、ああ見えてトシさんは女にもてるんだぜ。この辺りの女郎は、みんな顔なじみなんだそうだ」
「はああ……」
「確かに、商売女を連れて歩いてる、っていうんなら俺も驚かねえけどよ」
大仰に首をすくめたのは原田だ。
わいわい言いながら、てんでに盛り上がっている連中の後ろを、総司は黙ってついて行く。
やがて、道はゆるい上りになり、背丈ほどもある葦原を抜けると、すぐ目の前に多摩川の流れが見渡せた。土手の上に立つと、川面を渡る初夏の風が心地いい。風は、少し湿った緑の匂いを含んでいる。西の方から、しだいに雨雲が近づいているらしかった。


「ほら、あそこ」
永倉が小声でささやく。
そっと指差す方に目をやれば、総司にも、河原に佇む二人の男女の姿が見えた。
(確かに、土方さんだ。女の人は――よく見えないけど、お琴さん?)
一度きりしか会ったことはないが、土方歳三の許婚だという女性に、どことなく雰囲気が似ている。
その時は、勝気そうで、でも綺麗なひと、という程度の印象しかなかったその女性の名前を未だに覚えていたことに、総司は我ながら驚いた。
試衛館の悪たれどもに見られているとも知らず、二人は川面を眺めながら仲睦まじそうに寄り添っていた。ただ、それだけだ。
いつまで眺めていても、別に面白いこともない。引き上げようか、と原田が立ち上がろうとしたとき、突然、二人が言い争いを始めた。何をしゃべっているのかまでは聞こえないが、なにやらひどくもめているようだ。
そして。
「……っ!」
土方の頬に、女の平手が飛んだ。
「おわっ! 強烈――」
しゃがみこんだ原田が、思わず自分の頬に手を当てて顔をしかめる。
「俺、もうしばらく、土方さんと目を合わせられねえかも」と藤堂。
思いがけない成り行きに、覗き見していた男たちは、声もなくその場に固まってしまった。
仕方なく顔を見合わせたままじっとしていると、やがて土方は、まだ泣いているらしい女をそこに残して、どこかへ行ってしまった。
「永倉さん、俺たちも帰ろう」
土方の姿が消えるのを見届けて、藤堂がほっとした表情を見せた。
「そうだな」
やれやれ、といった顔で永倉が立ち上がる。
「雨になりそうだし、とっとと帰ろうぜ、新八さんよ」
ようやく普段の表情に戻った原田と藤堂に向かって、永倉が念を押すように言った。
「とにかく、今のことは俺たちだけの秘密だ。近藤さんにも、誰にも言うんじゃねえぞ」
土手を下り、元の田圃道を辿りながら、男たちは再びひとしきり盛り上がった。そうして街道筋の手前まで来たとき、そんな仲間の群れから、ふいと離れた影がある。
「おぉい、総司。どこへ行くんだ?」
「ああ、みんな、先に帰っててください。ちょっと用事を思い出したんだ。後からすぐに追いかけますから」
総司はそう言うと、ひとり今来た道を引き返し始めた。
「早く戻らねえと、雨になるぞぉ」
「着物濡らして、おのぶさんに叱られても知らねえぞ」
大声で呼びかける原田たちを振り返り、総司は春風のような笑みを返した。
「大丈夫だよ。雨に濡れても溶けたりしないからさ」
自分の言葉がおかしかったのか、ふふっ……とひとつ含み笑いをもらすと、総司は、いたずらっ子のように下駄を鳴らして駆け出した。


息を切らして先刻の場所まで戻ってみると、河原にひとり腰を下ろしているお琴の姿が見えた。
総司は、ちょっとためらい、それからおずおずと側まで歩いて行き、思い切って声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「………?」
突然声をかけられ、お琴はびっくりしたように振り向いた。ふっくらとした頬の、健康的な印象の娘である。
いぶかしげにこちらを見つめる目が赤い。ずっと泣いていたのだろう。
「すみません。驚かせちゃって」
総司はぽりぽりと頭をかいた。
なぜそんな気持ちになったのか、自分でも分からない。どうしても、お琴をあのまま放ってはおけなかったのだ。矢も盾もたまらず引き返してきたが、正直こういう場面には慣れていない。
「以前に一度お会いしましたね。お琴さん……でしたね?」
「あなたは――?」
お琴はますます怪訝な表情になる。そんな彼女に、総司は困ったような中途半端な笑顔を向けた。
「覚えてらっしゃらないかなあ。ほら、去年の秋に、土方さんと一緒にお宅で雨宿りさせてもらったんですが」
「ああ、あの時の……」
ようやく思い出したらしい。お琴の顔から警戒の色が解けた。
「沖田さん、とおっしゃったかしら」
「沖田総司です」
総司は、ぺこりと頭を下げると、少年のような笑顔を浮かべた。
名乗ったはいいが、さてこれからどうしたものだろう。次の言葉が見つからなくて困っていると、意外にもお琴の方から土方のことを切り出してきた。
「見てらしたのね、あたしと歳三さんのこと」
「すみません。覗き見するつもりはなかったんですが」
言い訳の半分は、嘘。
確かに、自分は覗きたくなかった。だが、仲間に引きずられて、見てしまったのは事実だったから。
そんな総司の困惑をよそに、お琴はぽつりぽつりと語り始めた。
「婚約を解消してくれ、って言われたの。自分は女の人を幸せにするような生き方はできないからって。男って、馬鹿よね。女にとって何が幸せかなんて、分かりもしないくせに。何もかも分かったような顔をして、何でも自分ひとりで勝手に決めて」
――男として生まれて、どうしても命を懸けてやりたいことがある、と土方はお琴に言ったらしい。
「これだけ世の中が乱れてくると、いよいよ自分の起つときが来たという思いがしてならないんだ。だが、もしそうなれば、生きてお琴さんのもとに帰れる確信もない。今まであなたの優しさに甘えて、ずるずると許婚という関係を続けてきたが、このあたりでけじめをつけたい」
反論しようとするお琴にその暇さえ与えず、「こんな男のことはきれいさっぱり忘れて、幸せになってくれ」と深々と頭を下げたのだという。
「気がついたら、思いっきりトシさんの頬っぺたを叩いてたわ」
川面に視線を投げたまま、お琴がくすりと笑った。


