いにしえ夢語り浅葱色の庭言の葉しずく



存在理由 −私のいる場所−


[1]

元治二年が慶応元年と改元された年の三月。
新選組は、浪士組として上洛して以来屯所を構えてきた壬生村から、西本願寺へと移った。
隊士も増え、壬生村の屯所では手狭になったというのが移転の理由であったが、当時、倒幕派の浪士たちに公然と肩入れしていた西本願寺に対する嫌がらせの意味も、多分にあったかもしれない。
移転に強く反対していた総長 山南敬助が、脱走の罪で切腹してから、二十日もたたぬうちのことだった。



その年五月。京では、真夏を思わせる暑い日が続いている。
「斎藤さん。土方さん知りませんか?」
「いいや――」
新しく移った屯所の自室で、ひとり刀の手入れをしていた斎藤一は、息せき切って飛び込んできた背の高い若者を見上げた。
沖田総司。新選組一番隊組長にして天然理心流免許皆伝。
いつもにこにこ笑っていて、とりとめのないこの若者が、実は、三番隊組長を務める斎藤と並んで、新選組の双璧と呼ばれるほどの剣の達人であると聞けば、知らぬ者はみな驚くであろう。
「おっかしいなあ。行く時は声をかけてくださいって、あれほど言ってたのに」
沖田は、やっていられない、といった顔でため息をついた。
「またひとりでどこかへ出かけたのか?」
「ほんとにあの人ときたら、自分がどういう立場にいるかってことを全然分かってないんですよ」
「だから、あんたが警護するように言い付かったんだろう」
「ああ、いやになるなあ。もし何かあったら、私が近藤先生に叱られるんだから。しょうがないなあ。ちょっとその辺りを捜してきます」
ぶつぶつ言いながら沖田が部屋を出て行くと、入れ替わりに奥の間へ続く襖がからりと開いて、当の土方歳三が顔を出した。
「総司の奴、行ったか?」
「ええ」
「勘の鋭い奴だ。何で俺がここにいるかもしれないって思ったんだろう?」
「そりゃあ、あれだ。沖田くんには土方さんの匂いがわかるんじゃないかな」
「どういう意味だ?」
予想外に鋭い一瞥が飛んできて、斎藤は思わず首をすくめた。
(おっと、いけない。土方さんにはこの手の冗談は通じないんだった)
さりげない顔で軽く咳払いをすると、斎藤は、姿勢を正すようにして刀を鞘に収めた。


沖田の足音が遠ざかってからも、土方はしばらくの間、斎藤の横に腰を下ろして声をひそめていた。
「全く、ああべったりと付いてこられたんじゃ、馴染みの女のところへも行けやしねえ。息がつまっちまう」
「沖田くんがかわいそうですよ」
「ああ?」
一瞬、土方は、ぽかんとした顔で斎藤を見つめた。
「何が何でも土方さんを護らなきゃ、って一生懸命なのに」
「馬鹿言え。自分の身ぐらい自分で護れるさ。あいつの方こそ、無理しちゃならねえ身体だってのに」
土方のまなざしが急に優しくなり、斎藤は(ああ、そういうことか)と納得した。
今年に入ってから、沖田は体調がすぐれない。
春先に引いた風邪が長引いている、というのが本人の弁だが、局長 近藤勇や副長 土方歳三を始め、隊内の幹部連中の多くは、沖田が労咳を患っていることを知っていた。
養生しろ、と言っても聞くような男ではないので、近藤も土方も半分あきらめて、本人の好きにさせている。
沖田が行ってしまったのを確かめてから、土方は腰を上げた。
「すまなかったな、斎藤くん」
「いえ。またいつでも隠れに来てください――」
冗談まじりに言いかけてから、斎藤は、
「それよりも土方さん、どこかへ出かけるおつもりなら、私がお供しましょうか」
思い出したように、土方の背中に声をかけた。
突然の提案に、土方はしばらく思案している風だったが、
「そうだな。では、頼もうか。世話をかけてすまんが」
「何の。どうせ非番で暇を持て余していたんですから。私なら、女の所でもどこでも、遠慮はいりませんよ」
「残念だが、そんな色っぽい話じゃねえよ」
土方は、整った口元に、甘いような苦いような曖昧な笑みを浮かべた。



