いにしえ夢語り浅葱色の庭言の葉しずく



私が笑っていられるのは




元治二年三月。春うらら――。
菜の花畑を蝶たちがせわしなく飛び交い、洛西壬生村はおだやかな陽光に包まれている。
新選組屯所の一室で、沖田総司はぼんやりと、縁側から空に浮かぶ雲を見ていた。
突然せわしない足音がしたかと思うと、庭の籬(まがき)から顔を出した土方歳三が、にこりともせずに言った。
「総司。花見に行くぞ。仕度しろ」
「はあ?」
どこへ――? と聞く暇もなく、土方はもうさっさと歩き出している。
「どこへ行くんです?」
あわてて刀を取り上げ、後を追いかけながら総司は尋ねた。
「黒谷。会津の公用方からお呼び出しだ」
「なあんだ。やっぱり仕事じゃないですか」
土方の背中に向かって、思いっきり不満げな声を上げる。土方はようやく立ち止まると、照れたような顔で振り向いた。
「俺は公用だがな。お前は非番だろ。白川あたりの桜が見頃だそうだ。ごちゃごちゃ言ってないで、付き合え」


京には桜の名所が多い。
洛中洛外に点在する社寺の境内はもとより、この季節には都全体が薄桃色の霞に包まれたようになる。
白川のほとりも、そこここで満開の桜が川面に枝を垂らしていた。
「花、どうどすぅ。花、いらんかえぇ――」
橋を渡っていく大原女の声も、心なしか艶っぽく響く。
「わあ! こいつはすごいよ、土方さん」
春風が梢を揺らすたび、花びらが視界一面に舞い散り、総司は少年のような歓声を上げた。
「はしたなく騒ぐんじゃねえよ」
相変わらずの仏頂面ながら、土方の声もどこか弾んでいるようだ。
「無理やり引っ張ってきてもらってよかった。目の保養ですね」
「たまには表へ出て日に当たらねえと、屯所の天井ばっかり眺めてちゃ、かびが生えちまうだろ」
空気までが、ほんのりとした桜色に染まって見える。
その下を、総司と土方は並んで歩いた。
「見せたかったな」
「ああ……」
ふとつぶやいた総司に、土方がうなずいた。
――山南さんに。
という言葉を、総司が飲み込んだにもかかわらず。


総長山南敬助が、脱走の罪で切腹して果てたのは、二月二十三日のことだ。
山南は以前から、新選組の在り方に対して不満を感じていたようだ。同門(北辰一刀流)の伊東甲子太郎に近づいていた気配もある。
それにしても、彼の出した結論がなぜ「脱走」だったのかは、未だに謎のままだ。
「局を脱するを許さず」
局中法度書を破れば、即ち切腹である。総長といえど例外ではありえない。
総司に山南の追手を命じたのは、土方だった。総司は大津の宿で山南に追いつき、屯所に連れ戻し、さらには切腹の介錯をした。首を落としたときの感触が、まだ身体のどこかに残っていた。
あの日、壬生の里には遅い春の雪が降っていた。
あれから十日あまりしか経っていないのに、季節はもうすっかり春の盛りだ。
――とうとう今年は、桜の花を見ることができなかったな。
大津の宿で過ごした最後の夜、山南は寂しそうにつぶやいた。諦観をたたえた静謐な笑顔で。総司に、というより、自分自身への言葉だったのだろう。
山南の死は、新選組にとって大きな衝撃だった。ことに試衛館以来の仲間たちには、釈然としない思いが残った。伊東一派の台頭とあいまって、以来なんとなく隊内にはぎくしゃくしたものが流れている。


会津藩本陣が置かれている黒谷の金戒光明寺の境内にも、桜の古木が見事な花を咲かせていた。
土方が公用方の役人と会っている間、総司は案内された部屋を抜け出して、桜の花を飽きずに眺めていた。
総司はこのところ体調がすぐれず、気分もふさぎがちだった。自分で思っている以上に、山南のことが影を落としているのかもしれない。
見かねた土方が、花見にことよせて外に連れ出してくれたのだろう。土方は土方なりに、山南の死を重く受け止めているのだと思いたかった。
(俺に気を遣ってくれるなんて――。らしくないよ、土方さん)
胸の中でつぶやいて、総司ははっと顔を上げた。

土方に、余計な気を遣わせたりしてはいけない。
自分は土方のために、土方とともに生きていくと決めたのだ。そのためなら、どんな過酷な運命にも、心の痛みにも耐えられる。自分でそう決めたのだから。

見上げた視線の先、青空に溶けこむ花の色が、あざやかに目にしみた。


「総司。こんなところにいたのか」
土方の声に、総司は振り向いた。あきれるくらい屈託のない笑顔で。
「桜色に染まるくらい花の近くにいたら、桜の精になれるかなと思って」
「お前、気は確かか?」
「あはは。そしたら毎晩土方さんの夢枕に立ってあげますからね」
馬鹿言ってねえで帰るぞ、ときびすを返した土方の背中に、総司がそっと手を伸ばす。だが、その手は土方に触れることなく、宙に止まった。
花びらが、ひとひらふたひら風に舞う。
手のひらに落ちてきた一枚の花びらを、総司はそっと握り締めた。
(山南さんの死も、今までこの手にかけてきた人たちの命の重さも、しっかりと受け止めて、そして乗り越えていきますよ)
先を歩いていた土方が、総司を見て微笑した。
「ちっとは元気が出たか? 総司」
「私はいつだって元気ですよ」
「ああ、そうだな」
連れ立って歩く二人の肩に、桜は優しく舞い落ちる。
いとおしむように。包み込むように。


――私が笑っていられるのは……ね。
土方さんと同じ場所に立っているから、ですよ。



2007/3/28




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