いつの間にか日が翳り、葦の葉を揺らす風が強くなった。
「雨になりそうですね」
「………」
お琴は黙って、川向こうの空を覆う雲を見つめている。
やがて、ぽつんと落ちた雨粒が水面に波紋を広げたかと思うと、さあっと細かい雨が降ってきた。
総司とお琴は、急いで土手を下り、畦道の中に建てられた野小屋の軒下に駆け込んだ。
「あーあ。濡れちゃいましたね」
「大丈夫。暖かい雨だから、風邪をひいたりはしないわ」
「暖かい雨か――」
ちょっと考えるようにして、総司が言った。
「お琴さん、知ってますか? こういうの、翠雨(すいう)っていうんですって」
「翠雨?」
「ええ。翠(みどり)の雨と書いて翠雨。この季節、草木の青葉に降って成長を促す雨のことなんだそうです」
「そう。暖かくて、優しい雨なのね」
お琴は空から降り注いでくる銀のしずくを見上げながら、小さくつぶやいた。
「沖田さんって物知りなんですね」
あ、という顔で、総司が答える。
「土方さんに教えてもらったんですよ」
「歳三さんに?」
「ほら、あの人、柄にもなく俳句を詠んだりするじゃないですか。だからかなあ、そういうことに結構詳しいんですよ」
――ほんとに土方さんらしくないですよね、と総司ははじけるように笑った。
そんなやり取りの後、ふいに振り向いたお琴が、じっと総司の顔を覗き込んだ。
「ねえ。あなたもトシさんを追いかけてるの?」
「え?」
それは、不意打ちだった。
(追いかけてる? あなたも? それってどういう――?)
お琴の言葉の意味が分からない。
総司を見つめるお琴の眸子は、不思議な色をたたえている。
「あなたを見たとき思ったの。ああ、このひともあたしと同じだ。届かないものを追いかけてる、って」
「お琴さん……」
初めて――。
自分の心をそのように言い当てられたのは、初めてだった。

もしかしたら俺は、ずっと歳三さんを追いかけてきたんだろうか。
どんなに手を伸ばしても、決してつかまらない自由な魂。いかなる価値観にも拘泥せず、何ものにも縛られない強さ。
きっと俺は、そんな歳三さんの生き様に憧れ、追い続けてきた。初めて出会った少年の日から、ずっと。

今まで気づかなかった己の胸中に初めて思い当たって、総司は愕然とした。
(俺と同じ、か……。俺もこのひとも、最後まで追いかけ続けるしかないんだな)
たとえそれが、決して報われることのない夢だとしても――。


「あたしには、あの人の心は縛れないの。許婚って何? そんな枷で繋いだところで、歳三さんを引き留めることなんてできやしないわ」
ひとつ屋根の下で雨宿りをしている男女が、同じ一人の男を追い求めているというのも、妙な話だ。
優しい雨は、そんな二人の想いを包み込むように、ひそやかに降り続けている。
「あのひとを繋ぐなんて、誰にもできはしませんよ」
「分かってる。だからあたし、縛ることは諦めて、待ってることにしたの」
お琴は肩をすくめ、ふふっと楽しそうに笑った。
「婚約は解消しない。迷惑だって言われようが、あたしは死ぬまでトシさんの許婚でい続けるつもり」
――これだけは譲れないんだから、と総司に向かって胸をはった。
「あなたはどうするの?」
「私は、土方さんについて行きます。どこまでも」
総司は、きっぱりと言った。
届かなくてもいい。捕まえられなくてもかまわない。許される限り、これからも、ずっと追い続けるだろう。あの人を。
「ほんとに、そういうことをさらっと言えるあなたがうらやましいわね」
お琴は、ほうっとため息をつくと、ほんの少し寂しげな微笑を浮かべた。
「あたしは――、待ってるわ。いつかトシさんが、ここに帰ってくる日を信じて」
いつの間にか雨はあがり、西の空が茜色に滲んでいる。
ちぎれ始めた雲間から差す夕陽が、お琴の頬を美しく染めた。


◇◆◇


その翌年二月、近藤勇ら試衛館の男たちは、幕府の浪士組徴募に応じて上洛する。その中には、もちろん土方歳三、沖田総司の姿もあった。

こうして、お琴の、歳三を待つ日々が始まる――。




2008/3/25


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