その日、土方歳三が斎藤一を連れて向かったのは、東山の麓、鳥辺野の墓地だった。
鳥辺野。
西本願寺からは、まっすぐ東の方向にあたる。
阿弥陀ヶ峰の山麓一帯に広がるこの辺りは、北の蓮台野、西の化野と並んで、古くから京の葬送の地であった。かつては、遺骸をこの地に捨てて鳥葬にしたといわれている。鳥辺野の名も、そこからきたのかもしれない。
五条坂を上っていくと、やがて景色が開けた。
墓地といっても陰鬱な影はなく、目に痛いほどの日差しの中、からんとした明るさが空間を占めている。
その空間のところどころに、白い墓石や木の墓標がまぶしく光っていた。
土方は、墓地の入り口に建つ小さな寺で桶と柄杓を借り、墓の中へと入っていく。
「墓参り、ですか?」
黙々と先を歩いていく土方に、斎藤が尋ねる。その声には、意外な、という響きがあった。
後ろを振り向いた土方は、照れたような顔で答えた。
「まあな。退屈だろうから、君は外で待っていてくれてもいい」
「いえ、私も行きますよ。土方さんがお邪魔でなければ」
「好きにしろ」
やがて土方は、ひとつの真新しい墓標の前で立ち止まった。
「土方氏縁者」としか記されていない墓標に、土方は水と線香を供えると、しばし黙祷を捧げた。
誰が葬られているのか。土方とどんな縁(えにし)がある者の墓なのか。
何も分からぬまま、斎藤も並んで手を合わせる。
ようやく顔を上げた土方が、ぽつりとつぶやいた。
「これは、生前俺が世話になった女の墓だ」
「土方さん。それって、もしかして?」
「長州に所縁の女だったが……、最期まで俺を裏切らなかった。そして、俺をかばって死んだんだ」
「千穂、というひとですね」
かつて土方が愛した女の話を、斎藤は沖田から聞いて知っていた。
女は元長州脱藩浪士の妻だった。夫は新選組に斬られて死んだのだという。偶然知り合った土方と恋仲になり、その恋に殉じて命を落としたのである。
無縁墓に葬られるはずだったその女の遺骸を引き取り、この寺で供養してもらえるように取り計らったのは土方だった。
「今日は、千穂の月命日なんだ」
「そうでしたか」
なぜ土方は、ここに来ることを沖田には内緒にしておきたかったのか。そして、なぜ自分には付いてくることを許したのか――。
前を歩く土方の背中を見つめながら、斎藤はぼんやりとそんなことを考えていた。


墓参を終えた二人は、鳥辺野から音羽山の麓へと続く細い坂道をたどっていた。
山懐に入るにつれて緑が濃くなり、やがて道は清水寺の境内に入る。
音羽の滝の前まで来て、斎藤は急に喉の渇きを覚えた。
「土方さん。そこの茶店で一服しませんか」
「ああ。ちょうど俺もそう言おうと思っていたところだ」
団子と茶を注文し、二人は、店先の毛氈を敷いた床几に並んで腰を下ろした。参詣の男女が数人、にぎやかに茶店の前を通り過ぎていく。
ほどなく熱い番茶と茶団子が運ばれてきた。
串にさした団子をほおばりながら、土方がぽつりとつぶやいた。
「総司には、余計な気を使わせたくねえんだ。千穂が死んだ時、あいつも側にいたんでな」
「そうですね」
土方と千穂の間に何があったのか、そして沖田が二人とどんな関わりを持っていたのか、斎藤は詳しくは知らない。しかし、沖田が土方にひたむきな思いを寄せていることだけは、ずっと以前から気づいていた。
(土方さんと沖田くんは、お互いに相手のことが分かりすぎて、かえって余計な気を遣い合ってしまうんだな)
他人から見れば、そんな二人のやりとりは、滑稽でもあり、ほほえましくもある。そしてほんの少し、うらやましくもあった。
「君にはとんだ迷惑をかけてしまったな」
「とんでもない。土方さんと京見物ができて楽しかったですよ」
斎藤の軽口に、土方も思わず破顔する。
「――馬鹿野郎」
この男にしてはめずらしく、土方は翳のない笑顔で照れた。



