いにしえ夢語り蜀錦の庭言の葉つづり


托 生 −奇しき縁(えにし)−




魏の嘉平元年(蜀漢の暦では延煕十二年)。
征蜀護軍の地位にあった夏侯覇仲権が、突如、魏を出奔して漢中に亡命した。
それは、魏にとっても蜀にとっても青天の霹靂だったが、知らせを受けた姜維伯約の胸は、わけもなくざわついた。
魏の重鎮として関中を守っていた夏侯覇とは、これまで幾度も戦場で干戈を交えてきた仲である。颯爽と指揮を取る夏侯覇の勇姿を思い起こし、姜維は複雑な思いにとらわれずにはいられなかった。その境遇が、いやでもかつての自分の姿を思い起こさせたからだ。
蜀漢の丞相 諸葛亮孔明が起した魏討伐の戦。当時姜維は、魏の中郎将として、太守とともに天水を守っていた。
その攻防戦のさなか、太守に内通を疑われ、敵中に孤立した姜維は、自分に従う将兵たちの命を救うべく、やむなく諸葛亮に投降したのだった。
(あのとき私は、死を覚悟していた――)
諸葛亮とは不思議な縁があり、以前から心の師と仰いでいた姜維だった。それでも、一旦魏に仕えると決めた以上は、一命にかえてもこの地を守り抜かんと、固く心に誓っていたのである。
その身に、あろうことか謀反の疑いがかけられるとは。
昔日の深い絶望と虚無感を、二十年たった今でもはっきりと覚えている。


◇◆◇


やがて夏侯覇は、わずかばかりの部下とともに、姜維のいる南鄭城に護送されてきた。
とりあえず一党を城内の一角に落ち着かせてから、姜維は心尽くしの宴を開いて夏侯覇をもてなした。
「夏侯覇どの、よく参られた。これからはここを我が家と思うて、遠慮なくお過ごしくだされ」
「かたじけのうござる」
傷心の降将は、感情のない声で礼を述べ、淡々と頭を下げた。逃亡戦の際に負ったと思われる傷痕が痛々しい。
「どのような事情であれ、あなたが我が蜀漢を選んでくだされたこと、うれしく思います」
「別に、選んだわけではない。こうするしか、道がなかったのだ」
「………」
宴席に沈黙が落ちる。
己の身に起こった不幸な運命を、彼は未だ受け入れられずにいるのだ、と姜維は思った。
「私ごときが何を申し上げても、将軍のお心のなぐさめにはなりますまい。見え透いた世辞は申しません。今はただ、何もかも忘れ、お心を静めて、ゆるりとご逗留なされませ」
魏の明帝(曹叡)の死後、宮廷の実権を握ったのは、宗室に連なる曹爽だった。しかし、やがて彼は、対立する司馬懿のクーデターによって政権の座を追われ、一族すべて滅ぼされてしまう。
この「正始の変」以後、魏帝の力は目に見えて衰退していくのである。
夏侯氏は、魏国では曹氏と並ぶ地位にあり、夏侯覇もまた、縁戚に繋がる若き俊英として順調に出世の階段を上っていた。彼の父は、建国の功臣 夏侯淵である。名族中の名族といっていい。魏帝の地位を簒奪しようと企てる司馬懿にとって、夏侯覇の存在は邪魔なものでしかない。
突如、都への召還命令を受けた彼は、身の危険を悟り、わずかな手勢を連れて関中を脱出する。魏を追われた彼が落ち行く先は、昨日までの宿敵、さらには父夏侯淵の仇敵である蜀の他にはなかった。


次の日の夕刻、姜維は夏侯覇の宿舎を訪ねた。
特に用があったわけではないが、昨夜の彼の様子が、何とはなしに心にかかって離れなかったのだ。
夏侯覇は、夕闇が迫る部屋の中で、一人ぽつねんと座っていた。憔悴しきった顔で、ただ茫然と己の手を見つめる姿に、姜維の胸が疼く。
(あの日の私も、こんな顔をしていたのだろうか――)
苦い思いを胸の奥で噛みしめながら、姜維はできるだけ穏やかな表情で声をかけた。
「ご不自由はありませぬか? 何か足りぬものがあれば、遠慮なくお申し付けくだされ」
「―――」
不意の訪問者に向けられた夏侯覇の視線は、何の感情も表していないように見えた。その顔で、ふっと小さな溜息をつくと、彼は薄い笑みを片頬に刷いた。
「姜維どのか。あなたとは、なぜか他人のような気がしないな」
それは、聞きようによっては嫌味とも取れる。
「はい。将軍もご承知でしょうが、私もかつて魏に仕えておりました」
夏侯覇の横に腰を下ろした姜維は、淡々と言葉を継いだ。
「姜伯約の名は、魏国では、不義不忠の裏切り者、忘恩の大罪人として聞こえておりましょう。ですがそれは、ここ蜀漢にても同じこと。たとえどのような理由があったとしても、一度武士(もののふ)としての道を踏み誤った者には、世間の目は冷たいものです。あなたには、その屈辱を耐え忍ぶ覚悟がおありですか?」
夏侯覇の体がこわばる。ぎり、と奥歯が軋んだ。
構わず、姜維は畳みかける。
「私のようなとるに足りぬ者ならいざ知らず、夏侯将軍ほどの地位と名誉のある方にとって、此度のことは筆舌に尽くしがたい屈辱でありましょう。まして蜀は、将軍にとっては父上の仇、不倶戴天の仇敵。これに膝を屈するご無念はいかばかりかと推察いたします。しかしそれ以上に、裏切り者の烙印を一生背負っていかねばならぬ辛さは、耐え難いものと言わねばなりませぬ」
『裏切り者』という言葉に、夏侯覇はひどく動揺したようだった。
己が忠誠を捧げてきた故国。その簒奪者に対して反旗を翻すことが裏切りになるとは、どう考えても理不尽ではないか――。
夏侯覇は、苦渋に満ちた沈黙を破り、大きなため息をついた。
「私は、何を間違えたのであろう? 我が一族が命を懸けて守ってきた魏の国が、まさかこんなことになろうとは……」
「世の中とは、常に理不尽なものです、仲権どの」
失意の夏侯覇に、姜維はあえて字で呼びかけた。
「あの時、私も今のあなたと同じように、すべてを失った絶望に自失しておりました。後先のことなど考えることもできず、ただただ後悔と慚愧に苛まれ、己の生きる意味をも見失っていました。けれど、その時私には、幸いにもこの身を導いてくださる偉大な方がいらっしゃったのです。その方のおかげで、私は再び立って歩き出すことができた――」
「諸葛孔明どのか」
「はい」
誇らしげにうなずく姜維の顔を、夏侯覇がまぶしそうに見つめる。
亡き恩師のことを語るとき、姜維はいつも我知らず饒舌になるのだった。