それから三日ばかりたった日の午後。
相変わらず斎藤は、自室で刀の手入れに余念がない。
西本願寺の屯営は、壬生よりも広くなった分、幹部にはそれぞれ個室が与えられていた。それはいいのだが、どうしても一人で過ごす時間が多くなる。ことに非番の日など、休息所(妾宅)もない斎藤は、手持ち無沙汰で困ることもしばしばだった。
(他の連中とひとつ部屋で、わいわい騒いでいた頃が懐かしいな……)
そんな思いにふけっていると、沖田が、今度は噛み付きそうな勢いで飛び込んできた。
「斎藤さん!」
何気なく振り向いた斎藤の鼻面に、沖田がものすごい形相で肉薄する。
「この前、私に嘘をつきましたね」
よほど興奮しているのか、色白の頬が紅潮している。
「どうしたんだい? 藪から棒に」
「あの時、本当は、土方さんは一さんの部屋にいたんでしょう?」
「ああ、あれか」
「そしてその後、二人で出かけた――。私一人のけ者にして!」
「は……」
おいおい、と斎藤は心の底であきれ果てた。
(こいつは、とんだとばっちりだ。これじゃまるで、俺が総司を出し抜いて副長を連れ出したみたいじゃないか)
別に二人がどう揉めようと知ったことではないが、痴話喧嘩に巻き込まれるのは願い下げだ。
「まあ、落ち着けや」
斎藤は淡々と刀を鞘に収めると、まっすぐ沖田の方に向き直った。
「別に、お前さんをのけ者にした訳じゃないさ。成り行きでそういうことになっちまったんだが」
「………」
沖田はじっと唇を噛んで黙り込んでいたが、ようやく入ってきた時の興奮が冷めたのか、
「すみません」
ばつの悪そうな顔で小さく謝った。
上目遣いに斎藤を見つめる表情は、悪戯を咎められた少年のようで、見ている斎藤の方が妙にやるせない気持ちになってしまう。


沖田と斎藤は同い年である。だが、落ち着きすぎる印象のせいで、歳よりも幾分老けて見られる斎藤に対して、沖田はずいぶん幼く見える。
見るからに厳つく、一癖も二癖もある連中に混じると、華奢な沖田はひときわ頼りなさげに見えた。
(こいつが、剣をとれば鬼みたいになるんだからなあ)
試衛館の頃からの付き合いだが、沖田という若者は、未だに斎藤にとっては不思議な存在だった。
ふだんのかれは、これといって自己主張もせず、かといって陰気という訳でもない。
よく言えば純粋で屈託がない。少年がそのまま大きくなったような印象を受けるのだが、決してそれだけではないことを、斎藤は知っていた。
新選組を結成して間もない頃、壬生屯所の道場では、沖田に稽古をつけてほしいという希望者が殺到した。かれほどの腕前の相手にはなかなか巡り会えるものではないから、腕に覚えのある隊士なら、一度は手合わせしてみたいと願うのは当然のことだろう。
が、しばらくすると、志願者はほとんどいなくなった。
沖田の稽古が厳しすぎるのである。とても「稽古をつける」などという生易しいものではない。
沖田に挑んで痛い目に遭わされた隊士たちからは、「沖田さんは、剣を持つと人が変わってしまう」と恐れられたが、斎藤から見れば、人が変わるのではなく、それこそが沖田の本質なのだ。
いつどんなときも、剣を取ればすなわち、斬るか、斬られるか。真剣であれ竹刀であれ、また相手が誰であろうと、かれの一剣に込める気迫は、絶対不変であった。
そんなわけで、いつの間にか、道場で沖田と竹刀を交えるのは、斎藤や永倉新八、藤堂平助といった試衛館以来の幹部だけになってしまった。
「沖田くん。お前さんもたまには気を抜いたらどうだ」
「どういう意味です?」
「何もかも、自分ひとりで背負い込みすぎるな、ってことさ」
斎藤の真意が伝わったのかどうか、沖田は微妙なため息をつく。
「土方さんだって、子どもじゃない。いざという時は、己の身を守る術くらい心得ているだろう」
「………」
不意に、眼前の若者の雰囲気が変わったように感じて、斎藤は目を上げた。
いつもどおりの飄々とした笑顔の沖田がそこにいた。だが、その全身からは、明らかに先刻までとは違う透明な闘気が立ち上っている。
「斎藤さん。ご忠告ありがとうございます。だけど――」
と、彼は微笑んだ。
「土方さんは、私が護る。近藤先生からも、そう言い付かっています。もし、あの人に何かあったら――」
沖田は次の言葉を飲み込んだが、斎藤には「私も生きてはいませんから」というかれの声が聞こえたような気がした。

――はあ。

部屋を出て行く沖田の後姿を見送りながら、斎藤は小さく息をついた。
(難儀なこった。今の総司は、土方さんのために生きることでしか、己の存在理由を見出せないんだろうな)
飄々とした外見に似合わず、沖田という若者は複雑だった。
その人懐こさにだまされて不用意に触ると怪我をする、そんな研ぎ澄まされた刃物のような鋭さを持っている。そして斎藤には、かれが労咳を患ってから余計にその陰影が増したように思われるのである。
むろん自分とて、明日の命も分からない世界で生きている。だが、それは「分からない」のであって、明日を「望めない」のではない。
沖田総司には、未来がないのだ。
近い将来、確実に訪れる「死」。かれがどんな思いでその現実と向き合い、どんな決意で己の命と折り合いをつけたのか。斎藤には分からない。
開け放した縁側から見える空には、わだかまる夏雲がまぶしく輝いている。



<2 に続く>

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