――諸葛丞相と出会い、私は初めて自分が生きる意味、進むべき道を知った。
――丞相に、この命、いやこれから先の己の生き様のすべてを捧げようと思った。

「仲権どの、あなたは宿縁というものを信じておられますか。その人と出会うことで、己が運命が決まってしまう。それを宿縁というのなら、私が蜀の諸葛丞相に降ったことこそ、宿縁だったといえるでしょう」
そうして姜維は、屈託のない眸子で夏侯覇に微笑みかけた。
「願わくば、将軍にとってこの出会いが良き宿縁になれば、と思います」
「………」
あざやかすぎる笑顔に、夏侯覇は一瞬言葉を失い、そっと視線をそらした。
すっかり暗くなった部屋の中、座がしんとする。彼のために紡ぐべき次の言葉が見つからない、と姜維は思った。
これ以上ここにいても、夏侯覇の負担になるだけだろう。
「今日はこれで失礼いたします。明日はぜひ、拙宅へお越しくだされ。ささやかながら成都から取り寄せた酒肴を用意しておきますゆえ」
姜維は、燭台に灯を入れるように人を呼んだ。そして、できるだけ明るく振る舞いながら、その場を辞したのだった。


◇◆◇


その夜。
夏侯覇はなかなか寝付けなかった。
突然我が身を襲った不幸。訳も分からぬままに過ぎた逃避行。怒り、悔しさ、情けなさ。様々な思いが胸の内に渦巻いて、いつしか彼は獣のような唸り声をあげていた。
その時ふいに、脳裏に浮かんだ顔がある。

――将軍にとってこの出会いが良き宿縁になれば、と思います。

屈託のない姜維の笑顔が、暗闇の中であざやかによみがえった。
真摯に己の過去と現在を語ってくれた彼の言葉が、夏侯覇の荒んだ心にさざ波を立てる。
かつて、自分と同じ絶望に打ちのめされたであろう彼。姜維ならば、わが胸のこの痛み、この闇を分かってくれるのだろうか。
姜維は、諸葛亮との出会いを運命と信じ、その宿縁のために己のすべてを捧げると言った。
(あの男を、これほどに突き動かす情熱とは、一体どのようなものなのだ? それが分かれば、私ももう一度、あの男のようにまっすぐなまなざしで生きられるのか――)
空が白む頃まで、ひたすら己の心と向き合い続ける夏侯覇だった。


やがて、成都の蜀帝劉禅から、夏侯覇を都に上らせるようにとの使いが来た。
「仲権どの、大丈夫。何もご心配にはおよびません。陛下の皇后様(張飛の娘)は仲権どのの縁戚にあたられるお方です。宮廷でもさぞかし歓待されましょう」
その日も姜維は、いつも通りの穏やかな表情で、夏侯覇と酒を酌み交わしていた。
漢中に留まること十日余り。ようやく胸襟を開いて語り合うことができるようになった二人である。
夏侯覇には、酔いとともにしだいに昂ってくる思いがあった。おもむろに居住まいを正した彼は、姜維の前に向き直ると、
「私はあなたに礼を言わねばならん」
深々と頭を下げた。
「何を――?」
「言わせてくれ。あなたに出会えた僥倖に、この宿縁に、心から礼を言う」
「仲権どの……」
「これから先、裏切り者がどのような末路を辿るのか、それは誰にも分らぬ。だが少なくとも、絶望の底で立ち上がることはできた。何も見えなかった暗闇の中に、ひとつの灯りがともった。あのまま生ける屍となり果てるしかなかった己の魂を、あなたが救ってくれたのだ」
それならば、と夏侯覇は、初めて見せる晴れ晴れとした顔で言った。
「己が生きる道はひとつしかない」
濁りのないまっすぐな視線が、姜維に向けられている。
「姜伯約どの。これより私は、あなたを我が標としよう。あなたの夢を我が夢としよう。あなたが孔明どのにすべてを託したように、私はあなたに、我が生を託しましょう」
夏侯覇の言葉に、遠い日の自分自身の誓いがよみがえり、姜維は目蓋を熱くした。
「………」
「今日この日より、夏侯仲権、この命を蜀と伯約どのに捧げまする」


二人の男の奇しき縁が、ここに始まる――。




2017/1/12




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